第9話 『先生』の手紙
竹岡は席に着いた僕の隣の席のイスを引くと、ドカッとそこに座った。この男にしては珍しい乱暴な座り方だった。
「なぁ、奏」
僕は竹岡の顔を一目見て、それから自分の荷物を机の中に移動することにした。
「なぁ、お前、昨日、片品さんと帰った?」
「······どうして?」
「否定しないってことはやっぱり一緒に帰ったのか。忘れ物取りに来て、二人が一緒に昇降口から出てくるのを見たんだ」
なるほど。
それじゃ隠しようもない。
僕は気が乗らないというように装って「そうだよ」と答えた。
竹岡がなにか言おうと口を開きかけた時、その席の正当な持ち主である佐伯さんが現れて、机の上に重そうなカバンをドンッと下ろした。
竹岡はピョンと跳ね上がったように見えた。
陸上部で鍛え上げられた体を持った佐伯さんは感じの良い笑顔で「おはよう」と僕たちに言った。
メガネをかけたその横顔は彼のよく通った鼻筋を強調していたし、軽く茶色がかった髪は緩いクセがあった。どこかの洞穴から掘り出してきたかのように肌は白く、黙っていると神経質そうに見えた。
しかし話してみると軽妙なヤツで、話題は豊富、特に流行りに流されないスタイルは彼を好ましく思わせた。
得意な教科は英語と数学。絵に描いたような優等生っぷり。親から週に三日、予備校通いが義務付けられているそうだ。その話になると彼は同情を呼ぶ顔になった。
それでも所属するオケ部の楽器、フルートを毎日欠かさず持って帰っていた。大方、そのフルートを取りに戻ったんだろう。
オケ部の演奏会でフルートを吹く彼は正々堂々と背筋を正して、真っ直ぐに音を出すことに専念しているように見えた。
いつもの、気のいいやさしい顔とは違う表情だった。
「奏、片品さんのこと好きなの?」
「なんで?」
「一緒に帰ろうって誘ったんじゃないの?」
机の中に荷物は納まった。
僕は竹岡の方を向いた。
「正確には僕の掃除が終わるのを、彼女が待ってたんだよ」
竹岡は俯くと、うーんと言ったような気がした。そして顔を上げると、妙に真面目な目をしてこう言った。
「彼女ってさ、綺麗じゃない?」
あまりのどストレートな発言に、一瞬、言葉に詰まった。
「うん、そうだね」
「近くで見てどうだった?」
「竹岡の言う通りだと思うよ」
教室の後ろ側のドアの辺りで、理央は数人の女子と一緒にいた。その中にはさっき竹岡を驚かせた佐伯さんも含まれていた。僕は昨日見たハムスターの動画を思い出した。彼女たちは風が囁くようにふふ、と微笑んでいた。
『お似合い』と書かれたメッセージを思い出す。
この狭い教室の中で、理央は僕が片品とどれくらい親密なのかよく知っているはずなのに、『お似合い』はないように思えた。
つまり理不尽な発言だ。
考えれば考えるほど悲しくなって、自分からはもう遠い場所にあると思っていた『悲しみ』という感情を持て余していた。
そう、理央は僕を受け入れてくれない。強く突き放したんだ。
ふと目が合ってしまい、気まずくて逸らす。
彼女も同様のようで悲しげに見えた。
なにがどんな風に悲しいのかはわからなかった。
朝の僕の態度が悪かったのかもしれない。
いや、悪かった。
ほとんど洋がひとりで喚き散らしていたけれど、僕はただ黙っていた。
理央が「もういいじゃない」と言った時さえそっちを見ようともせず、学校までの短くて急な坂道を黙って歩いた。
洋は「もう知らないからな!」とすごく文脈のおかしい、場違いなことを言って自分のクラスの昇降口に早足で歩いていってしまった。
僕と理央は思わぬところで二人きりになってしまって、すごく気まずい思いをした。
どれくらいかと言うと、お互い言葉が出ないくらい······。
僕が彼女を見ると、彼女は見上げるように僕を見ていた。まるであの日の再現のようで、それがうれしいかというと、まったくうれしくなかった。
理央の目には怯えさえ見えた。
担任がよれたスーツ姿で現れると「話の続きはあとで」といらないことを言って、竹岡は自分の眩しい、窓際の席に帰っていった。
窓の外は相変わらず蝉の声が響いていて、過ぎ去るであろう夏の残り火がガラス窓を通して教室を斜めに横切った。
丁度僕の席はその区切りというところ。シェードの内側のように影に隠されていた。
竹岡の席の三つ前が片品の席だった。
逆光でよく見えない。
教師が
日差しの中、その白い肌と色素の薄い長い髪が逆光で切り取られ、まるで彫像のように見えた。これが『綺麗』ということなんだろう。
僕は目を教科書に戻した。
まだまだ先生の悔恨の手紙は続きそうだ。
長い長い悔恨の果てにあったのは、最悪の結論だ。
三角関係に苦しんだ先生は。
······僕の
先生のように泣く泣く身を引く? そうして後悔に身を引き裂かれる思いをする?
漱石なんて千円札のオジサンだとばかり思っていたけれど、この人の中に小宇宙のようにこの小説の世界はあったんだ。
そして僕は漱石に、先生に、親近感を覚えずにいられなかった。
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