世界消滅寸前物語

鯰川 由良

世界消滅寸前物語

窓から見える空は、今日も青く澄んでいて、雲はのんびりと漂い、太陽がそこから顔を出したり、隠したりを繰り返している。


時々見える灰色がかった雲は、雲の白さと空の青をより際立たせている。


いつもと変わらない日常。


しかし────。


僕は隣にあるタイマーを見た。


デジタルのシンプルな画面には90:00の文字が映されている。


そこに示されているのは、地球が跡形もなく爆発するまでの時間だった。


地球消滅まで、あと九〇分。



僕は思う。


おそらく僕らは地球史上最大のテロリストになるだろう。




* * *


「どうだ?上手くいきそうか? 」


とあるアパートの一室。


コーヒーを片手にした僕の質問に、彼女は胸を張って答えた。


「当たり前ですよ。私が組み立てたんですから」


その態度から、彼女の持つ自信が見て取れる。


そうだ、確かに彼女が作成したならば安心だ。


しかし────、


「それを設計したのは僕なんだ」


僕はマグカップを小さな机に置いて、その爆弾を見た。


彼女は口元にその細い手を置いて、ハッとしたような表情を見せてから、急に不安だというように眉にしわを寄せた。


正直なところ、僕も不安で仕方がなかった。


僕らの試みは前代未聞のものだったし、自らの手で世界が変わってしまうなんて到底信じられないからだ。


もちろん、僕だけではこの計画は絶対にこの段階までたどり着かなかったし、また、彼女だけでもここまでは来れなかったと思う。



一時間半後、このタイマーがゼロを指した時、この星は跡形もなく姿を消す。



僕と彼女が出会った経過は省く。ただ、端的に言えば目的の一致。それだけだ。


僕も彼女も、この世界が終わることを望んでいた。


彼女が何故それを望むのかを僕は知らない。


それは単純に知る必要が無いからで、また、それを知ることでこの世界への余計な感情が生まれるのを回避する為でもあった。


だから、身の上話なども、お互いに一切と言って良いほどに口にしなかった。


しかし、この世界に絶望していたというのは同じだろう。


僕らは互いに、ただその目標だけを見て、計画を進めてきた。



────僕はそこで思考を止めた。



多分、こんな回想も良くないんだろう。


この世界に未練を残してしまったら、だめだ。



「よし!」


僕は感情の向く方向を変えるように大きな声を出した。


「え、どうしたんですか。急に」


気持ちの悪い物を見るかのごとく、彼女が眉間にしわを寄せた。


僕は体の後ろに隠していたものを取り出した。


シャープなボトルに満ちた透明な深紅の色をした液体。他でもない、赤ワインだった。


「地球の消滅を記念して、ささやかなお祝いをしたいと思うんだけど、ダメか? 」


その発言に眉をひそめたのは彼女だ。


「お祝いですか? でも、それって私たちが守ってきたルールに反してません? 」


僕らが決めたルール──世界への余計な感情を持たないようにすること──。それは、この計画を完遂させるために、たしかに必要であり、厳格であるべきルールだった。しかし──、


「いや、違う」僕は反論する。


「僕が計画したのは、アルコールでこの世界に対する未練をドロドロに溶かすためのもので──それに、もう爆弾は完成した。今更どうしようもないさ」


少しの静寂。



「はぁ」と、彼女はこの上なく分かりやすいため息をついた。


「まぁ、別に良いですよ。計画が狂わないのであれば」



「そうか、ならよかった」


僕は短くそう言って、早速コルク栓を抜き、それを小さなグラスに注いだ。


赤く、澄んだ液体がグラスの中を満たしていく。


すぐに隣の無機質な物体に反した、生きた香りが鼻腔を刺激してきた。


それぞれのグラスに注ぎ終わると、二人はグラスを持ち、胸の辺りまでに軽く持ち上げてから、それを乾杯の合図にして、各々グラスを口元に運んだ。


グラスの赤い液体を減らして、少しばかり驚いたような表情を見せたのは、彼女だ。


「へぇ、ワインってこんなに美味しいものだったんですね。普段飲むことはなかったので、なんというかもっと、苦かったり渋かったりするものだと思ってました」


「飲みやすいだろ。ワインって言ってもほとんどジュースみたいな優しいやつだからな」


僕が買ってきたのは、甘口の、アルコール度数三パーセントの赤ワイン。ほとんどジュースと言っていい程度のものだった。


「もう一杯いいですか? 」


「どうぞ、というか多分沢山飲まないと酔っ払えないぞ」


「わかりました。────というより、何故そんなに弱いお酒を選んだんですか」


「実は、普段酒はほとんど飲まないんだ」


少し火照ったこめかみを掻きながら、少し鈍った思考で答える。


「だから、アルコールが強いのは怖かったと? 」


「あぁ、史上最大のテロリストの発言とは思えないな」


「ほんとです」


自分と彼女の空のグラスにワインボトルを傾ける。


今回買ってきたワインは、普段飲むことのない僕にしては珍しく過去に何度か飲んだことのあるものだったが、今日のそれは格段に美味かった。


こんな美味しいお酒が常に飲めていたら、とそう思ってしまう。


試しに透明なグラスに入った液体を揺らしてみる。


僕はグラスをひと口傾けて、そしてほんの少し頬を緩めた。


まだあまり飲んでないが、かなり酔いが回ってきたかもしれない。


「──────なぁ」


ふと好奇心と何かが混ざったものが口から飛び出した。


「世界を無くそうだなんて、なんでそんなことしようと思ったんだ?」


彼女は何も答えなかった。代わりに、重い沈黙が漂った。


僕はもう一杯ワインを注いで、頬ずえをついた。


そして自分の発言をひどく後悔した。


* * *



────何杯ほど飲んだだろうか。


気づけば事前に用意していた2本のボトルは、ほぼ空になっていた。


そんなボトルとは対象的に、満たされていくこの感覚は────


僕はゆっくりと立ち上がり、キッチンに向かった。


プラスチックのコップを手に取り、蛇口の銀色のレバーを上げると、水が薄いステンレス板に当たる音が静かに響いた。


僕はそのコップに貯めた冷水を口に含み、シンクに捨てた。


深いため息をつく。


ふと見ると、デジタル式のタイマーはこの世界の終末への時間を、ただ無機質にカウントしていた。



「あと三十分か、短いな」


そう小さく呟いて、僕は、はっとした。


いや、僕はもっと前からその事実に気付いていた。


僕は息を大きく吸って、肩を落とした。




「……遅かったですね」


そんなさり気ない彼女の声が僕を酷く困らせる。


「ちょっと、考え事をしてたんだ」


僕は努めて、心の動揺を隠すべく冷静に答えた。


「そうですか」


彼女はそれ以上は言及してこなかった。




再び座り直した僕だったが、それ以降、目の前にある液体に手を出すことはなかった。


あと二十五分。


時間は少しの慈悲もなく、僕を急かすようにただ動き続けていた。


既に決まっていたはずの感情が動いてしまっている自分が、ひどく情けなく、残念なものに感じられた。


長く続く静寂。耳鳴りだろうか、何か嫌な音が聞こえる。


「─────では、ここで私からひとつ」


突然、彼女が人差し指をピンと立てながら、口を開いた。


僕は何を期待しただろうか。彼女の方を見た。



「私は、このまま世界が終わっていく。それで良いと思いますよ。今も変わらず、思い残すことも無いですし」



そうだよな──。思わず自嘲してしまった。



そして、自分を見透かされていたことを、ひどく恥じた。


それから、彼女は「なんだか、すごく悩まれていたようなので」と言って、最後に微笑んだ。




結局、僕が再度言葉を発したのは一五分後、つまり地球の消滅まで残り十分を切ってからだった。



それまで二人は一言も喋らなかった。



そしてその言葉を思いついてからは、それほど抵抗なく、すんなりと出てきた。



「僕はさ、この兵器を作る数ヶ月の過程で、この世の中で、皆が生きることができている理由が分かってしまったんだ。僕は、いわゆる幸せだったのかもしれない。いや、確かに僕は幸せだったんだよ」


言葉を、自分の気持ちを、噛み締めるように、紡いでいくように、ゆっくりと重ねていく。


「幸せと、明確な目標と。それは僕が生きようとする理由として、十分すぎた────」


つまり、僕が本当に言いたかったのは────


「僕は、それを失うのが嫌なのかも、しれない」


言葉は、語尾に近づくにつれて弱まっていった。


「かもしれない? 」彼女は鋭かった。



「いいや、ごめん、違う。失うことが、この幸せを失ってしまうことが嫌だったんだ……」


胸にあるのは、彼女への謝罪の気持ち。


情けなかった。自分は今どんな顔をしているだろうか。


しかしその反面、僕は彼女の優しい答えを少しだけ、いや、かなり期待していた。



「なるほど。よくわかりました」


彼女はそう言うと、すっと立ち上がって前を向いた。


手をあの兵器に添えて、その視線は真っ直ぐと、確実に何かを捉えていた。


「わたしがこの爆弾を作った理由、わかりますか? 」


ふと、彼女が僕に問うた。


「理由? 」


僕は何故か、その姿に圧倒されていた。


「わたしは、この世界に、私の願いなんてこれっぽっちも聞いてくれないこの世界に、完全には絶望しきれていなかったんですよ」


僕を捉えた彼女の目は、鈍く重く光っていて、しかし、そのあとに見せた表情は、これまで見たこともないほどに清々しかった。





* * *



僕は無機質な部屋で目を覚ました。


辺りには、金具や工具と、赤い液体の残ったグラスが二つ散らばっている。



窓から差し込む陽の光が眩しかった。


朝が来た。


生きとし生けるもの皆に平等に訪れる、始まりの朝。



しかし、そこに自分以外の温もりはなかった。


彼女は忽然と姿を消した。



彼女は、この朝を迎えたのだろうか。


最後に見た、彼女の表情が脳みそに焼き付いていて、僕は独り涙を流した。


そして、泣き腫らした目をそのままに、僕は彼女を探すために外に出た。



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世界消滅寸前物語 鯰川 由良 @akilawa7100

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