第11話 ここあけーき

 細かい雨が空から降り注ぎ、じんわりとした湿気が纏わりついてくるある日、雨の日限定で開店をしている『かふぇ・れいん』の店内では夕雨と雨月が下拵えなどをする中で雨仁と雨花が揃って掃除をしていた。


「……だいたい終わったな。雨花、そっちはどうだ?」

「あ……はい、こちらもだいたい終わりました」

「わかった。夕雨さん、雨月さん、掃除は終わったぞ」

「うん、ありがとう」

「こちらの作業もだいたい済みましたし、これでいつお客様がいらしても大丈夫ですね」

「そうですね。ところで、二人もだいぶ手伝いは慣れてきた感じがするけど、何か他にやってみたい事はある?」


 夕雨からの問いかけに雨仁と雨花は顔を見合わせる。しかし、雨花は雨仁の顔を見た瞬間にハッとすると、頬を赤くしながら軽く目をそらした。


「わ、私は……せっかくなのでお飲み物の担当をしてみたいです」

「雨月さんの担当の方か。まあ俺もフードの担当をしてみたいと思ってたからちょうど良いんだが……雨花、なんでちょっと目をそらしてるんだ?」

「な、何故かはわからないのですが、昨日から雨仁さんの顔を直視すると少し恥ずかしい感じがするというか……」

「俺の顔を見ると、か……まあ俺が特に何かをしたわけじゃないようだから別に良いか。夕雨さん、フード担当をするならやっぱり調理師免許は必要か?」

「そうだね。他にも持っていてもらわないといけない資格や免許はあるから、それはおいおい勉強をして取ってもらう形になるかな」

「わかった。それじゃあ今日の夜にでも何が他に必要か教えてくれ。ここで世話になっているからにはしっかりとそれはやっておきたいからな」

「うん、了解。それにしても、雨仁君がだいぶやる気満々だけど、このやる気ってそもそもどんな物なんだろうね」


 夕雨が首を傾げると、雨月はクスクス笑ってからそれに答えた。


「一般的には別名快感ホルモンと呼ばれている神経伝達物質、いわゆるドーパミンという物なんだそうです」

「快感ホルモン……ですか?」

「はい。生き物には食欲や睡眠欲といった本能的な欲求から自己顕示欲や他者からの愛を求める欲などの社会的な欲求まで色々ありますが、ドーパミンはこれらの欲求が満たされた際の快感を餌として生き物を動かそうとしており、これを報酬系と呼ぶのだそうです」

「報酬系……たしかに達成した事で快感を得られるわけですからそういう感じですよね」

「ただ、このドーパミンによる快感の依存症になってしまう方も少なくないようで、お酒に含まれるアルコールを摂取する事でもドーパミンは出てきてしまうので仕事の達成などの健全なドーパミンの発生よりもアルコールの摂取によるお手軽なドーパミンの発生で快感を満たそうとする方もいるようです」

「そういう奴はだいぶ堕落してると思うけどな」


 雨仁が吐き捨てるように言うと、雨月は哀しそうな笑みを浮かべた。


「ただ、そういった手段でも気持ちよさを感じたい方がいるのは仕方ないのかもしれませんけどね。因みに、ドーパミンを出す際に大切なのは何らかの成功体験で、段階的に成功体験を重ねてより大きな快感を得ようとする事で頑張っていこうと思えるようです」

「それでは、雨仁さんの中では今そのドーパミンという物が出ていて、それに突き動かされる形で先ほどの発言が出たという事ですか?」

「そういう事ですね。やる気があるのは良い事ですし、達成感を求めようとしている形なのでより良いと思います。雨仁さんもそうですが、雨花さんも何か他にやってみたい事がありましたら遠慮なく言ってください。そのために私達もしっかり応援しますから」


 雨月の言葉を聞いて二人が頷いていたその時、ドアベルを鳴らしながらドアが開き、緑色の傘を持った一人の女性が中へと入ってきた。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

「あ、はい……」


 女性は返事をしてから傘を傘立てに置くと、カウンター席に座って小さくため息をついた。


「はあ、やっぱり気持ちがまったく上向かないなぁ……」

「なんだかお疲れみたいですね。もしかして何かお悩みですか?」

「……やっぱりわかりやすいですかね?」

「それもあるんだけど、ここに来たっていう事はそれなりに大きな悩みを抱えてるって事だからな」

「え? どういう事?」


 女性が不思議そうな顔で聞くと、雨花がそれに答えた。


「ここは押し潰されそうな程に辛い気持ちを抱えた方々が雨によって導かれる場所なんです。なので貴女もそうなのではないかと思っているのです」

「なるほどね……まあたしかに間違ってないし、せっかくなので聞いてもらっても良いですか?」

「構いませんよ」

「ありがとうございます。私は土見どみ留希るき、会社員をしているんですが、最近色々な事に対しての気力がまったくわかなくなっているんです」

「気力が……」

「学生時代は生徒会長をやりながらクラスの委員長をやったり部活動に精を出したりしていたんですが、会社員として働いてる内に色々なストレスや人間関係のもつれなんかが重なったのか仕事だけじゃなく家の事をやる気力すらわかなくなってきて……おかげで恥ずかしい事に家がプチごみ屋敷みたいになってるんですよね」


 留希がため息をつくと、夕雨はうんうんと頷いた。


「わかりますよ。私も前は会社員をしていて、そこがかなり酷かったので自炊する気すら無くなってきちゃうんですよね。私は料理をするのが趣味だったので何とかなってましたけど、そうじゃなかったら同じようになってたと思います」

「やっぱりそうですよね……はあ、どうしたら良いんだろ」


 留希は再びため息をつくと、メニューをパラパラ捲り始めた。そしてある名前を見つけると、その手を止めた。


「ここあけーき……?」

「はい。そちらになさいますか?」

「はい、そうしてみます。あと、こうちゃをください」

「畏まりました。では、夕雨さん」

「はい、雨月さん」


 二人は頷き合うと、作業に取り掛かり始めた。そしてその人並み外れたスピードとコンビネーションに留希が驚く中、雨花は留希に話しかけた。


「色々大変な事があって身体より心がお疲れになっていると思いますけど、夕雨さんが作るお料理と雨月さんが淹れるお飲み物を味わえばきっと明日からの活力になりますよ」

「そう、かな……」

「はい。私では土見さんのお気持ちを全てわかって差し上げる事は出来ませんが、それだけは断言出来ます。なので、今だけはお仕事の事などは忘れて、ゆったりとしてください。他にも何かお話ししたい事があればしっかりと聞きますから」

「貴女……そうだね、それならお言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとうね」

「いえいえ」


 微笑む留希に対して雨花が笑みを浮かべ、それを雨仁が静かに見る中、夕雨と雨月は微笑みながら作業を続けた。そして十数分後、留希の目の前には茶色に染まったケーキが数切れ載せられた皿と紅茶が注がれたカップが置かれた。


「ここあけーき、そしてこうちゃ。お待たせ致しました」

「わあ、美味しそう……! イメージしてたのはショートケーキのような形だったけど、これはこれで美味しそう!」

「ふふ。それでは、ごゆっくりどうぞ」

「はい! それじゃあ……いただきます」


 留希は手を合わせながら言うと、添えられたフォークを手に取り、ここあけーきを一口サイズに切り取ってからそれを口に運んだ。


「……美味しい! ちょっとビターな感じだけど、苦すぎない上にちゃんと甘いから食べててホッとするし、このビターさが今の私にはすごく合ってる気がする!」

「甘いものを食べると幸せホルモンっていう物が分泌されますし、ビターな物って気持ちをシャキッとさせてくれますから食べすぎなければ心身ともに良薬になってくれるんですよね」

「そうですね。さて、土見さんのお悩みですが……これは自分に何かしらの報酬を用意して日々を頑張るのが良いと私は思います」

「報酬……仕事を頑張ったら甘いものを食べて良いとかそういう感じですよね?」


 咀嚼していたここあけーきを飲み込んでから留希が聞くと、雨月は頷きながら答えた。


「その通りです。労働の対価としてお給金を貰うのと同じで日頃のお仕事や家事に対して自分から何かしらの報酬を用意し、それを得るために頑張り、仕事の量や難易度に応じて段階を上げていく。この形ならば頑張れると思いますよ」

「段階的に、かぁ……たしかにそういう形なら頑張れるかもしれません」

「励みになる物があるのとないのじゃだいぶ違いますしね」

「はい。あ、せっかくだからここに来るのもご褒美の一つに加えようかな。それでまた貴女に話を聞いてもらうの。それでも良いかな?」

「はい、もちろんです。私でよければたくさんお話しを伺いますね」

「うん、ありがとう」


 留希が嬉しそうに笑い、雨花はそれに対して微笑んだ。そして雨が降り続ける中、『かふぇ・れいん』では留希が雨花と楽しそうに話し、雨仁や夕雨達がそんな二人の様子を静かに見ていた。

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