第2話.邂逅

 あ、なんだ、今の日本じゃん。と、それがトリップをしてきた史奈のまず抱いた感想だった。戦地でもなければ異国でもない。異形の生き物もいないし時代背景も元いた世界と変わらない。さらに最高なことに、落とされた場所は見慣れた土地であった。

 あっちの百貨店はよく利用していたし、最近出来たばかりの話題の商業施設もある。勿論見慣れない建物もあるし、記憶とは微妙に違う場所もあるがそんなのさしたる問題ではない。ぐるりと辺りを見渡した史奈は、日常系の漫画か小説か……きっとその辺りの世界にトリップしてきたのだろうと推測した。


 ミケに命の危険があるなどと脅されたものだからビクビクしていたが、蓋を開けてみればなんてことはなかった。ここで一年なんて楽勝でしょ、と史奈は己の幸運に感謝した。

 そうして少し浸ったのち、何はともあれ住居だなと思い至る。ここでの戸籍はどうなっているのだろうか。戸籍がないことには職が限られるし、目下の目標である家が借りられないぞと、史奈は早速壁にぶち当たった。

 

 史奈の元いた日本では"転生モノ"と呼ばれるジャンルの漫画やアニメ、小説が流行している。  

 史奈は今になってやっとそれらを読み漁っていればよかったと後悔した。その物語の主人公たちーー転生者が、どうやって生活基盤を整えたのかを知識として持っていたかったのだ。

 このように史奈は後悔しているが、残念ながらトリップと転生ではそもそもの条件が違う。転生はその世界の住人として新たに生を受けるのだから、彼女が現在悩んでいる戸籍は初めから備わっているのだ。


 こうなったら住み込みのバイトを探すしかないと、史奈は方向性を固めた。職と住まいを一気にゲットできるのだから願ったり叶ったりだが、戸籍がなくても雇ってくれる職場などグレーどころか真っ黒であることは間違いないだろう。それはそれで命の危険に晒されないか?と、史奈がまたもや悩み出した頃、「一人で何してるの?」と背後から肩を叩かれた。


 弾かれたように振り向いた先には一人の男が立っていた。中々のイケメンだ。歳は史奈と同じぐらいの20代後半といったところだろうか。


「どうしたの?家出?」


 家出って……随分とお世辞が下手だなと、史奈は一周回って面白くなってしまった。「あは、まさかぁ!」と笑いながら、もしかしてこれはナンパだろうかと、一つの可能性を思い浮かべる。

 こうして泊めてくれそうな男の人の家を転々とするのはどうだろうか。いやいや、純潔を守らなければいけないのだ。見ず知らずの男の人の家に行くという、自らの純潔を危険に晒す行為は避けなければならない。


「そっかそっか。困ってるならお兄さんが助けてあげるよ?」


 まただ。お兄さんって……この人は私のことを随分と年下扱いしてくる。若く見てやればそれだけで女の機嫌が良くなると思っているタイプの男なんて地雷でしかない。


 史奈は「間に合ってまぁす」とその場を離れようとした。危険な匂いがしたのだ。それは第六感的なものではなく、本当に鼻腔を刺激するような悪臭。絶対に近づきたくない。近づいては駄目だと、体中が警鐘をならし始めた。


「ダ、ダメ……やッと、みつけ……エ、サ、」


 は?は?急になんなの?!と思ったときには、男が史奈の腕をがしりと掴んでいた。先程まで男に貼り付けてあった友好的な笑みは消え失せ、耳元まで裂けた大きな口が今にも史奈を捕食しようとしている。

 あ、死んだわ、と思った。平和な世界だと思っていたけれど、どうやらそれは勘違いで、ここはこんな恐ろしい化け物が存在している世界らしい。ほんとついてない……そもそもトリップした時間が夜っていうのが最悪だった。せめて夕方、いや、昼間ならこんな奴にも遭遇しなかったかもしれない。


「おー、こっちにいたわ。……了解。今から討伐する」


 視界が暗くなったのは史奈が死期を悟って目を瞑ったからではなく、闇を引き連れて颯爽とその人物が現れたからだ。見上げるほど高い身長と真っ黒な学生服、そして星一つ見えない黒の中で一際目立つクリーム色の髪。現れるなり化け物をぶん殴ったその青年は、両手に一丁ずつ持った拳銃の内の一つを化け物に向けた。


「お前も動くなよ」


 とは、史奈にかけた言葉なのだろう。史奈の方を振り向きもしないので彼に伝わる可能性は低いが、史奈はコクコクと何度も頷いた。


「と、トウばツしか……!」

「はいはい。そうそう。餌にありつけなくて残念だったな」


 その青年は明らかな皮肉を口にして、躊躇うことなく引き金を引いた。パァンというあまりにも軽い音の後に、ドサリと何かが倒れた音と呻き声が聞こえる。


「あ、お前グロいの無理だったら耳と目を塞いでおけよ」


 その忠告は今更すぎやしないか。塞ぐもなにも、既に全てが終わったような静寂が訪れている。それに自己防衛が働いた史奈は、言われずとも自らぎゅっと瞑った為にそれは余計な忠告であった。


「……もしもし?陸?終わった。一般人が巻き込まれてた。……だな、帰りてーわ、疲れた」


 誰かに電話をかけ終わった青年は、未だに目を瞑っている史奈に溜息をこぼし、「とっとと立て」と腕をぐいと引っ張った。突然の衝撃にバランスを崩した史奈を、その青年は仕方なくといった様子で支える。


「しっかり立てって言っただろーが」


 いや、しっかり立てとは言っていない。こうなっているのは"とっとと立て"と急かしたアンタのせいだよ!と、史奈は苦々しい表情を浮かべながらその青年を見上げた。

 その視線の先には思わず目を逸らしてしまうほどの圧倒的な美があって、史奈は狼狽えた。こんなイケメン見たことがない。今まで見てきたどの男性より、なんなら街中で見かけた芸能人よりかっこいい。そんな風に史奈が呆けていると、クリーム色の前髪から覗くえんじの瞳が苛立ちの感情を乗せて細まった。


「お前さぁ、今まさに殺されそうになってたんだけど?なに俺の顔に見惚れてんだよ。馬鹿か」


 あまりにも辛辣な物言いにカチンときた史奈は、思わず「あんたみたいな子供に見惚れるわけないでしょ?!」と言い返した。いや、実際多少は見惚れていたのだが、なにも呆けていたのはそれだけが理由ではないのだ。トリップ早々化け物に食べられそうになったんだから、呆然としても仕方ないし、それを責められたくはないだろう。


「は?子供って……お前と俺は、」

「わー、ストップストップ!なに被害者と揉めてるの?」


 その人物は文字通り闇を切り裂くように突として現れた。どこから来たのかは定かでないが、柔和な笑みを浮かべたその青年が現れた途端に闇は祓われ、星たちが一切に煌めき出したのだ。

 そんな優しげな青年に「怪我はないですか?」と顔を覗き込まれ、史奈は"タイプの違うイケメンか……"と頭を抱えたくなった。

 どんなフィクションの世界に放り込まれたのかは分からないが、今目の前に立っている彼らは明らかに"主人公枠"なのだろう。じゃないとこんなレベルのイケメンがぽんぽん湧き出てくることが信じられない。

 トリップ先では彼らのような物語のキーマン的存在と関わらず、細々と一年を過ごそうと考えていたのだ。しかし主人公たちと出会うことがトリップ者の宿命なのだろうか。そうなればこの既定路線からは逃れられないだろう。史奈は出会ってしまったのなら、この子たちのそばで一年間過ごすことが一番安全なのではないかと考えた。


「あの、大丈夫ですか?僕の声聞こえてます?」


 一向に返事をしない史奈を心配した(可愛げのある)青年が顔の前でヒラヒラと手を振る。それにもう一人の(可愛げのない)青年が「コイツは俺の顔に見惚れてるんだってよ」と憎まれ口を叩いた。


「違うって言ってんじゃん!……怪我はないです。それより……さっきの化け物なんだったんですか?辺りも真っ暗になって……」


 史奈は少しでもこの世界の情報を仕入れたかった。でなければ、あんな化け物のいる世界でとてもじゃないが一年間生存できるとは思えない。純潔を守る以前の問題なのだ。

 そうやって情報を引き出そうとした史奈の言葉を聞いた彼らは「お前まさか」「もしかしてあなた」と口を揃えた。それから2人で顔を見合わせて「とりあえず寮に連れて帰るか……」と、状況を全く飲み込めていない史奈を置き去りにして頷き合った。

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