スタンダード

@wizard-T

スタンダードⅠ

1区・天道大学にて

 わかってはいたが、壁は厚かった。




 —————5000m 14分55秒27。




 天道大学陸上部、推薦組・一般組合わせて38名の新入部員中、18位。




 高校では28人の部員中1位だった僕が、ここではその他大勢である。




「やっぱり最初1000mが駄目だな、そこで3分5秒かかってるぞ」


 高校時代からスタートダッシュがうまくないと言う自覚はあったけど、改めて指摘されるとやはり重い。しかも、あの大木監督の言葉というのが尚更重みを増した。


「いいか、5000mってのは5000m走った結果の競技であり、10000mってのは10000m走った結果の競技だ。言いたい事がわかるか?要するにだ、例えば10000mの内9000mを1キロ2分52秒ペースで走ったって、残り1000mで3分30秒かかってちゃしょうがない。それより10000mをずっと2分55秒で走る事ができるようにならなくちゃならないんだ」


 全員のテスト走が終わった後、大木監督は新入生に向けてそう訓示した。

 全くその通りだと思う。5000mの内4950mが完璧でも、残り50mで止まってしまったらそれはただの途中棄権だ。あくまでも5000mを完璧に走る事こそが重要であり、それが陸上競技と言うより人生そのものに対する教訓のように思えて来た。

「贈り物なんてのはよ、何をもらったっつー事より誰からもらったっつー事の方が重要なんだよな」

 高校の同級生がそんな事を言っていた。言葉も贈り物と考えれば、実にしっくり来る発言だ。今の僕にとっての値千金の金言も、大木先生でなく他の指導者だったらふーんなるほどで過ごしていた気がするし、ましてや陸上の事なんか何にも知らないような人間に言われたら何を偉そうな事をと反発していたかもしれない。


「そういう姿勢は正直感心しないんだがな、結局は自分自身の問題だしな」


 テスト走に続いての個人面談で大木先生からかけられた言葉はこれまた大変厳しい物だった。

 以前の天道大学には何としても勝ちたい、何としても大舞台で走りたいと言う生徒がたくさんいたらしい。ところが最近は天道に入れば強くなれる、大木先生の指導を受けたいと言う、まさしく僕のような生徒が多いそうだ。

「いいか、所詮俺は道を示す事しかできないんだ。俺を信頼してくれるのは嬉しいが、大木先生の言う事さえ聞いていりゃ間違いないでは、それは信頼じゃなくて依存だ。俺がお前を指導できるのはほんの4年間だ。人生の中のほんの4年間の指導者に依存するようでは、卒業後確実に差し障りが出るぞ」

 大木先生の示した道が間違ったと思っていれば、容赦なくそれと逆の道を行けばいい。それこそがむしろ大木先生に対する恩返しであり望みでもある、それが大木先生の言いたい事なのだろう。


 だけどそれでも、大木先生に対する憧れは薄れることなんか全くなく、むしろ募るばかりだった。大木先生から見れば依存なのかもしれないけれど、僕は大木先生の指導のままに育ちたくて仕方なくなった。

 テレビの中の大木先生は、まさしく僕にとってのヒーローだった。

 15年前、その前年までほんの弱小チームに過ぎなかった天道大学をいきなり優勝へと導き、それからずっと天道大を大学最強陸上チームとして君臨させている。初めて駅伝を見た時小学校1年生だった僕にとって大木監督はウルトラマンとか戦隊ヒーローとか仮面ライダーとかのポジションであり、まさしく憧れの人だった。

 また、その地位を得た経緯も僕の心を掴んで離さなかった。

 本当はすぐに大学に入って陸上をやりたかったけど家が貧しくて高校しか出られず、お金を稼ぐために就職、それでも陸上を諦めきれずいわゆる夜学生となって天道大学に入った。そこで見事な成績を上げて卒業後社会人で活躍、引退してコーチになったけど、陸上をやらせてくれた母校の危機を知り安定したコーチの身分を捨てて天道の指導者になって現在に至る。そのあふれる情熱を感じさせるような、陸上一筋とでも言うべき生き方に魅かれ、僕はこの12年間を大木先生の指導を受けるために過ごして来た。そう言っても全然過言ではないのだ。


「よくついて来てるな」

 先輩たちはみんなそう言った。

 1年生で、しかも新入生の中では真ん中程度に過ぎない僕だが、なぜか部員全員の合同ハーフマラソンで先輩たちに大きな遅れを取っていなかった。先輩たちの中には5000m14分30秒切りなんて十指に余るぐらいいる。そんな人たちと一緒に走ってなぜ遅れないのか、自分でもわからない。

 もちろん、15分を切るのがやっとの自分がスピードではかないっこない。だから、やや無理をして追い掛けていたつもりだ。

(やばい、ペースを落とさないと後半止まる……)

 と思っていなかった訳ではない。しかし、負けず嫌いでもないつもりなのになぜかペースを落とす事ができない。

 大木監督にいいとこを見せようとしているのだろうか。だとしても自爆以外の何でもない事ぐらい、自分でもわかっていたのにだ。


「……お前、やるな」


 結局、最後の1キロまで先頭にくっつき続けられた。と言ってもその前までずっと1キロ3分2~3秒ペースで来られたのにそこからの最後の1キロが3分18秒じゃあ大きなことを言えようもない。

「こりゃ1年にしていきなり……ってシナリオもあるぞ」

 と思っていたら、コーチがいきなりそんな事を言い出して来た。

 確かに入部してからの一月ほどの練習の成果か僕のタイムは少しは改善されている、と言っても1年生38人中の18番目、100人近い部員の中の60番台と言う現実は何も変わってない。

「もちろん練習次第だが、可能性はあると信じていいよ」

 そんな現在の状態でと慌てたら、コーチはさらにこう畳みかけて来た。そりゃもちろん1年生から駅伝を走れるとなったら嬉しいに決まっているけど、現在の実力ではおこがましいとしか言いようがないのにだ。

 そりゃよその弱小大学だったら今の僕のタイムでもいいかもしれない、しかしここは天下の天道大学陸上部だ。精鋭中の精鋭が集うこの天道で1年から駅伝の選手になろうだなんてそんな事を考えるほど僕は驕ってなどいない。

 念のため言っておくけど僕は先輩やコーチを軽視している訳じゃない。単に虫の良すぎる言葉を聞いて浮かれ上がり、練習をおろそかにしたくないだけだ。




 春の関東の大学生ランナーの一大イベント、関東インカレ。

 僕はそのインカレに10000mで出場する事になった。

 10000mの実戦経験は皆無だった。高校時代、僕の地域ではそんな長い距離を走る生徒は皆無に近かったからだ。自主練習で何度か走った事はあるが、そんなのが参考になるはずもない。

 もちろん、5000mだろうが10000mだろうがインカレに出るからには怯む必要などどこにもありはしない。だが競技としては全くの未知数だ。入部してから1ヶ月が経ち自分なりに成長したと思いたいが、他の仲間だって自分と同じかそれ以上に成長しているのだからそんな気はあまりしていない、これは王者である天道大に入った人間の宿命なのだと覚悟していた。

 稲田、中心、湘南、甲斐学院……そう言った他の強豪校たちのエースの名前がエントリー表に並んでいる。もちろん天道からも天道のエースである先輩たちの名前が並び、僕などに注目する関係者はほとんどいない。当然だろう、天道大生だからと言っていきなり注目してくれるほど僕のタイムは良くないのだから。


「天道の1年生か……」


 もちろん、10000mに出る天道の1年生は僕1人ではない。僕よりタイムのいい奴もいる、だから彼らに耳目が集まるのは無理もなかった。

「あの何て言ったっけ、天道の一般入試から入って来た1年?彼、やるかもね」

 ところが、誰かが言い出したそのセリフにちょっと待て天道の中でいわゆる一般入試組の1年で10000mを走るのは僕しかいないじゃないかと驚き、思わずえっと言いながら声のした方を向いて更に驚いた。

 僕の人生より長く甲斐学院を率いている、香川監督じゃないか!


 いや落ち着け、単に天道だからだ。そして一般入試組の中で10000mを走るのは僕だけだ、たかがその程度の話だ。大木監督が10000mを走らせるからには何かあるのだろう、まあ一度見てみるかと言うだけの話だ。他校の選手も有名無名問わず一人一人丁重に観察する、それが20年以上監督を務め三大駅伝12回の優勝を成し遂げた名将って言われる人間のする事だろう。

 まあ、気にしていても仕方がない。今は周囲に渦巻く自校・他校のエースの皆さんの事なんか気にせず、10000mをきっちり走り抜く事しかないのだから。


 ピストルの音が鳴った。さすがに各校のエースたちはスタートダッシュも早い。10000mにも慣れてるから無理をしない程度のスタートをきっちり決めている。それに引き替え僕は相変わらずスタートが下手で、出だしの1キロでいきなり10秒以上離されてしまった。

 エースと競っても仕方がないのはわかっている、しかしこのまま引き離されて行くのも嫌だ、そう思うが早いか僕の頭から理性が吹き飛んだ。


 2分45秒。僕の1000mからの1キロのラップタイムだが、ゴール後に聞かされた時は愕然とした。明らかに僕のタイムじゃない。


「馬鹿な、何を考えている!そんなペースで飛ばしたら止まるぞ!」

 レース後の僕がレース中の僕を見たらそう叫んでいただろう。しかし、その時の僕はそんな事など思いもしなかった。無名の1年生の分際で何という傲慢な走りをしてしまったのだろう、未だにそう後悔しきりである。



 案の定、脚が鈍り始めた。そしてそこでようやく熱くなっていた頭が冷えた。ああなんであんな無茶なペースでと現実に引き戻された、はずの僕をさらに現実に引き戻し、しかしその時は幻聴に聞こえた先輩の言葉が飛んで来た。

「残り1500、もうちょいだ頑張れ!」

 えっ、もうそれだけ!?まだ先頭は十分手の届くところにいると言うのに!?信じられなかった僕はペースを上げようとしなかった。僕が競走の終わりの近い事を確信したのは、恥ずかしながらあと1キロのサインを見た時だった。先輩の声を信じられないとは何事だな話だが、その時の僕はそれだけ頭がおかしくなっていたのだ。

 当然、まともなペースで走れるはずもない。それでも後悔の気持ちにさいなまれながら必死に巻き返そうとし、そして精神的にフラフラになりながらゴールに飛び込んだ。

 29分51秒57、12位。1年生のタイムとしては満足と言っていいはずだ。だが、僕の心には満足のまの字もなかった。




「……何もない?」


 今回の自分の走りについてどう思うかコーチに問われた僕だが、そう答えるしかなかった。実際、何もないレースだった。

 単に勝手に暴走して、単に途中でばてただけ。こんなタイムが出たのは周りに引きずられただけ。総合12位、天道の中で5位と言えば体はいいけどそれは実力なんかじゃない。

 大木監督が目指しているのは、僕が憧れているのは、正確で確実なレースだ。今日の僕の様な、強引でメチャクチャなレースじゃない。1キロ1キロ確実にペースを刻み、最後までばてることなく走り抜ける。そうやって天道の先輩たちは戦い続け、大木監督に数々の栄光をもたらして来た。対して今日の僕のレースはその理想の10分の1どころか1%も体現できていないひどい物だった。



「スタートダッシュはやはり気合を入れてかからないとダメだ、以上」

 さらに、叱責を覚悟して大木先生に臨んだ僕にかけられた言葉はこれだけだった。

「……他にはないが」


 僕がしつこく意見を求めると大木監督はお前なんかに言う事はないと言うよりこれ以上必要なのかと言うべき表情で話を締めくくった。

 ……見捨てられた?そんなはずはない、仮にも29分50秒台だ。しかし僕が天道大ランナーらしからぬ走りをしてしまったのにも関わらず、全然それを責める様子もない。一体何がどうなってるの訳が分からなかった。

 わかった事はただ一つ、もっと天道らしい、安定感あって崩れない走りをしない限り、僕にレギュラーの座など巡って来ないと言う事だけである。

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