にんぎょ のゆめ

峡 みんと

にんぎょ のゆめ

 わたしは人魚。ニンゲンさんの「あし」とは違って、ピンク色の尾ヒレでおよいで、ニンゲンさんの「はい」とは違って、エラを使って息をするの。でも、わたしは半分ニンゲンさんだから、ニンゲンさんの言葉はちゃあんとわかるんだよ! うみの言葉のほうがいっぱい知ってるし、先生には言葉がヘンってたまに笑われちゃうけど、先生はうみの言葉ひとつもわかんないくせにー! って、もやもやーってしちゃう。あんまりえらそうにしないでほしいよね。

 今日も先生は、水そうの中のわたしに「おはよう」ってあいさつしてくれたの。わたしが「おはよう」って返すと、先生はいつもにこにこして、手をふってくれる。それからわたしは先生がくれるあまーいおやつを食べて、透明な壁ごしにハイタッチして遊ぶの。壁があるからわかんないけど、きっとやさしー先生の「て」はあたたたかい。あれ、あたたたたかい? ……どっちでもいいや!

わたしは先生のことがだーい好き。先生がいてくれるから、きゅうくつな水そうでもがまんできるし、

 毎日のながーい実験だってへーきなんだよ。



 こちらの相槌すら一切許さないマシンガントークで喋る人魚は、頭から尾鰭の先までで二メートルは優に超えている巨体であった。しかし顔の幼さ、周波数が異様に高い声はまるで幼い少女のようだ。上半身は貝殻……ではなく、水着のような白い布を纏っていた。

 ニコニコニコニコ。不気味にすら感じられる眩しい笑顔で、緑色の液体で満たされた巨大な水槽の中を泳ぎまわっている。三百六十度、出入り口だけを残して部屋をぐるっと囲むような形で存在している、まるで水族館のような水槽だが、大きな彼女にはそれでも狭いらしい。透き通るような長い髪が新体操のリボンのように水中で踊り狂う様を、私はただ見ていることしかできなかった。 

 私を驚かせたのは人魚だけではない。指定された時間通り、指定された場所に向かい足を踏み入れたその部屋は、酷い有様だった。天井から壁もとい水槽を伝いながら床下まで巡らされた何が何だかわからないカラフルな配線が剥き出しになっていて、少しでも気を緩ませると踏んづけて転んでしまいそうだ。床もまた酷い。フラスコだのメモだの鉛筆だの、ありとあらゆる道具が捨てられ放題だった。せめて机に散乱しているだけなら耐えられたが……床はないだろう。床は。筆記用具まで散らばっているのでは、何のために机を買ったのかわからない。フラスコに残っていた薬品が零れたのか、ところどころがこれまたカラフルに変色してしまっているし。アニメやマンガで見る「悪の科学者が保有する研究室」でももっとマシな見た目だったと思う。

「ニンゲンさん! どーしたの?」

 どこかに特殊なスピーカーでもついているのか、水槽にいるはずの人魚の声は一々大きく鮮明に聞こえる。どれくらい大きく鮮明かと言うと、突然声を掛けられた私が驚きすぎて尻餅をつくくらいだ。物理的に尻に敷いた紙を捲ってみるが、非常に達筆な字で解読する気を一瞬で無くした。くしゃくしゃと勢いよく丸めて投げ……ようとして、自分の上着のポケットに突っ込んだ。

「……あいつは本当に来るのか?」

 ビー玉のように丸い、緑の目の視線が痛かったので、私はなるべく柔らかい表情を作って彼女に問いかけた。人魚はほぇーと気の抜けた声をあげながら、その場で横に一回転した。

「わかんない。先生、いっつもちこくするから。でもだいじょーぶだよ。先生ニンゲンさんに会えるのすごーく楽しみにしてたんだ!」

 ――今すぐ帰りたい。これ以上強くこの感情を抱く日は、きっと生涯もう訪れることはないだろう。彼の遅刻癖が直っていないのは想定していたことだが、改めて巻き込まれるとたまったものじゃない。だが彼のことだ。どんな手を使ってでも私をここに連れてくるつもりだったんだろう。そしてやっぱり大幅な遅刻をかますのだろう。

 と考えていると、分厚い鉄の扉が、ゴオオと大袈裟な音を立てて開いた。爪楊枝みたいに細長くて、長い黒髪をボッッサボサにしたままの白衣男が、カツカツと無駄に耳触りの良い靴音を立てて中に入ってくる。男は私の姿を見つけると、それはそれは嬉しそうに口角を上げた。

「よく来てくれたね、我が親友のニンゲン君。どうかな? 僕が連れてきた本物の人魚は」

 男は両手を広げ、私に見事なドヤ顔をキメてきた。顎がしゃくれにしゃくれている。

「言いたいことが山ほどあるがまず一つ。……親友をそんな呼び方で呼ぶ奴がどこにいる?」

「彼女にとっての生物は『先生』『それ以外』の二択だからね。余計なことを考える必要はない。この部屋の中では、僕は『先生』でしかないし、君は『ニンゲンさん』でしかないんだ」

 ……頭が痛くなりそうだ。夢ならいい加減醒めてほしいが、この変人が自分の知り合いである事実は認めざるを得ない段階まで来てしまっていた。

「なんの事情かは知らないが、名前を呼ばないほうが良い、ということか?」

「察しがいいね。まあ、そういうことさ。この子に悪影響を及しかねないからね」

 『先生』は途端に柔和な笑みを浮かべて、人魚のいる水槽に近づいた。人魚の元々明るかった表情が更に光度を増す。私から見れば隈が酷い、寝ぐせも酷い、白衣もなんだか黄ばんできているように見える男がニコニコしている相当気味の悪い光景なのだが、彼女はそう思わないらしい。水槽越しにお互いの手を合わせて微笑みあっている。

「君は未確認生物とのイチャイチャを見せに私を呼んだのか?」

「違う違う。相変わらず君はせっかちだね。昔から変わらないな」

 君が呑気すぎるんだよ、という言葉は、円滑な会話の為飲み込んだ。

「せっかちな君の為に結論から話してあげよう。この子の実験に協力してほしい」

「はぁ」

「なあに。そう難しいことじゃないよ。勿論解剖や薬物投与なんて残虐なことは……」

 私の眉間の皺の深さに気がついたのか、彼は途中で話をやめた。「まあまあ」とわざとらしく笑ってみせると、肩をポンポンと叩いてくる。

「あのな。私だって今は真っ当な会社で働いている。君のイカれた研究に付き合うつもりはない」

 手を振り払いながら、大きくため息をつく。どうせそんなことだろうとは予想していた。数年ぶりにこいつから連絡が来た時は何事かと思ったのと同時に、嫌な予感が体中を駆け巡った。できればどうにか躱したかったが、逃げたところで地獄の果てまで追いかけてくるのがこの男だった。ここで逃げようとしても全くの無意味なんだろうと悟りつつ、一旦拒絶してみる。

「君なら断るであろうことも当然分かっていたよ。……ああ、そうだな。もう君とは十年の付き合いがあるね。大学ではいろんなことを研究したなあ。

人に言えないあんなことやそんなこと。……楽しかったねえ、今は真面目に働くニンゲン君?」

 厭らしくニヤニヤと、私を笑っている。もし大学生時代の私に会えるとしたら、殴ってでもこの男と関わるのを引き止めると誓う。私の舌打ちの音が部屋中に反響した。

「先生、ニンゲンさんも実験に参加するの?」

「どうだろうね。今『お願い』しているところなんだ」

「じゃあわたしもおねがいする! ニンゲンさん、いっしょに実験、しよ?」

 人魚は器用に私のもたれかかっている水槽の位置まで泳いできて、かわいらしく上目遣いで首をかしげてみせた。何が『お願い』だ。これは立派な恐喝なんじゃないだろうか。

 私は、汚い空気を肺いっぱいに吸い込んで、その全てを一気に吐き出した。

「……実験の手順は?」

「ありがとう! やっぱり君は親友だよ。実験は至ってシンプルだ。この子と少し……十分程度かな。お話をしてほしい。僕は離席するから、一対一でね」

「え?」

「僕以外の人間とこの子は関わっていない。いろんな話をしたつもりだけど、それでもまだデータが足りない。もっと様々なパターンで検証する必要がある。本来なら十人、いや、千人くらいは人間を集めたいところだがこの子に会わせられるのは君くらいだからね。そのあたりは妥協せざるを得ないかな。真っ当なニンゲン代表として、どうか一つ、『普通』の話を頼むよ」

 べらべらと喋りながら、先生は入ってきた扉に近づいていた。引き止めようと足を伸ばすと、ぐちゃくちゃのコードが絡みついてきた。

「禁止事項は三つ。僕の名前を言わない、君は自分の名を名乗らない。彼女に名前を聞かない。以上。僕は別室にいるから、何か不都合があれば電話なりなんなりかけてくるといい」

「おい、待っ」

 泳いで出口まで見送りにやってきた人魚ともう一度ハイタッチをすると、あいつはまた大袈裟な音を立てて扉の向こうへと消えていった。私のため息だけが部屋に残った。



「ニンゲンさん、よろしくね」

 人魚は健気にも私の傍にまた泳いできて、ぺこりと頭を下げた。私が軽く会釈すると、その後すぐに「なんでも聞いてね!」と天真爛漫な笑顔もくっつけてきた。

「はぁ……じゃあさっき海の言葉、とか言っていたな。君は海からやってきたのか?」

「そーだよ? わたしはうみで生まれて、うみで育ったの。先生とわたしがはじめて会ったのもうみでね、先生はわたしにひとぼれみ……ひ……ひ……ひ・と・め・ぼ・れしちゃったの!」

 きゃーっと頬に両手を当てて、人魚は首を振る。頬が特に赤くなっているとかは確認できなかったが、照れて恥ずかしがっている……ということだろう。……恐らく。

「それで、君を先生が誘拐したのか」

「ゆーかい? うーんと、先生はね、かけ、おち? っていってたかも」

 かわいらしい声色から全くかわいらしくない単語が飛び出してきた。あまりの気持ち悪さに一瞬思考が完全停止したが、目を閉じて深呼吸することでなんとか落ち着いた。ここは相変わらず空気が淀んでいる。水槽に四方が囲まれているから、窓らしい窓がないのだ。五感がとにかく忙しくて、まだ来てからそう時間は経っていないはずなのに八時間マラソンをした後くらい疲れている気がする。この床に尻を付けたくない気持ちは強かったが、意を決して配線とゴミの山を掻き分け腰を下ろした。

「悪い。もうこの話は終わりにしよう。君達はお互いを大切に思っているんだな」

「うん!」

「君から私に聞きたいことはあるか」

人魚は少し考える素振りを見せて、うんうん唸りながら八の字に水槽を泳ぐ。しばらくすると突然ブレーキをかけて、あ! と手をぱちんと合わせた。水中だから実際には一切音はしなかったが。

「先生のおはなし聞きたい! ニンゲンさん、先生となかよしなんでしょ?」

「違う」

「ええっ!?」

 人魚は大袈裟に元から丸い目を更に丸くして、水の中で一回転する。鮮やかな色の尾鰭の先が思いっきりアクリル板にぶつかり、鈍い音を立てた。人魚は「んー!」とバタバタ水の中で悶えているが、私は話を続けた。

「仲良しではないが、付き合いは長い方だと思う。大学が一緒で、卒業してからもしばらく一緒に研究もしていたんだ」

 人魚は意外にも比較的大人しく、頷いて私の話を聞いているようだった。「なかよしじゃん」と小声で呟いたような気がするが、きっと気のせいだろう。尾鰭を時々上下に動かして、その度に水槽の中に泡ができている。貧乏ゆすりのようなものだろうか。

「あいつには私が持っていなかった才能があってね。早い話、天才だったんだよ」

「……さいのーって、なに?」

 人魚はきょとんとして、私に尋ねてきた。

「神様、は分かるか?」

 人魚はこくりと頷いてみせた。

「神様が人間に与えるものが才能。先生には人とは違う特別な力があった、ということ」

「ニンゲンさんにはなかったの? さいのー」

「無かったよ。運も才能も。先生はどっちも持ってたのに」

 別にそんな雰囲気にしたくて言ったつもりはなかったが、こんなネガティブな言葉選びをするから人魚はしょぼくれてしまっていた。「なんでそんなこというの」と涙が喉に絡んだような声で訴えかけてくる。事実だから仕方ないだろ、と反論したかったが大人気がなさすぎると思い、やめた。

「一緒に研究をしている時は勿論楽しかったよ。発明や発見を重ねて、先生は今やすっかり有名な研究者だ」

「先生、すごいんだね!」

 人魚は自身の手をぱっと握り締めて、嬉しそうに笑った。なんとか機嫌を直してもらえたようだ。

「昔は先生にも夢があったんだ……あ、先生はもしかしたら、今も夢を持ってるかも」

「ゆめ?」

「願い事とか、目標とか……君にはないのか。夢」

「うーん」人魚はまたぐるぐると回って長考モードに入る。今度は八の字ではなく、うずまき状にぐるぐるぐるぐる。……酔わないのだろうか。

「うーん……うーん……あ!」

 やはり人魚は急に止まる。目をキラキラ輝かせながら、壁にぶつかるギリギリまで顔を近づけてきた。

「ニンゲンさんの、ゆめ、か、かに……かなえたい! それがわたしのゆめ!」

 は、と口から声が漏れ出た。人魚は得意気にぱたぱたと尾鰭を動かしている。あまりにも純粋なその両目に、これの正体を忘れてしまいそうになる。

「先生ね、ニンゲンさんのこと大好きだって言ってたよ。先生がすきなものはわたしも好きなの。だから、ゆめ、おしえて! かなえたいの!」

 口を開くより前に立ち上がって、アクリル板に手のひらを当ててみる。すると人魚はぱっと表情が明るくなって、少し水かきがついた白い手を、私の手のひらの位置に重ね合わせてにっこり微笑んだ。

「……いや、いい。私の夢は……」

 と、言いかけたところで同時に大袈裟な扉の音が鳴り響く。

「実験は終了。お疲れ様、ニンゲン君」

 声と共に、先生が手に持っていた黒いリモコンのボタンを押す。

すると、先程まで元気に泳いでいた人魚はぴたりと動かなくなり、水槽の底に落ちていく。

 眠ったのではない。『落ちていく』のだ。丸い目を開きつつ、無表情の人魚は尾鰭を動かさないまま、どんどん底へ向かって沈んでいる。この様子を見ていると、緑色の液体で満たされた水槽が急激に毒沼か何かに見えてきた。 

私は深い、深いため息をついた。

「こんなロボット作って、何に使うつもりだったんだ。というか不気味すぎるだろ」

 私はこつこつとアクリル板を人差し指の関節で叩いてみる。人魚は反応しない。相変わらず目はかっ開いたまま手の指先まで完全に脱力していて、髪の毛を模した繊維だけがゆらゆら揺れている。子供が見たらトラウマになるとかそういうレベルの話ではない。

「単純に伝説上の生物をロボットにしたら面白いかと思って。人魚のお姫様は今でも子供たちに人気だしね。福祉とかにも役立つんじゃないかなって……いやあ、それにしても君の話は面白かったよ。まさかこの子が他人を思いやる言動をするなんてね。今回のデータは今後の人工知能アップグレードにも役立ちそうだ。本当にありがとう。さて、次の実験の予定なんだけど……」

 汚い床に仰向けに寝転がり、べらべらべらべらノンストップで喋りながら彼は白紙にボールペンで実験の結果を書き殴り始めた。光に透けて字が見えたが、相変わらず素晴らしい達筆で、私には異国語にしか見えない。もしかしたらこれが海の言葉だったりするんだろうか。

「また協力するとは一言も言ってないが」

「来てくれるだろ? 君なら」

 引き摺ってでも連れてくるつもりなんだろう。「いつ」と尋ねると、どうやらこれから毎週駆り出すつもりだったらしいことが判明する。本当に調子のいい男だ。

「如月」

 実験はもう終わっている。素直に名前を呼ぶと、ペンを走らせるのをやめた。

「何故人魚には名前を付けなかったんだ」

 そう問うと次の瞬間には、ペンと紙を放り投げてしまう。はぁ、とわざとらしくため息をついて、立ち上がった。

「……名前まで付けちゃうと、戻れなくなるからなあ。ねえ、サクマ?」

 如月はふにゃん、と口角を緩めて頭を掻いた。人魚に向けていたものよりも、ずっと柔らかい笑顔だった。

「やっぱりあれのモデルは君の娘か」

 髪の色こそ違ったが、あの丸い緑目には見覚えがあった。……まあ、その時は尾鰭ではなく、彼女に生えていたものは「あし」だったが。

「そっくりでしょ?」

「気味が悪いくらいな」

 私は少女の姿を思い出していた。いろんなことに興味のある、明るい子だったと思う。物語が好きで、よく如月や母に読み聞かせを要求していた。自分が人魚になったと知れば、きっと喜ぶんだろう。

「嫁さんは元気なのか」

「もう随分会ってないなあ。あの子が亡くなってから、お互い一緒にいる意味が分かんなくなっちゃってさ。……あ、収入は渡してるからね?」

「言い訳がましいな。君が避けてるんじゃないのか。これ以上迷惑かけられないからって」

 如月は藍色の、少し濁ったような目を見開いて私の顔をじっと見つめた。

「敵わないね、君には」

 藍色のなかに、ぼんやりと諦観が浮かんでくる。彼の中に微かに渦巻いている濁りが、私の前に虹彩を通してにじみ出ていた。

「後悔してるか、私に名前を付けたの」

「そりゃあもう。人生最大の失敗だと思っているよ」

 よっこらせ、と年寄りみたいな声を出しながら如月は起き上がる。

「佐久間もあの子も僕を置いていくんだ。ひどいよなあ、全く」

 弱々しい声で、彼は名前を呼ぶ。私であって、私でない名前を。

 


 如月隼人は天才だった。否、もはや人知を超えた神とも言える存在だった。彼の作る人工知能はほとんど人間と相違ない。ロボットに無く、人間にはある「不完全性」を彼ほど完璧に再現した者は、もう現れないとされている。助手も持たず一人で次々とロボットを生み出す彼自身がロボットなのではないか、という冗談が世間で流行る程の才能に、世のロボット研究者たちはよく嫉妬をしたものだ。今や、彼を越えようとする者は現れなくなったが。

 だが、彼の身に宿されたのは神の力だけではない。人間が神に近付こうと建てたバベルの塔が崩されたように、人魚の姫が脚を得る代わりに声を失ったように――彼は類まれなる才能と引き換えに、ずっと付いて回る“不幸せ”を背負っている。娘は病気で小学校にも上がれないまま亡くなり、

彼の唯一の友人であった佐久間千秋は数年前、事故でこの世を去った。

 私は如月隼人が入力した佐久間千秋の記憶を基に学習し、人格を形成したプログラムに過ぎない。私が頭脳となって動かしているこの体は、人工皮膚などの素材をかき集めてできた。如月隼人との思い出は、彼が記録したものなら全てメモリに入っている。好みも、嫌いなものも、得意不得意だって佐久間千秋を完璧に再現している。見た目だって言われなければ誰も機械と気付いたりしない。人間に成りすまして、至って普通の生活を送る。――ただ、それでも。

「分かってるよ、死者が生き返ることはありえない」

 しばらく黙り込んでいた如月は不意に口を開いた。発せられたのはずっと前から彼の口癖になっている文言だった。

「それでもせめて彼が生きていた証が欲しくて、君を造ったつもりだった」

「けど」と何かを言いかけて、如月は再び黙り込んだ。口をパクパクさせて、静かに首を振った。途端にふにゃふにゃ顔に戻った如月は手をひらひら振る。帰ってほしいということだろう。私は配線やゴミに足を引っかけながら、素直に部屋を脱出しようとした。

「サクマ」

 扉に手をかけたところで名前を呼ばれる。振り返ると、如月は先程とは打って変わって、真剣な表情でこちらを見据えていた。

「ありがとう、来てくれて。嬉しかった」

 扉が閉まる直前、半分独り言のように如月は言った。



 ようやく見ることができた空は灰色をしていて、ざあざあと音を立てて雨が降っている。山奥にある研究施設付近の天気はどうやら変わりやすいらしい。せっかく機械の体なのだから、正確な天気予報とか、もっと便利な機能をつけてもらうべきなのだろうか。だが、大抵のことはできてしまう如月がそれをしないのは、きっと私に与えられた役目がそれではないからだ。

 そんなことを考えながらふと、立ち止まった。

 次ここに訪れたら、ここは山ごと消し飛んでるんじゃないだろうか。彼は、瞳の中の濁りに、体を覆いつくされているんじゃないか――そんな危うさが、今日の如月には存在していた。何も変わっていないように一瞬見えたが、数年間で彼の精神は確実にひどく摩耗していた。それもそうだろう、一人でずっと研究に没頭していれば、自覚はなくとも心が削られてしまう。他に友人でも作ればいいのにと思うが、すっかり捻くれ塞ぎ込んでしまっている彼には難しいだろう。「得なければ、失うことはないから」と、自嘲的な笑みを浮かべる如月の顔が容易に想像できてしまった。

 雨はひどくなるばかりで、冷たい水は容赦なく私の体を打つ。表面温度が低下しているのを感じるが、それでも持ってきた折り畳み傘を開く気にはならない。無邪気な人魚の言葉が、頭の中で何回も何回も再生され続けている。……夢。佐久間の生きた証としての自分には、遠い存在だと思っていたが。彼女が叶えたいと言ってくれた私の夢は、一体どこにあるのだろう?

 胸のどこかが熱くなった気がして、私は雨空に手を翳した。

 ――少し考えよう。何故私がここにいるのかを。



 人魚は眠っていた。水槽の底で、両手を胸にあて、静かに目を閉じている。時々に鰭が揺れ、ぷくぷくと水泡が上がっていく。……一週間でここまで改良が進むとは。彼にはいつも驚かされる。

「お疲れ様。今日も付き合ってくれてありがとう」

 如月は満足げに私の隣に立って、水槽の中を眺めている。私はふぅ、と一つため息をついた。持ってきた大きめの鞄に手を突っ込むと、布地に指先が触れた。

クローゼットの奥でずっと眠っていた白衣に袖を通す。如月の物とは違って清潔なそれは、恐ろしくなる程自分の体によく馴染んだ。振り返った如月は人魚のように目を丸くした。

「さく、ま?」

「私は君のような天才じゃない。開発自体を手伝える自信はないが、掃除とデータをまとめることくらいはできる。あと、話し相手にもなれるかな」

 襟を直しながら、床に散らばり放題になっているメモのうち、一枚を拾い上げる。やはり芸術的な字が羅列されていた。

「君の発明は素晴らしいよ。多くの人を救ってる。けれど、あれからずっと気がかりだった。君の心は誰が救ってくれるんだ、って」

 彼の顔に困惑の色が滲む。水槽を右手の指先でそっとなぞった。

「君と一緒にこの子を完成させることが私の夢だよ」

 如月は静かに息を呑み、水槽の中で眠る人魚と私の顔を交互に見た。同時に、彼の瞳の中にあった濁りが、すうっと消えていくような気がした。彼は下を向き、堪えるように肩を震わせた後、ぷはっと噴き出してから大声で笑った。

「やっぱり君には敵わないなあ」

 上擦った声で白い歯を見せる。彼の本来の笑顔は、私に焼き付いた学生時代の記憶のそれと全く同じだった。

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にんぎょ のゆめ 峡 みんと @mintsan224

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