4. 家住期 ~改名~
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厳しい冬が明けて雪が融け出すようになった頃には、死んだ父親の結界を調べることが日課になった。
隣国ではまた違う系列の魔法陣を教えているのだろうか。流れの魔術士にしては、なかなかの出来だと思う。同じく魔術を扱う者として、実に興味深い。
意味も分からないくせに隣で辛抱強く
「なっ! どこから持って来たんだ」
初めて見る本だったが、一目でその価値は分かった。表紙には題名も著者名も書かれていない。魔力を使わずに中を
特殊な解読魔術を幾重にも敷いて、魔力を通し続けてようやく読める。こんな手間暇をかける本は古代の魔術まで記した、超高等魔術の指南書だ。
「お父ちゃんの」
「納屋に何冊かあるよ?」
なんだと。それを早く言えっ。
慌てて納屋へと走った。これまで貯蔵した食糧を取りに行くのは女に任せきっていたし、そもそも納屋なんて場所は使用人の領域だ。自分が中に入るという発想など無かった。
そして扉を開け、中の様子を視界に入れたことを激しく後悔する。ああ全く整理整頓がなっていない。部屋以上の見事な崩壊っぷり。
大量のジャム瓶や漬物の類が大小入り乱れ、斜めになったりひっくり返って
しかもあちこち間に挟んだ干物はなんだ。そこここに散らばる汚い
「こっちだよぉ」
女は
地下収納庫として掘られた旅行
「お前の父親は……何者だ」
「魔術士だよ?」
前に言ったじゃん、と不思議そうに首を傾げている。
「流れの、成り損ないじゃなかったのか。この持ち物は……完全に上級魔
これだけの物を扱える人間なら、王宮に出向けば好待遇で雇ってもらえる。最悪でも、有力貴族で魔導士を輩出したい家に行けば家庭教師として高給は確実だろうに。
「大体、なんでこれ程の遺品を売らなかったんだ!」
金に換えれば、こんな
「だってお父ちゃんの物だし」
そんな発想すら浮かばなかったらしい。只ひたすらに、きょとんとしている。
「まあいい。……その、これはだな……」
「うん。いーよ? 好きに使って」
「そっ、そういう意味ではなくてだなっ」
「お父ちゃんも喜ぶと思うから」
女は歯並びの悪い口元を下品に開け、へらっと笑った。
「そ、その代わりね」
なんだ、やはり交換条件か。金か? それともそちらの快楽か?
「あの、冬が終わっても、小屋に居てくれると
すっかり顔を赤らめ、もじもじと下を向く。
「どうしても駄目なら、毎年、ちょこっと顔を見せてくれるだけでも、いい」
分からん。それは遠回しに、
「毎年冬の間だけどか。あ! だったら、アタシが冬ごもりの支度をしとくよ? 二人分、ちゃんと用意しとく」
隣家もいない独り暮らしでは、日々の生活も大変だろうに。その継ぎ接ぎだらけの古服だって、一体何年着続けているのやら。
「……話を要約すると、父親の遺品はここで使えということだな」
「え? ううん、欲しかったらあげるよ? 持って行っても――」
「ここで使うのが条件。そのために小屋に残る、それでいいな」
鈍い。この女の頭は納屋の中と同じだ。もっとまともに自分の要求を整理して、最初からこうやって交渉すれば願いは
カドックたちが他国で重点的に探すとしたら、帝国シャスドゥーゼンフェだろう。
自分も小さい頃から祖父母と共に訪れているし、学生時代には何度か留学もしているから知り合いが多い。
対して同じ国境沿いでも、アヴィガーフェのような田舎国は、一度として足を踏み入れたことがなかった。自分が生まれた前後の時代、大掛かりな政変が続いたせいもあり、国の荒廃が酷かったからだ。
なにせ王朝がごっそり入れ替わったのだ。未だに中央では旧家の粛清が続いている。
だからここに身を潜めるのは悪い案ではない、と理屈付けて、自分を欺こうとした。だが単なる言い
冬が迫って来る中、ずっと野宿を続け、この家に
意気揚々と上級魔導士を目指していた頃には、あるのが当たり前で意識したことすらなかった。
木造りの家の温もり、薪の爆ぜる心地良い音、女の作る鍋の香り。
万年雪を溶かすように、荒んだ心がゆっくりと癒されていくのを感じる。
「……う、うん! それでいい!」
父親の遺品を物色する自分の横で、じっと膝を抱えていた女が弾かれたようにパッと顔色を明るくした。ようやく理解したか。
「小屋にいるだけだからな」
「え? うん、ありがとう」
言質は取ったから、本人が理解していまいが関係ない。夜の相手をさせられる可能性は無きものとした。
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やがて春が来て、夏が過ぎ、冬ごもりの前の買い物をしに街に通う頃には、すっかり逃げた亭主だと周囲に認識されるようになっていた。
「アルリーネの旦那さん、これ」
街で刃物と文具を購入し、近くの村を通って帰る途中で、灰色の喪服を
「あの娘には、色々と世話になったから」
アルリーネと呼ばれる森の女は、人が忌み嫌うような仕事を引き受け、細々と生計を立てていた。病に倒れた患者の世話や死体の洗浄、葬式の準備。そして動物の解体。
虫下しだの、虫除けだの、匂いのきつい薬草を採取しては薬も作っていたが、近くの村や街では
『
相変わらず伸ばし放題の
結婚してすぐ失踪した空白の十年、何をしていたのか探られても、身代わりの身では語るものを持ち合わせていない。だから会話は極力しなかった。
一度、村長に「そんな髪の色だったか」と首を傾げられたが、肩を
焦げ茶色の髪の旅男が、年を経て灰色がかった茶色の髪になって戻って来ただけ。そちらの記憶違いだ、で押し通した。
「街での買い物、どうだった?」
森の入り口で待っていたアルリーネが、村の外れまで来た自分の元へと迎えに来る。
この女は街から仕事の依頼がない限りは、街壁をくぐろうとしない。子どもたちに『魔女』と
そもそも名前からして悪いのだ。『アルリーネ』と言えばこの国では良く知られた童話で、美しく優しい姫を呪い殺す魔女の名だ。
本人は自慢の父親が付けてくれた名前だと
あの後、遺品を隅まで調べたが、父親が正式な上級魔導士だったのかは不明のままだった。ただ判明したのは、古代の廃れた魔術を研究しており、それが神殿の閉架書庫の水準も
そしてアルリーネの抱えていた魔術書が偉大な魔導士シャンレイ様の自筆本だったこと。存在だけは伝説として語り継がれていたが、まさか他国の
おまけに青い宝玉を
どちらが本物かは、手に握れば一目瞭然。
魔導士のクセに名付けの感性が恐ろしく欠如していることといい、謎だらけの父親である。
自分の根源だろう、普通は家系図とか、有名な先祖がいないかとか、気にかかるものじゃないのか。「だって、アタシはアタシだもん」と返された日には怒る気力も失せた。
「葬式の」
――礼にと老婆から預かった、と皆まで言うべきなのだろうが、下手に距離を縮めたくないのでわざと無愛想のまま、包みを押し付ける。
「あれ。お金はちゃんと
家まで待てばいいのに、その場でごそごそと包みを漁り出す。
「見て見て。ねぇ、これって
包装用の葉や
「ちょっと大きいかねぇ。爺さん、昔は騎士として国境警備を任されてたらしいから」
「でも袖を詰めて丈を今風にすりゃ、十分着られるよ。これなら街の高級店にだって入れてもらえるね」
道端にしゃがみ込み、
突き出された尻を見ても、全く何も感じない。崖から落下してから男としてどうにかなったのかと思うほどに、何も湧いてこない。
「あ、待っておくれ」
森へと歩を進めた自分の隣に、包みを大事そうに抱えた女が小走りで追い掛けて来た。
太っているせいで、少し走っただけでも息が上がっている。呼吸が苦しくなって尚、へらへらと愛想笑いを寄越すのが無性に腹立たしかった。
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