第9話 人と魔族

「なんでもですか?」

『うむ、なんでもだッ!』


 なんでも一つ願いを叶えてくれるというフラムの言葉に、ヨハネスは亡き母を思い浮かべていた。


 人はいつかは必ず無に還るということは理解している。黄泉の国へ渡り、死んだ人間を呼び起こすことは禁忌であることも。


 だが――まだ12歳と幼い子供にとって、母親が絶対的な存在であることもまた事実。たとえ禁忌であったとしても、そこに手を伸ばしたいと願ってしまうものではないだろうか。

 ましてや不思議な力を有する精霊に、なんでも一つだけ願いを叶えてやるなどと甘い言葉を囁かれたならば尚のこと、そう思案するのが欲深き人間の性である。


(母上……)


 しかし、それと同時に思い出すことがある。


 あの日、泣いていた女の子にキャンディ一つあげられなかった無力な自分。思い出すと胸の真ん中辺りがチクチク痛みはじめる。


 何かが心の内側でかすかに暴れだしていく。

 それが次第にもっとずっと苦しいものに変わりはじめると、やがて想いは蒼い瞳の中にあふれ出す。


「さて、人は死の間際、一体どのようなことに思いを馳せると思う?」


 剣聖マーベラスの言葉が思考の宇宙で流星となって光った。


「それは悲願を成し遂げたものだけが見る幸福な最後の夢――」

「志し半ばで散ってしまったことを悔やんで――」

「そんなマリーヌさまだからこそ、世界を救いたいと――」


 思考という名の無限の宇宙。

 そこでぷかぷか浮いては立ちすくむヨハネスは、彼方から無数の光が流星群となって降り注ぐ光景に瞠目していた。


 なかでも一際大きな輝きを放つ願いが、あの日のようにヨハネスに力強く語りかけた。


「皇帝になりなさい、ヨハネス!」


 後悔のない人生を歩めという母からのメッセージ。


 閉じた瞼の裏側で、少年は何を見、何を想ったのだろう。


「僕を……僕を世界皇帝にできますか?」

『…………』


 目を見開き願いを口にする少年に、フラムはなにも答えなかった。


 ただその真意を探るように蒼を見つめて、眉根を寄せる。

 ユイシスは少年のまさかの願いに脱帽する。


 世界皇帝とは、つまり世界統一。

 それは世界に革命を起こし、世の理さえも変えてしまいたいと願う、飽くなき向上心からくるもの。


 お人形さんのような娘が願うにはあまりにも大それた夢であり、見事な野心といえた。


『よかろう。魔王の下に世界皇帝という座を設けてやろう。それで問題あるまい?』

『あんたそれインチキじゃない!?』

『喧しいわァッ! 俺が魔王に返り咲いたならば、どの道この世は俺のものッ! それを俺がどうしようが俺の自由だァッ! 人族ミムルの王はヨハネスッ! 貴様に任命するッ!!』


 言ってることが無茶苦茶だと頭を抱えるユイシスだが、魔王とは元来、傍若無人なものに与えられる称号でもある。


 フラム・ジェノバは根っからの魔王気質なのだ。


「でも、どうすればここから精霊さんたちをお外に出してあげられるです?」


 柄頭に埋め込まれた赤黒い魔石を凝視するヨハネスは、当然石のなかに閉じ込められてしまったものたちを救出する術など知る由もない。


『うむ、まずは状況を説明してみよ。ヨハネスから見て、俺たちはどう見えている』

「どうって……鎖に繋がれた剣があって、柄頭に……たぶんスキルプログラムを施した魔石がくっついてるです。その石の中に精霊さんたちが器用に入っているです」


 ヨハネスの説明を黙って聞いていたユイシスが、『正式には無限牢獄っていうのよ、天使ちゃん』と付け加えた。


「牢獄ですか? 精霊さんたちは悪いことをしたです?」

『あたしじゃなくて、このゴツいのがね』

『そんなことは今はどうでもよいッ! まずは鎖から剣を抜き取るのだァ!』

「複雑に鎖が巻きついているので、厳しいと思いますが」


 と言いつつも、ヨハネスがフラムに言われた通り剣に手を伸ばした瞬間、ヨハネスと剣の間にピカッと稲光が走った。


「うわぁっ!?」

『どうしたァッ!? 何があったのだヨハネスよ!』

『あそこを見なさいっ!』


 1000年振りにできた配下に何かあっては取り返しがつかないと慌てふためくフラムを横目に、ユイシスは例の黒い球体を指差した。


 そこには相変わらずヨハネスが映っており、驚いた拍子に転倒していた。

 けれどユイシスが驚嘆に声を震わせたのはそのことではない。


『嘘でしょ』

『うむ。見事鎖を断ち切ったかァ! それでこそ俺の配下であるッ!』

「あいたたた」


 腰をさするヨハネスの足下には、砕け散った鎖の破片と、立派な鞘に収められた剣が転がっていた。


『そんな……あれは触れただけで簡単に断ち切れるようなものじゃないのよ! あの鎖にはあんたを拘束するための様々な術式が施されていたのよ!』

『ふん。別段驚くことではない。あれから1000年も経っているのだ。きっと腐っていたのだろう』

『腐っ!? 聖具なのよ!? 腐るわけないじゃない!』

『下らんッ! エデンの聖水は枯れ、創樹ユグドラシルは愚かな人族ミムルに切り倒された。聖具が腐らぬ保証などどこにあるッ! 神に見捨てられたのなら、いつまでも下らぬ思想と幻想に囚われぬことだな』

『うっ……ただの魔族のくせに偉そうにっ』


 この世に絶対などないと言い切るフラムと、未だに絶対的存在が忘れられないユイシス。

 相容れぬ人族と魔族が未だに共存の道を選べない理由も、そんなところにあるのかもしれない。


「意外と軽いです。それにしてもなんでしょうか、この不思議な感じは……」


 足下に転がる剣を拾い上げたヨハネスは、手にした剣に注視している。


 当初この剣を見たときに感じた禍々しさは今でも消えていないのだが、同時に陽溜まりのような暖かさも感じていた。


 それはまさに光と影。

 一方はかつて勇者と讃えられた者であり、もう一方はかつて魔王と畏れられた者。

 その二つの強大な力を一つに閉じ込めてしまったような、触れただけで自分が世界最強にでもなってしまったのではないかと、思わず驕ってしまいそうな、奇妙な高揚感に包まれていく。


「うわぁ、すごいです!」


 好奇心からわずかに黒刃を鞘から引き抜くと、赤黒い輝きが周囲にあふれ出した。


「……うぅっ!?」


 瞬刻、剣の柄を握りしめるヨハネスの白く滑らかな右腕に、青々く血管が浮き上がる。それと同時に切っ先に向かって血溝が徐々に赤く染まりはじめた。


「なっ、なんですか……これっ!?」


 持っていた鞘を投げ捨て、ヨハネスは咄嗟に暴れそうになる右腕を左手で押さつけた。が、握った剣から信じられないほどの力が次々と流れ込んでくる。得体の知れない何かが剣を通し、右腕から体の中に侵入してくる不快な感覚に、ヨハネスの顔は見る見る恐怖に歪んでいく。


 覚醒魔狂アラウザルハイとは違い、とても自分の意思で制御できそうな代物ではない。


「ああぁっ……ああっ!?」


 得体の知れない恐怖感に泣き出してしまいそうになったその時、今度はまったく別の何かが穏やかな川の流れのように体内をめぐりはじめる。


 おかしくなってしまいそうだったヨハネスの精神を、寸前のところで繋ぎ止めていた。


『一体何がどうなっているのだァッ!』


 外の様子を窺っていたフラムは、突然膨大な魔力を放ちはじめるヨハネスに困惑していた。

 

『あんたのせいよバカっ!』


 とはユイシスである。

 彼女は明鏡止水の心で邪を払うようにゆっくり魔力を解放していく。


 暖かな陽溜まりのような魔力が亜空間に広がり、やがて内側から外側へ、聖魔剣を使用する者へと流れ込む。間一髪、ユイシスの魔力がヨハネスを救ったのだ。


『俺のせいだとッ!?』

『いいから黙ってよく聞きなさいっ! 何度も言ってるように、あんたは常に魔力を垂れ流している状態にあるのよ。特殊な魔石に封じられたあたしたちは、言ってしまえば装置なの』

『装置だとォッ!?』

『元々あんたの膨大な力を封じるためだけに、女神アストライアは特殊な魔石を人類にお与え下さった。それがこの無限牢獄。だけど、あたしたち人類はそこに一つの可能性を見つけたわ』

『可能性だと?』

『たとえ魔王を封印することに成功したとしても、魔族は簡単に人類に屈服することはない。そこでわたしたち人類は考えた。圧倒的闇の力で――魔王の力で魔族を屈服させられはしないかと。光の力に反発する魔族でも、闇の力になら大人しく従うと考えたのよ。それが魔王――魔剣化計画!』


 フラムは小賢しいと鼻で笑い飛ばした。


『では、貴様ら下等な人類の計画は成功したと言うわけではないか。現に偉大なる俺さまは剣の一部にされてしまったのだからな』

『だとしたら、あたしがここに居ることもなかったはずよ』


 ユイシスは力なく答えた。


『いまいちわからん』

『あんたの力が予想以上だったってことよ。当初アストライアが想定していた無限牢獄では、あんたを永遠に閉じ込めることは不可能だと分かったの。それでもあの頃の人類が生き残るためには、あんたを封印する以外になかった。そこで、女神アストライアの寵愛を受けるあたしが人柱となり、あんたを封じることになったのよ。でも、それも間違いだった』

『間違い? 現にこの俺を封じることに成功しているではないか?』

『予定では聖――光の力を持つあたしが長期間あんたの側にいることで、闇から生まれたあんたをいずれ浄化できると思っていたのよ。それまでにあんたの力――魔剣を使って魔族を統治する。それで、あんたが消滅したらあたしはここから自然と出られるって話だった』


 けど、とユイシスは悔しそうに爪を噛む。


『1000年経っても消滅どころかぴんぴんしてるじゃない! こんなのあたし聞いてないわよ! おまけに誰も魔剣を回収しに来ないし』

『貴様のことなどどうでもよいが。つまり、今ヨハネスを苦しめているのは……』

『あんたよ』


 恨めしそうに外を睨みつけるフラムは、ぐっと怒りを堪えるように深呼吸を一つする。


『で、俺はどうすればよいのだッ! 彼奴を壊してしまわぬ前にさっさと教えぬかァッ!!』

『へぇっ!?』


 あまりにも素直なフラムの返事に、ユイシスの口からは素っ頓狂な声音がこぼれ落ちる。


 ユイシスはてっきり、


『ゼハハハ、すべては下等な小娘の自業自得ではないかァッ!』


 そのようにフラムが嘲笑うものとばかりに思っていたのだ。


 されど、予想に反しフラムが口にしたのは教えを受けたいとの申し出。あの傲慢だった男が誰かに教えを乞うなど、ユイシスには信じられなかった。


『なにをしているッ! 早く教えぬかァッ! 俺の部下が死んでしまうではないかァッ!!』

『えっ、あ、うん』


 ユイシスがフラムに教えたことは至極単純。

 常に垂れ流している魔力に蓋をするというもの。


 そうすることで、剣身を鞘から抜いても魔力が使用者に流れることはなくなる。


 力の暴発を防ぎ、逆に必要なときにはそれに応じて魔力を流し込めばいいというわけだ。


『魔力を内側に留める。なんだかむず痒い感覚だな』


 そう思うのも魔族ならではである。

 力がすべての魔族社会において、他者をひれ伏す魔力を常に放出し続けるのは当然。逆に人間社会では友好関係を築くため、強大な力はなるべく隠しておくもの。その方が人間社会では何かと都合がいいのだ。


「ふぅー、びっくりしたです」


 ヨハネスは鞘に剣を収め、迷宮内では使い勝手の悪い竜巻剣と交換する。


「二つは邪魔ですからね」


 ユイシスは大きな胸の下で腕を組み、ヨハネスの様子に安堵したように微笑むフラムを見て困惑していた。


(こいつって……こんな感じだったかしら? にしても、本当に可愛いわっ!) 


 フラムのことを気にかけていたかに思われたユイシスだったが、すぐにその表情は締まりのないものへと変わり、ヨハネスに注がれた。


『よし、では実際に魔石を破壊できるか試すとするかッ!』

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