少女は夜曲を歌わない。

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少女は夜曲を歌わない。

 美は、ただ一つの論理的に秩序立った形式を備えて普遍である。

 例えば神の位格、即ち「父なる神」・「子なる神」・「聖霊」が描く三角形の辺や頂点が過去から未来に亘り常に増減することなく不変のままであるかの如く、形式はその始まり(アルファ)から終わり(オメガ)まで決して変わることなく常に既に全てを示し終えている。


 対する崇高は、欠如であり過剰である。

 言い換えれば、それは一望の不可能性。

 崇高なものとは、決してその全貌を露わにすることなく、且つ一度でも目を離したなら次の瞬間にはもう既に先程までとは全く別の様相を呈しているだろう。


 しかし、仮にこの相反するかのような二つの間で矛盾の生まれぬ形式があり得るとすれば。

 それは、三角形が辺も頂点も二つしか持たぬ可能世界に存在するのかもしれない。


     *


 その日、〈エポック〉紙に一行のみの短い死亡通知欄が記載された。

 《エリック死亡》。

 それは、私を呼び出すための合図だった。


 パリ、ガルニエ宮。かつてはブルジョワジーを中心とした特権階級の絢爛豪華な社交場で知られたこの場所も時代の変遷と共に役割をその都度変え、オペラを公演するための劇場機能などは新たに建造されたオペラ・バスティーユへと既に託しており、現在はバレエや小規模なオペラ公演、もしくは管弦楽コンサートを中心に運用されている。

 しかし、当時の人々が噂話を滑り込ませてしまうほど持て余し、更にはかの有名な『オペラ座の怪人』という空想をガストン・ルルーに羽ばたかせ得た巨大な空間は、現在もなお健在である。

 特にその地下には、建築を難航させた真下の水脈から吹き上げる水を貯めるために確保したスペースが幾つもあり、それらは全体でさながら広大な迷路のような様相を呈している。完成当時はこの空間から地上設備へと供給するための発電設備や、水や湿気を外部へ逃がす空調設備のポンプ類などが張り巡らされていたという。

 また、ガルニエ宮が建造された直後は激動の時代であり、普仏戦争やコミューンと呼ばれる時代には、前述の機能に加え、武器庫や物資貯蔵庫などにも利用されていたなどとも噂されている。

 その知られざる側面は、かの“怪人(ファントム)”が仮面で顔を隠していた二面性も彷彿とさせる。

 とは言え、現在ではそれらの設備も撤去され、ただコンクリートで塗り固められただけの空間が広がっており、数年に一度のスパンで点検に入るものの、基本的に人の立ち入らない場所となっている。

 ──表向きには。


 世間に向けた仮面(カバー・ストーリー)をたった一枚きり剥がしたすぐ下に真実の顔が隠されているとは限らない。

 人を騙す者たちは、他人からは分からぬ形で巧妙に仮面を被るものだ。寧ろ、更に二重、三重の隠蔽が当然だと考えるべきなのが世の常であろう。

 現在、この地下空間は公には存在しない実験施設へと改装されていた。私たちは、この施設に対して皮肉を込めてガルニエ宮の通称をそのまま用いてこう呼んでいる。

 “オペラ座”、と。

 先任の担当者に教えられた通り到着を合図する──五番ボックス席で席と舞台脇の特別ボックス席を仕切る太い柱を軽く何度かノックする──と、隠しエレベーターが目の前に現れる。それに乗って地下へ向かうと、“オペラ座”のスタッフであろう男が恭しく頭を下げた。

「お待ちしておりました、新任の“警察長官(ダロガ)”様。」

 男の格好は白衣を着ているが、まるで仮面舞踏会のような仮面で顔を隠しており、その表情を読むことは出来ない。

 私はそんな胡散臭い男の仰々しい態度に嫌悪感を覚え、咄嗟に反論してしまう。

「その呼び方はやめてくれ。私は単なる遺体の受け渡しを担う配達人に過ぎない。」

 男が呼んだ警察長官という名は、私が担っている役職に対する通称の内の一つで、この“オペラ座”の指定した条件を満たす遺体をここへ運んでくる者のことを指す。

 その任務上、通例として安置所や墓所などで遺体に接触しても不自然に思われない実際の警察官が選ばれてきた。この呼び名は、そうした慣習への揶揄を含んでおり、それ故に些か私は抵抗を感じる。

「ふむ、ふむ。前任の方は特に問題なくこの呼び名で通っていたものですが、失礼を致しました。では、貴方様に呼びかける際はどのように呼べば?」

「……せめてペルシアンにしておいてくれ。それだって如何にもすぎてどうかと思うけれど、仕方がない。“オペラ座”ではそれを私の名前だと思おう。それで、君は?」

「え?」

「君の呼び名だ。私も、君に呼びかける時、名無しじゃあ困るだろ。」

「ああ。はい、はい。僕のことは、マルドロールと呼んで頂きたい。」

 唐突に提示された名前に、私は一瞬考え込む。

「……シュルレアリスト、顔のない詩人か。」

「ええ、ええ、ここではお互いが誰かなど詳しく知らぬほうが良いのですから。」

 仮面の下で口元だけにやりと笑った男の笑顔は、やはり全く信用ならない相手だと再確認するのに充分な怪しさがあった。

「では、お互いの呼び方も決まったところで、今度は基礎的な質問ですが、前任者の方から諸々の引き継ぎは?」

「問題なく、されている。」

「左様で御座いますか、大変助かります。それでは早速、こちらへどうぞ。」

 男に促されるまま地下通路を進んでいくと、気が滅入りそうなほど狭かったところから一転して、いきなり天井の高い広大な空間に突き当たった。

 そして、その奥には礼拝堂に設置されているオルガンを規格外に巨大化させたかのようなマシンが鎮座している。

 マシンからは数え切れない程に多くのケーブルが他の部屋へと伸びていた。恐らくそれらを辿れば全てがそれぞれ別の装置へ接続されていて、その全貌は“オペラ座”の大きさを考えるなら計り知れないものであるだろう。

「──これが、“音楽の天使(アンジュ・ド・ムジーク)”。」

「ええ、ええ、そうですとも。人造有機記憶媒体を核に使用した、“オペラ座”の超々大規模情報処理器。本来なら神のみが振れる賽の目たる偶然に、いつか私たちが手を伸ばすため造り上げている機械仕掛けの舞台装置に彩られた名優です。」

 初めて目にする威容に圧倒されている私を横に、“マルドロール”は慣れた手つきでその中央部分で気密ロックされていた扉を開くと、奥からこの機械の核(コア)部分を引き出す。

 そこに横たわっていたのは、一人の男の遺体だった。

 否、正確には一人とは言えないかもしれない。

 確かに、見た目としての遺体は一人分しかない。しかし、よく見れば、その遺体は複数の人間から様々な部位を継ぎ接ぎしたものだった。

「これぞまさしく『優美な死骸』とでも言いましょうか。或いは『解剖台の上での、ミシンと雨傘の偶発的な出会い』と言うほうが絵面的には良いかもしれませんが。」

 マルドロールは、さながら自分のことであるように誇らしげな顔で、遺体について語る。

「だが、そんな自慢そうにしているけれど、私が呼び出されたということはこいつにいま不具合が生じているんだろう?」

 私がそう訊ねると、マルドロールは大袈裟に両手を上げながら答える。

「ええ、ええ、その通りです。先程も言いました通り、残念ながらこれはあくまでも暫定的な未完成品。あらゆる可能論理を体現せしめる理想的な身体の完成には、まだまだ程遠いのです。」

「具体的にはどんな?」

「恐らく、この左手の薬指。手術時は気が付かなかったのですが、接合面になる部分で既に壊死が始まっていたようで。様々な処理で進行を食い止めてこそいるものの、それが原因で彼の夢みる可能論理シミュレーションに暴走が起きているのです。このまま放っておけば、いつか暴走はマシン全体へと波及して、最悪の場合だと、ここは地下湖ではなく火の海となる可能性すらあります。」

 己が身に危険の及ぶことでありながら、先程に遺体のことを語っていた時の熱気がまるで嘘のように淡々と報告するマルドロール。

「それは本当に? そもそも彼は夢を見ているのか?」

「はい、そうです。」

「それは例えば、子どもの頃の記憶を走馬灯のように思い出すようなものか?」

「いいえ、いいえ、彼にはそもそも子どもの頃などというものは存在しておりませんから。ただ、シミュレーションされる可能世界は、論理的に並び得る全ての文字列で示されますから、その中にはそうした記憶にそっくりな夢もあるかもしれません。」

「全く想像がつかないな。そんな人間の手に余る事象に対して、君は不具合を把握が出来ると言うのか。」

「ええ、ええ、僕は長らくこの仕事に携わってきましたから。熟達した音楽家なら、他人が弾くピアノの音にすぐ違和感を覚えるのと同じようなものです。いま彼が見ている夢には、どこかぎこちなさがある。」

「ふうん、そういうもんかね。」

 私はイマイチ納得いかないような素振りを見せた。それに痺れを切らせたかの如くマルドロールが詰め寄って来る。

「そうですとも。少なくとも、私は貴方より詳しいのはもう間違いありませんから、焦らさないで頂きたい。こちらから指定した条件に見合った替えの指は見つかったのでしょうね?」

「分かった、分かった。ほら、ここに入っているから。」

 私はそう言うと、持っていたアタッシュ・ケースを渡してやる。

 マルドロールがそれを開くと、中に入っていたのは一本の切り取られた青白い薬指だった。

「おお、指、指。」

 様々な角度から薬指を眺め、長さや太さなどを確認するマルドロール。

「先日、不幸にも事故で亡くなった俳優の薬指だ。奇跡的に半身は無傷のまま残っていたのだけれども、ご遺族には薬指も欠損していて周囲を探しても見つからなかったという風に伝えておいたから、持ってきたことが問題になることはあるまい。」

「ええ、ええ、ありがとうございます。それでは、早速ですが私は縫合手術の準備へ参りますが、貴方は実際の施術まで見ていかれますか?」

「ああ、いや、それは別に良いんだが──」

 興奮気味のマルドロールに、私はふと思い出したかの如く質問を一つ投げ掛ける。

「遺体の指に嵌められている指輪のようなもの。それは一体、何なんだね。」

「ああ、これは先程に申しました壊死に対する処理の一つです。接合面は非常に弱いため、補強の意味なども兼ねてこうしたパーツが一時的に各部位に装着される場合があります。勿論、このパーツだけでなく最初はもっとその上に様々な機具を付けるのですが、いまは他に問題のある部位がないため、施術に備えて、この指以外のものは全て外してある訳です。」

「へえ、ちょっと見せて貰って良いか?」

「え? まあ、どうせこの後で外しますし、手早く済ませて貰えるのであれば問題はないですが……。」

 どうやら自分の作業にさっさと集中したいらしいマルドロールは渋々といった顔で指輪状のパーツを外すと私に渡す。

 私は、それをなるべく自然に観察した後、彼に改めて手渡した。

「なるほど。いや、納得した。私からは特にもう疑問もないし、このまますぐに退散するよ。通常業務範囲に入らないこの仕事にそんな長い時間を割く訳にもいかない。事情を知らない同僚からサボタージュだと怒られかねないな。ああ、見送りであればいらない。一人でも、ここまで来た道は一回で憶えたから。」

「そうですか、そうですか。それは大変ありがたいことで御座います。」

 やっと面倒事から解放されたとでもいうような表情でマルドロールはそう言うと、既に私から興味を失ったかの如く、遺体に向かって熱心に話し掛け始めた。

「さあ、さあ、エリック。これで君は再び息を吹き返すことが出来るんだ。栄えある十人目の“オペラ座の怪人”としてね。改めて美しい夢を構想しようじゃあないか。」

 その姿を見て、私は軽く溜息を吐きながら一応の挨拶は残していくことにした。

「それじゃあ君の研究がこのまま上手くいって、再び私がここに呼ばれることがないように願っているよ。ただ、あまり根を詰め過ぎないようにな。」

 私はそう告げると、マルドロールに背を向けて地上へ戻るエレベーターのほうへと足を進めていった。


     *


 ガルニエ宮を離れた私は、一目のない通りを選びながら最寄りの隠れ家(セーフ・ハウス)へと辿り着く。

 到着すると共に、来ていた警官服を脱ぎ、化粧という名のマスクを取る。

 最後に、本当は長い髪を窮屈に押し込んでいた鬘を外すと、そこには先程までいたはずの警官は嘘のように何処かへと消え果て、代わりに一人の女性がその姿を露わにしていた。

「おかえりなさい。」

 すると、部屋の奥から車椅子に乗った老婆が出迎えるかのように現れる。

「一人で帰って来られた(尾行はされなかった)のね?」

「ええ。“オペラ座”は私が警察長官であることに疑いを持つこともなかったようですけれど、念のため確認も怠りませんでした。」

「そう、それは良かった。流石ね。私が教えた通り、いえ、それ以上と言って良い。貴方は、私がなれなかった“主席諜報員(プリマ)”と呼ばれるようになる日も近いかもしれない。」

「お言葉ありがたく頂戴しておきます、メグお婆様。」

 そう言って跪いた私にゆっくり近づいて来た老婆は、そっと私の肩を抱き寄せる。

「それで、例の物も滞りなく?」

「はい。取り替えた指輪をマルドロールは受け取りました。ただ──」

「ただ?」

「重いのです。僅かばかりですが、今回、新しく持っていってマルドロールに渡したものより、“オペラ座”より持ち帰った指輪のほうが、本当に普通なら気付かぬ程度の違いではありますが。」

 そう、本来ならば誰も気づかなかったかもしれない。その僅かばかりの差は特別な訓練を受けた私でなければ気付き得なかったであろう本当に小さな違和感。

「……それは、具体的にどれくらいの重さの差か、貴方にならすぐ分かる?」

 そして、メグの質問に、私はゆっくりとこう答える。

「はい、概ね魂の重さ、21g分ほど。」

 この答えが、これから先の世界に一体どんな意味を持っているのか、まだ私が知ることはなかった──。

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