第8話 僕じゃないんだ

 だからと言って僕たちの会話は弾むことはなく、静かに時は流れた。

 彼女はたまにうれしそうに頬を弛めた。

 その度に僕の胸は射抜かれそうになった。

 窓の外の人の流れを眺めるその横顔の美しさ、一瞬の憂いを帯びた瞳、僕はどうやら今まで同じ教室に彼女がいたことを知らなかったみたいだ。

 見つめていると不意にこっちを向いてにこっと笑う、いたずらっぽい笑顔が僕を困らせる。

「奢らせて」

「そういう訳にいかないよ」

「今日だけ、もうしないから。今日の記念に」

 伝票を持つと颯爽とレジに向かってしまう。

 彼女は電子マネーで簡単に決済を済まし、行こう、と店を出た。


 ――少しずつ。


 今日、確かに『片品聡子』というひとりの女の子を知った。

 彼女は僕を好きだと言った。

 僕は。

 僕は、片品と付き合う自分を想像できない。どうしようもなく理央が好きだ。今、洋と理央がなにをしているのかと考えると不快な気持ちになる。手を繋いで、僕の知らない話をしているかもしれない。

 心が闇に曇る。

 目の前の片品が見えなくなる。

 そっと現実が手を伸ばして僕の手を握る。今日は楽しかった、と彼女は学校では決して見せないような崩れた笑顔を見せた。


『片品聡子と帰ったんだって?』

 部屋でネクタイを緩めていると洋からLINEが入った。あまり答えたい質問じゃなかった。

 無視してしまおうか、という思いが浮かぶ。

 第一に報告義務は無い。

 それ以上、なにも言わないスマホをベッドの上に放り投げて制服を脱ぐ。僕が誰と帰ろうが、知ったことじゃない。一緒にいない時間のことまで干渉されたくない。

『片品聡子と帰ったんだって?』

 それはもしかすると教室では一大センセーションかもしれない。けど僕が今日知ったのは、片品聡子はクラスのミューズではなく、ひとりの女の子だということだ。

 特別じゃない、普通の女の子だ。


 ベッドが軋んだ音を立てる。

 古いベッドは思ったより大きな音を立てる。

 投げたスマホをもう一度手の中に収めて、LINEを開く。

『こんばんは』、ちよちゃんからのスタンプ。相変わらずつぶらな瞳でこっちを見ている。

『片品さんはいい人だよ。奏くんに合ってると思う。ふたりとも背が高いし、大人っぽいし、お似合い』


 なにを思ってそんなことを書いて送ってくるのか、座っていた姿勢から背中を倒してベッドに仰向けになった。軽くバウンドする。

 既読はついてしまった。

 なにか返さないと変に思われるかもしれない。だけどどんな返事を?

 理央は僕が片品と付き合うことを望んでいるんだろうか? そうかもしれない。ややこしいことが避けられる。あったことを消しゴムで消すことができるかもしれない。


 理央と洋、僕と片品。


 一方、そういう要素込みで片品のことを見ようとしてる自分を嫌悪する。

 彼女は彼女だ。

 正当な評価を受けて然るべきだ。

 ······既読も未読もそのままだ。

 片品聡子。

 どうして僕を選んだんだろう?

 背が高いから? 単純に昔から知っていたから? なにか僕に期待するようなものがあるから?

 わからない。

 聞けばよかった。「どうして僕を?」って。

 やってることがなんかダサい。

 スマートにしたいわけじゃないし、そんなスキルはないけど、この手のことは多少のルール違反は許してほしい。

 慣れてないから。


 結局、理央には『彼女とはなんでもないから』という定型文を送った。それで理央がどう感じるのかはわからないけど、事実は事実だ。

 とにかく今は片品とはなんでもない。強いて言えばだ。

 今日知り合った人といきなり付き合わない。そうじゃない人も多いかもしれないけど、僕はそういう波には乗れない。

 片品には悪いけど、この世の中にひとりと言えば、僕には理央しかない。理央しかいらない。


 LINEの未読無視については翌朝、洋からギャンギャン言われた。放っておいてほしいという気持ちが更に増す。

 第一、彼女と僕が付き合うことになっても、ふたりには関係ないはず。

 理央にとっては、問題がひとつ減って呼吸をするのが楽になるかもしれないけど。僕は本当のところを言えば、理央にキスしたことを後悔していない。

 あの日から少し距離を取られていると感じている。理央は体半分、洋の影に入っている。表情がよく見えない。なぜか、悲しい。

 こんなことで悲しくなるなんて。

 手の届かないところにいた彼女に触れたら、もっと距離を取られてしまった。


 やっぱり理央は僕を見てくれない。

 昨日の片品のように、僕の目を見て笑ってくれるようなことはないんだろう。

 だって理央が好きなのは洋だけだから。そこに僕は土足で踏み込もうとして、完全に返り討ちにあった。

 理央が好きなのは僕じゃない。

 でなければほかの女の子を勧めたりするはずないじゃないか。

 ため息が喉の奥につかえた。

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