雨粒の数

野井戸

第1話 記憶に沈む

――自分が生きる理由を、考えた事はあるだろうか。

 

 私は毎日床に就く瞬間や運良く満員電車で席に座れた時、湯船に浸かりながら味気ない天井を見上げる時など、自分の体から魂が抜け出て今其処にある体を見下ろしているような、そんな感覚に包まれる事がある。

 誰もそんな話しはしないが、本当は皆同じ様に日々悩み、自分の体が自分の物ではないと感じる瞬間がある筈だと思い込みたい自分がいる。

 妄想だ。毎日の仕事や妻の愚痴聞き、思春期の娘から向けられる一方的な怒り、全てから逃れるために体から魂が抜けて自分の体では無いと否定したいだけ。


 大田浩二46歳、妻と一人娘のいるしがないサラリーマンで趣味は――怪獣グッズ集め。

「この部屋だけが俺の安全地帯だなぁ……」

 自分の宝物に囲まれながら椅子に腰かけ、私は小さく呟いた。

 書斎として使っている部屋は壁一面に子供の頃から集めている怪獣のフィギュアや書物で埋め尽くされ、置かれた机にすら怪獣のフィギュアに侵略されている有様の憩いの部屋。当然家族からは冷ややかな目で見られているが、これだけは譲れない。断じて譲れない、のだが。


「浩二!また書斎に入り浸ってるの!」

 雷の様な怒声と共に自身の安全地帯は崩壊し、妻である加奈子が入ってきた。趣味の事をよく思っていない事が顔にありありと出ている。ここで反論しようものなら更に雷が落ちてしまう。

「分かってるよ加奈子、今日は買い物に行く日で、日用品の大安売りなんだろ?」

「分かってるならなんで支度しないのよ。私は忙しいんだから早く支度しちゃって!」

「そんなに怒鳴らなくても支度はするよ、ごめんごめん」

「まったくもう!」

「……はぁ~……」

 大きな音を立てて閉じられた扉を見据え、思わず溜息が出てしまった。我ながら情けない、家族の機嫌を伺いながらの会話程疲れる物は無い。

 いつからだったろうか、妻がこんなにも怒るようになったのは。

 寝室に移動してタンスからジーンズとTシャツを取り出し、着替えながら考えずにはいられず昔の事を思い出してみた。まだ二人が若く、全てにおいて穏やかだったあの日々を。


 ――浩二と私の子供はきっと優しくて、美人な子よ。

 

 30歳の頃、加奈子はそう言いながら優しく腹を摩っていた。穏やかな笑みを浮かべ、春のそよ風が開けられた窓から入り、しなやかな黒髪を揺らす。儚く美しい思い出だ。

 加奈子と私は同い年で高校生の頃から交際し、長く付き合っているが故に結婚が遅く、子供も当時としては遅かった。そしてできた子供は二人で大切に育てようと約束して、16年が経ち、今の雷鬼になってしまったのだ。

「あの頃の加奈子は可愛かったなぁ……」

 高校生の頃の加奈子はそれは人気者で、クラスの男子の憧れだったのだが、陸上部で補欠をしていた私に何故かマネージャーをしていた加奈子が世話を焼いてくれて交際に至った。自分で言うのも何だが、若い頃の事とは言え男選びのセンスが無いな。

 いや、他人事ではない。保育園の頃から集めていた怪獣グッズも可愛いとか、カッコいいとか褒めてくれる彼女が嬉しくて誇らしかった高校時代だったが、今では片付かないから捨てろとまで言われる始末に、自分の女選びのセンスも間違っていたのだろうか。


「まだ着替えてるの?」

 懐かしい思い出を考えながら、ゆらゆらと揺れる心を抱えて着替えをしていると、呆れたように声を掛けられた。

「もう終わったよ、今日は楓は部活で一緒に行かないんだっけ?」

 振り返り大げさな口調で聞いてみたが、思春期の娘が父親と一緒に買い物など行かない事を察している自分がいる、分かっていても少し寂しい。

「今日の部活はお昼からだから行かないわよ、それにお父さんと一緒に出掛けるの嫌だって」

「16歳だもんな……女の子はやっぱり嫌か」

「思春期だから気にするのよ、父親の体臭とか言動とかね。時が来れば落ち着くわ」

 少しでも気を使ってくれたのかぶっきら棒に言っていても棘は少ない。やはり長い付き合いもあって雷鬼にも情けがあるらしい。

「ほら、早く出かけましょ。混む前に行って駐車場みつけなくちゃ」

「了解」


――流れていく景色を見ながら車を走らせ、助手席に座る妻と少ないながらも話をする。生きていると家の事や仕事の事、娘の成長に妻の変貌。色々な事がある。

 娘に恋人ができたり、妻に趣味を理解されなくなって怒鳴られたり、それでも自分は生きていくのだ、嫌な事があって自分の体を捨ててしまいたいと思っていても。

 ここで体を捨てたら娘と雷鬼に叱られ、来るかもしれない穏やかな日々を見られないのだから。


「加奈子、楓の思春期が落ち着いたら……お前の不機嫌も直るのか?」

「何よそれ、私がいつも怒ってるみたいじゃない」

「怒ってるよ……」

「仕方ないでしょ、お父さんの文句に私の文句で苛々してるんだから」

「俺はやっぱり捌け口か」

「高校生から一緒に居るんだから、少しくらい我慢して」

「了解、マネージャー」



――終

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雨粒の数 野井戸 @noid555

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