第20話 出撃した日

「明日!?」


 ヘイカーの驚きの声に、リゼットは首肯した。

 いつものように、クルーゼ家で夕食を取っていた時のことである。ヘイカーは驚きのあまり、食べる手を止めた。


「ええ。私は明日、紛争地に向かわなくてはならなくなった」

「……うそ、だろ……」


 危惧していたことが現実のものとなり、ヘイカーは顔から血が引いていくのを感じた。


「つくづく、あなたを騎士から退団させておいて良かったわ。現在の戦局は厳しいものよ。イオス殿とスティーグ殿が先んじて戦地へと向かったけれど、私は明日出撃予定よ」

「リゼット……行くな……行くなよ」


 ヘイカーがそう言うも、リゼットは悲しい顔で首を横に振る。


「そういうわけにはいかない。わかるでしょう? 私は隊長で、アーダルベルト様の治癒騎士という立場なのよ」

「だけど……!」

「ねぇ、ヘイカー。我儘を言っていい?」

「なんだよ……」

「無事に帰ってくることができたなら、私と結婚してほしい」


 リゼットに逆プロポーズをされたヘイカーは、涙が溢れそうになった。しかし、ここで泣いたら本当に女のようになってしまう。そう思ってなんとか涙を押し留める。


「してやるよ。結婚くらい、いくらでも!!」


 ヘイカーは立ち上がり、椅子に座るリゼットを後ろから抱き締めた。


「ありがとう、ヘイカー……」


 リゼットはその腕の上にそっと手を置き、嬉しそうに涙を流していた。


 どうか、無事に帰ってきてくれ。

 いつでも、いつまででも、俺は待ってるから。


 それを言葉に出しては泣いてしまいそうで、ヘイカーは言葉の代わりにそっとキスをする。リゼットはそれを受け入れて、ヘイカーの腕をぎゅっと掴んでいた。




***




 翌日、よく晴れた空の下を、大勢の騎士達が馬に乗って行軍する。

 先頭を行くのは、騎士団長のアーダルベルト。そしてその斜め後ろにリゼット・クルーゼだ。

 騎士団本署を出て街を出る途中、ヘイカーはリゼットの姿を見つけてその前に飛び出した。リゼットの馬が慌ててヒヒヒンと鳴き、前足を宙に浮かせて止まる。


「ヘイカー!? 危ないわよ、なにをして……」

「リゼット、行く前にこれにサインをくれ!」

「なに?」


 ヘイカーは馬上のリゼットに一枚の紙を渡す。それを見て、リゼットの眉毛は次第に下がっていく。


「これは……」


 彼女は驚きながら、ゆっくりと馬から降りた。


「オレと結婚してくれ。今すぐ」

「……ヘイカー」


 それは、既にヘイカーのサインがなされた婚姻届だ。しかしリゼットはそれを突き返してきた。


「リゼット」

「気持ちは嬉しいけど……駄目よ。私が死んでも、この国では三年間は誰とも結婚できなくなるのよ。だから私は、帰ってきてから結婚してと……」

「オレはリゼット以外の、誰とも結婚する気はねーよ!!」


 荒げた声に、リゼットが目を丸めていた。そしてその顔が徐々に軟化していく。


「いい、の? 本当に……今から戦争に向かう私を……」

「行く前に結婚してほしいんだ。待つよ、オレは。嫁さんが無事に戻るのを信じて。リゼットの居場所は戦地じゃない。ここだってことをわかってほしいから」


 リゼットが目を細めた瞬間、溜まっていた涙がポロリと落ちていった。

 相変わらず、女神のように綺麗な涙だ。


「結婚してくれよ。オレは、夫としてリゼットを送り出したいんだ」


 その言葉に、リゼットは溢れる涙を手の甲で拭いながら首肯する。


「嬉しい……ありがとう、ヘイカー……」


 ヘイカーがもう一度紙とペンを渡すと、リゼットは震える手で自分の名を書き入れてくれた。

 あとはこれを提出するだけで、本当の夫婦になれる。しかしサインをもらった時点で、既に気持ちは互いに夫婦となっていた。


「行ってこい、リゼット。リゼットなら大丈夫だって、オレ信じてるから」

「ありがとう、ヘイカー。必ず、戻る。私を待ってくれている、旦那様の元へ」


 ヘイカーとリゼットは、周りも気にせず抱き合った。リゼットの進軍が止まったことで、その後に続く騎士達が、全員こちらを見ているにも関わらず。見送りの人達が大勢いるにも関わらず、二人は抱きしめ合った。

 周りの者達は、いきなりのことに呆気に取られた顔をしている。そんな中、声を張り上げる者がいた。


「今ここに、我らがミハエル騎士団、隊長リゼット・クルーゼとヘイカーが婚姻を交わし夫婦となったことを、このロレンツォが見届け人となり、宣言する!!」


 宣誓する様子のないヘイカー達の代わりに、ロレンツォが馬上から市井の者に知らせている。周りはやはり驚き、ざわつき始めた。しかしそれを許さぬように、ロレンツォは再び大声を発する。


「これよりミハエル騎士団はグゼン勢を退けるため、紛争地へと向かう! 我らは守る者がいる限り、全力で戦うであろう! この地に残る民の思いが、我ら騎士団の力となる! 見送る者よ、その愛する者の名を叫べ! 我らはその声を糧に、いざ、彼の地に行かん!!」


 オオオオオッ、と騎士団が声を上げるのとほぼ同時に、トレインチェ市民が騎士の名を叫び始める。ロレンツォ、ウェルス、スティーグ、アクセル様、イオス様と叫ぶ声がヘイカーの耳にも入った。そのほかの騎士の名も、そこかしこで飛び交っている。


「リゼット!」


 抱き合っていたリゼットは、ヘイカーの手から離れて馬に飛び乗った。


「ヘイカー、ありがとう」

「リゼット!!」

「必ず戻る。待っていて……私の、旦那様……」


 リゼットはもう振り向かず、前だけを見据えて馬を歩かせ始めた。


「リゼット! リゼット! リゼットーーーーーーーッ!!」


 ヘイカーは喉が枯れるまで、妻となった女の名を叫んだ。この声が、言葉が、ロレンツォの言う通り、リゼットに力を与えてくれそうな気がして。

 やがて騎士団が見えなくなった頃、ヘイカーはようやく気付いた。涙を、ずっと流していたことに。ヘイカーはそれから毎日、リゼットの無事を祈って過ごした。

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