とある世界の短編集
花沢祐介
人々
花屋の店主
「いらっしゃいませ」
その花屋に行くといつも、店内に足を数歩踏み入れたタイミングで店主が挨拶をしてくれる。
入ってすぐでもなく、十歩ほど踏み入れてからでもなく、必ず数歩のタイミングなのだ。
私はこの絶妙なタイミングで挨拶をしてくれる店主のことが好きだった。
もはや、その挨拶を聞きに行っていると言っても過言ではない。
「いらっしゃいませ」
今日も、店内に足を数歩踏み入れたタイミングで店主は声をかけてくれた。
店主は長い髪をいつも後ろで束ねており、重そうな鉢やバケツをせっせと運んだり、水を交換したりしている。
「本日はいかがなさいますか」
店主は、いつの間にか私の近くへやってきて接客をしてくれる。
先ほどまでの忙しそうな様子とはうってかわって、とても落ち着いた声だ。
「今日はピンクのトルコキキョウが入りましたよ。すっかり暖かくなりましたからね」
私はこの花屋に足繁く通っているので、すっかり顔馴染みの客となっていた。
「じゃあ、それを一輪お願いします」
「かしこまりました」
店主は馴れた手つきで花を包んでゆく。
常連ということもあり、包装の有無は聞かずとも把握してくれている。
「ちょうど、お預かりします」
会計を済ませたら、あとは帰路につくだけだ。
花の入った包みを抱えて店を出ようとすると、あと数歩で外、というタイミングで店主は再び挨拶をしてくれる。
「ありがとうございました」
このタイミングもいつも通りで、とても心地のいいものだった。
その花屋の店主はまさに、老紳士という言葉がピッタリの人物だと私は思っている。
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