第二夜 満月の夜に、あなたに会うために

「おい嬢ちゃん、嬢ちゃん! 大丈夫か?」

 初老の男は必死で娘に呼びかけた。結い上げられていただろう髪はほつれ、白い顔には傷がある。

 闇が街路を陰で満たす頃である。男は遠方での仕事を終え閉門間際に市内へ滑り込むと、心地よい疲労を感じながら揚々と馴染みの帰路を歩んでいた。ところが普段は見慣れぬものが行く先にあるではないか。鈍色の鉄塀に挟まれた路地から、その場に似合わぬ上質な布がはみ出していたのだ。

 駆けつければこの娘だ。服はドレスに見えるが所々が裂け、砂や泥で汚れている。顔は憔悴しきり、辛うじて息はあるが危険かもわからない。

「くそっ……」

 病で亡くした自分の娘と同じ年頃である。瞼を閉じていても分かる賢そうな相貌。このまま路地裏に捨て置くなど——

 娘の頬をもう一度軽く叩く。地についた男の膝の横で、娘の指が僅かに動いた。

「嬢ちゃん、もちっと頑張れよ」

 男は荷物を背中に回し、勢いをつけて娘を抱き上げた。


 ☆


 木漏れ日が地に落ち、陽光を透かす葉の影が水際の岩肌に点描のような模様を描き出す。微風が吹けば無数の点は揺れ、その様はせせらぎに合わせて踊るようだ。

 昼の光の中で川面が星の如く輝くのを眺めて、娘は深く息を吸い込んだ。新緑の匂いを孕んだ湿った空気が肺一杯を満たしていく。目を瞑ると水音はさらに明瞭に響いた。

 その規則的な律動を破って、パキンと小さな音が耳に入る。

「こんな日中にお手伝いのサボり?」

「失礼だな。昼休み中だよ」

 振り向くことなく娘が問うと、小枝を踏んだ人物は苦笑いしながら娘が座る切り株に近づいた。

「店番はいいのか」

「おばさまに頼まれて染め物用の花を摘みに」

「店先に見えないから探したよ。随分あの家にも慣れたみたいだね」

 娘は青年の方を振り向き、返事の代わりに微笑する。


 あの夜、男は娘を自宅へ連れ帰った。目を覚ました娘に問えば、市外からこの街へ辿り着き、路銀もなく彷徨ううちに意識を失ったらしい。身なりからして高貴の出自であるのは明白だが、老夫婦は身寄りがないという娘を放ってはおけなかった。以来、娘は店を手伝いながら夫婦の家に暮らしていた。

 娘は美しかった。傷が癒えて生気が戻ると、その美しさは一層際立った。背中に流れる髪は艶めく漆黒で、白い肌がよく映えた。紅をささずともほのかに染まる頬や唇は女性らしく、何より笑うと途端にその場が華やいだ。当然ながら想いを寄せる男性が続出した。だが、肩を落として自棄酒を呷る若者も絶えなかった。

「そちらこそどうしたの? お昼休みにこんな林まで」

 屈託なく問いかける表情が青年には別世界のもののように眩しすぎた。しかし、今日こそはその世界に入りたいと、決意を固めてきたのだ。

 青年は一歩、川の方へ踏み出し、娘と正面から向き合う。

「率直に言う——僕と一緒になって欲しい」

 老夫婦の店には毎日通った。街で最も娘と親しい若者は自分だというのは、自他共に認めるところだ。ある予感はしている。しかし、時は婚礼の月だ。

 震えるのを耐えて、青年は続ける。

「好きだよ」

 娘の瞳から笑いが消えた。

 青年の視線を真っ向から受け止めている。青年の鼓動が激しく胸を打つ。せせらぎの音も掻き消すと思うほど。

 桜色の唇がゆっくりと開いた。

「ごめんなさい——気持ちは嬉しいけれど」

 裏切られて欲しかった予感が本当のものとなる。

「それは……例の男がいるからか」

 娘は一瞬口をつぐみ視線を泳がせたが、しかと頷いた。

「私には、どうしても会わなければいけない男性がいるの。彼に会うために私は」

「でも可能性は? 君が高貴な出だとは聞いているけど、身寄りがないんだろ? 市井に下りもう一度貴族に近づくなんて」

「侍女なり下働きになるなり、道はあるわ。ごめんなさい。だから」

 そう述べる声には芯があり、再び力強く青年を見据える。

「私に関わっていない方がいいわ。貴族社会は恐ろしい。貴方が騎士ほど強いならともかく……」

 青年が顔を歪ませると、娘も苦しそうに目を細めた。だが瞳に宿る光には寸分の翳りもない。

「貴方がとても優しい方なのは知っています。そんな方が私みたいなのといては危険だわ。身を滅ぼそうともある人を追いかけている愚か者に関わるなんて」

 流水が岩に当たって砕ける。飛沫が上がり、青年の靴を濡らした。

「幸せになって欲しいのです——私などは忘れて」

 長い髪が揺れ、青年の傍らを過ぎる。娘の籠から溢れた黄色の花弁が砂利の上に落ちる。

 枝葉を踏む音は遠のき、青年を取り巻くのは清流と葉擦れの響きだけになった。

 空になった切り株の表面では、渦を巻く年輪に木枝の暗い影がさしていた。


 ☆


 娘は街から居なくなった。

 貴族の屋敷仕えになったという。店先に花のような笑顔はもうない。街は娘の来る前と同じに戻っただけのはずだ。

 しかし、青年の胸中には空虚な穴が出来たようだった。どの道にも、どの角に居ても、娘の姿が脳裏に蘇る。

 他の誰より愛せるという自信はあったのに、娘は行った。会いたいと切望する貴族の元へ。もとより身分違いの恋であり、惹かれたこと自体が誤りだったのか。





 季節が巡った頃である。青年が馴染みの店でぼんやりと夕餉を取っていると、正面の椅子が音を立てて引かれた。

「まだそんな顔で。抜け殻か」

「……ほっとけ」

「ほっとけるか。しゃんとしろ。朗報だ」

 この心境が変わるものかと青年は疑りの目を向ける。すると友人は意味ありげな笑みを浮かべて折り畳んだ紙を鞄から取り出した。

「お前がぼやいてた件さ。騎士団の募集だ」

 黒ずんだ古木の卓上に広げられた書面には確かに、青年に適した条件の公募要綱が記されていた。茫洋としていた頭が瞬時に働きだし、思わず身を乗り出す。

「雇い主は」

「夜会歩きで有名なあの侯爵。ちょいと探ってみたら人一人捕えるために人員を増やすんだと」

 いまの今まで空っぽだった胸の内に熱いものを感じる。数々の夜会の護衛につければ、万が一にも。


 ——貴方が騎士ほど強いならともかく——


 まだ希望はあるのか。この市井から出て、彼女と同じ世界に入れたなら——






 数日後、白銀の満月が地を照らす夜に、一人の青年が騎士団に選ばれ、街を後にした。


 愛する女性に再会するために。

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