Scene8-2
―慶一―
『すみません、急な用が出来たので会社に戻ります。すぐ行きます』
メッセージを確認し、ため息をついた。帰国したばかりのくせに、相変わらず忙しい人だ。
『分かった。駅前で待ってる。』
一言返し、花壇の端に腰を下ろした。雲一つない空を見上げる。
そんなつもりは無かったはずなのに、結局会う約束をしてしまった。
ゆっくり話がしたい、と言うので休日に約束したのに、午前にどうしても仕事に行かなくてはならなくなったと言うから、柳さんの会社近くの駅で待つことにした。にも関わらず、また急用で呼び出されたという。果たして、会えても何時間一緒に居られることか。
そこまで考えて、顔が熱くなった。一緒に”居られる”なんて…これじゃまるで、会いたくて仕方がないみたいじゃないか。
…いや。会いたいんだ、本当は。
正直なところ桃瀬サンの話は、知ったあの時は頭に血が昇って冷静になれなかったけれど、落ち着いて考えてみればもう過去の話であって、柳さん自身が”もういい”と思っているなら、それ以上気にすることじゃない。
大事なのは俺が今、柳さんをどう思っているかっていう事だけなはずだ。
『…会いたいと思っては、いけませんか―』
そう言われた時、本当は堪らなく嬉しかった。
会ったら、まず何て言おう。久しぶり…そう言ったらきっと、強面の顔の表情を緩めて、優しく笑ってくれるんだろう。
やたらと鍛えて逞しい腕に、抱きしめられるのかもしれない。隙なく着こなしたスーツからいつも香っているムスクの匂いを思い出す。唇を重ねた時の、苦いタバコの味も…思い出すだけで、体の芯が熱くなってくる…。
「…あーっ、ボール…」
子どもの声に、ハッと顔を上げた。見ると、幼稚園児くらいの男の子が赤いボールを追いかけて横断歩道に駆けて行くところだった。
咄嗟に体が動いた。立ち上がり、ボールを追って走る。男の子を追い抜き、赤いボールを捕まえた。
「はい、どうぞ。」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
俺が手渡したボールを手に取った男の子が笑う。
すみません、と母親らしき人が駆け寄ってきた。
「ほら、危ないからこっちおいで。」
男の子の背中を押し、横断歩道から出ようとした。
―ブンっ…
「!危な…っ」
突然飛び出してきたバイクの影に驚いて、咄嗟に男の子に覆いかぶさった。
母親の悲鳴が聞こえる。
(ドンっ……)
強い衝撃を、感じた。
―雅孝―
急用の案件を片付け腕時計を見ると、慶一さんとの約束の時間から、三十分程過ぎてしまっていた。
「主任、今日お約束があったのでは?」
五十嵐が声をかけてくる。
「ああ、もう行く。」
「お気をつけて。」
「あとは頼む。」
会社から出て、車に乗り込む。スマホを見ると、慶一さんから返信が来ていた。
『分かった。駅前で待ってる』
家まで迎えに行くつもりでいたのに、申し訳ない。それでも、会う気になってくれただけで嬉しかった。
出張前、最後に会った時の慶一さんは何か怒っているように見えた。嫌われるようなことをした覚えは無かったが、心当たりがあるとすれば…朔也との事だろうか。
慶一さんが付き合っていたのが、本当にあの若いの―名前が分からないが、今朔也と付き合っているあの青年だとしたら、俺の元恋人が朔也だという事を、聞いたのかもしれない。だとしたら正直、複雑な心境にもなっただろう。
でも。
過去は関係ない。俺はただ、慶一さんの事を―。
スマホの連絡先一覧から慶一さんの番号を呼び出し、通話をタップする。
しばらく発信音が続き、留守電に変わった。どこか、電話に出られないところにでも居るんだろうか?
とにかく待ち合わせ場所へ向かうことにした。ここから大した距離ではない。
エンジンをかける。会社の駐車場を出て、待ち合わせの駅前へ急いだ。
レインボーブリッジを渡り、駅舎が見えてくる。
「…?」
人だかりの近くに、救急車が止まっているのが見えた。事故でもあったんだろうか。
迂回しようとハンドルを切りかけ、担架に乗せられた男性の横顔が見えて急ブレーキを踏んだ。
「慶一さん…っ?!」
慌てて路肩に車を寄せて停めた。運転席から降り、救急車に駆け寄る。
「慶一さん!」
「お知り合いですか?」
救急隊員が聞いてくるが、頭が真っ白になっていた。
担架に乗せられた慶一さんのこめかみから大量に流れ落ちる、真っ赤な血。
乗ってください、と促され、言われるがまま救急車に乗り込んだ。
震えながら、慶一さんの手を握った。握り返してこない、力ない手を、強く、強く握った。
「…慶一さん…っ。」
どうして。どうしてこんな。
朔也が、発作を起こして運ばれた時の事を思い出す。…どうして。神様。
お願いだから、これ以上俺から、大切な人を奪わないでくれ…―。
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