フーコーの女子高生
鳥辺野九
ルビロスト
フードコート。それは、戦さ場。
ある者は身体を蝕むほどの空腹を癒すため。ある者は弱き意思が付き纏う勉学に勤しむため。ある者は耐え難き孤独を紛らわすため。ある者は絶対の友よ健やかなれと語らい合うため。
フードコートに集い、争い、満たし、散りゆく。
フードコートは兵どもの夢の跡。
フードコートは戦さ場なのだ。
アンチプロレタリアート派の台頭により、人民は豊かな知識と深い教養があって然るべきとの大前提の下で厳しい言語統制が実施された。それにより、すべての言葉からルビが奪われたフードコートにて。
「ねえ、めぐちゃんってさ、実は豚汁派? やっぱり豚汁派?」
富士見月見月はぷりぷりしながら言った。
何言ってんだこいつって蔑んだ目で、高梨めぐは栗毛色した長い髪をかきあげた。
「豚汁派だけど?」
「ほうほう、現実的だねえ。灯子ちゃんは? 豚汁? それとも、豚汁?」
質問の矛先がいきなり自分に向けられて、財津灯子は眼鏡を直しながら吐き捨てるように一言だけ返す。
「豚汁」
「おおっと、灯子ちゃんって意外とアグレッシブ?」
うららかな午後のひととき。フードコートはそこそこ賑わっていた。その一角、四人掛けテーブルに陣取るそれぞれ違う制服の女子高生が、三人。
「それがどうしたの?」
咥え煙草のようにフライドポテトを口に、めぐは面倒くさそうに片肘ついて聞いた。月見月はミニ牛丼と豚汁セットを乱暴に置いて、ポニーテールの黒髪を躍らせてすとんと座る。
「今さ、豚汁セット頼んだら店員に『豚汁セットですね?』って言い返されちゃってさ。こっちも意地になって『豚汁セットです』って言ってやったのさ」
「何その店員。教育なってないわー。ネットに晒しあげとく?」
めぐが気怠そうに月見月に同調した。だよねー、と月見月は少しだけ嬉しそう。それを見て灯子はやれやれとベリーショートの髪を撫で付けるように触れて、カフェオレのカップを傾けた。
「どっちでも構わない。豚汁だろうが、豚汁だろうが」
「構わなくなくない?」
めぐはフライドポテトを勢いよく噛みちぎり、その断面を灯子に見せ付けるように突き出した。
「アンチプロレタリアート派のせいで私たちは言論の自由を奪われたの。これはすでに言の葉戦争。おしゃべりの自由が死ぬか、あいつらが死ぬか」
灯子は眼鏡の奥に光る切れ長の目でめぐを見つめて、つと腰を浮かせ、突き出されたフライドポテトをぱくりと口に含んだ。めぐの指先ぎりぎりに、灯子の薄い唇。
「そこイチャイチャしてんじゃねーよ。SNSで炎上させようにも、店員のネームプレートが読めなかったのさ」
月見月は不貞腐れて豚汁を(あるいは豚汁を)ずずっと啜った。
「読めなかったって?」
灯子の問いかけに月見月はもったいぶって答える。
「東・海・林」
「出たよ。謎当て字。どう捻くれたら東海林が東海林に読めるわけ?」
全国の東海林さんと東海林さんを敵に回す発言をするめぐ。
「東・海・林って、東海林さん? 東海林さん?」
灯子がカフェオレを舐めるように味わいながら、どっちでも良さそうな平坦な口調で聞いた。
「だから東海林だってば。いったい東海林のどの漢字がちっちゃい『よ』を担当してんのさ」
「『東』」
「どうやって発音すんのさ」
「『ょ』」
「うわー、こいつモヤモヤするー! モヤるー!」
じゃれ合う子猫たちのような月見月と灯子に、めぐはフライドポテトをもぐもぐやりながら言ってやる。
「モヤるって、あんたの『富士見月見月』って名前だって立派な初見殺しネームじゃん。初めて名前知った時モヤったわー」
「モヤりませーん! フジミツキミヅキちゃんは全っ然モヤりませーん! すべてはルビ禁止令を制定したアンチプロレタリアート派が悪いのさ!」
急にモヤり攻撃の対象が自分になってしまい、月見月は牛丼を食べるのも忘れて慌てて反撃した。
「モヤると言えば」
相変わらずテンション低めの灯子が、腰を浮かせて力説する月見月の肩に手を置いて座らせる。
「『僕の僕になりなさい』って台詞の使い所が難しくてモヤったわ」
「何よ、そのトゲのついた鈍器みたいな台詞は」
ボーイッシュな灯子は眼鏡越しの目力でめぐのつっこみを黙殺する。
「僕の僕の僕を下僕って単語に置き換えて事なきを得たけど」
「そのパワーワードはどんなシチュエーションで使う台詞なのさ」
「知りたい?」
「う、やめとく」
月見月の追撃も灯子には及ばなかった。ニコリ、切れ長の目を細めて灯子は満足げにカフェオレに口をつける。
「下僕で思い出したけど、こないだパパと茨城の大洗に行った時に……」
「きっ!」
不意に隣のテーブルに座ったくたびれた中年サラリーマンが叫んだ。思わず言葉を飲み込んでしまっためぐ。月見月も灯子もびくっと隣のテーブルを凝視する。
「いばら、きっ!」
中年サラリーマンはもう一度言い切った。乱れ散らかった前髪を斜めに整えて、三人の女子高生の方をちらりと見もせずに冷めきったかけうどんをすする。
「茨城でも茨城でもどっちでもいいじゃん。そもそも平日の午後におじさん一人でフードコートで何してるのよ」
全茨城県民、いや、全茨城県民を敵に回しためぐ。
「まさか、アンチプロレタリアート派?」
キラリと光る眼鏡の向こう側から灯子がじっとりとサラリーマンを見つめた。
「妄想の中で、僕の僕にしてあげる」
「灯子、おじさん相手に腐っちゃダメ!」
「灯子ちゃんがお腐れ様になっちゃう!」
めぐと月見月が暴走を始めた灯子の身体を抑えた。ふと、我に返ったように大きく瞬きをした灯子は、こんな自分に真正面から向かい合ってくれる親友たちに静かに告げる。
「私、気付いた。こんな狂った世界でも、ルビを呼び出す方法がたったひとつだけある」
めぐと月見月が顔を見合わせる。灯子はとうとうと謳うように透き通った声を紡いだ。
「我が右手は銀雪、我が左手は烈風。旧き御魂の契約に基づき、絶対零度の枷となれ!
「ルビが……!」
「振られた……!」
灯子の言霊にルビが舞い降りた。アンチプロレタリアート派により虐げられ歪められた歴史の中、今ここにルビが復活したのだ。
しぃん、と静まり返るフードコート。まさに絶対零度の枷がすべてを凍て付かせたようで。
そうっと眼鏡を外して、白い両手で顔を覆い尽くし、細い身体をぷるぷると震わせて、灯子は消え去りそうな声でささやいた。
「……ワタシヲ、コロシテ……」
「もういい、もういいよ。灯子」
めぐが灯子の震える肩を抱く。
「灯子ちゃんは立派に戦ったよ」
月見月も灯子とめぐを抱き締めた。
彼女たちのアンチプロレタリアート派との戦いはまだ始まったばかりだ。
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