蒼いキャンバス

浅井和音

プロローグ

空の蒼

 清潔な真っ白な部屋の中。窓越しに蒼い空が見える。夏が近づいているこの街のその蒼さは眩しい。

 僕は空調の効いた病室の中からぼんやりとその蒼を見ていた。個室が四室のみのこの小さな診療所は父の友人が経営している。

 最近、動悸が激しく立っていられなくなる事が増え、医者へかかった。色々な病院を転々としたが、機能的な異常はない。精神的なものだろうという結果ばかりだった。

 それを聞いた父が一度東京を離れてみたらどうだとこの診療所への入院を勧めたのだ。


『お前はどうしてそうなんだ』

『自覚を持て』

『あなたには期待しているのよ』

『大切な跡取りなのだから』


 父の事に気を取られていたら、頭の中に両親の声が聞こえてきて、また動悸が止まらなくなる。

「…っ、く…ぅ…」

 それから逃げ出したくても、喉元まで出かかっている「たすけて」というその言葉は僕の口からは出ない。

 分かっていた。原因なんて。重い両親の期待。逃げ道のない八方塞がりの僕の人生。どうしたらいいのかも分からない。

 空の蒼さから目を離して、僕はシーツを握りこむ。ひたすら、動悸が収まるのを待つしかない。


「おにいちゃんどうしたの?」

 ベッドで蹲っていた僕に小さな女の子の声が降りてきた。

 慌てて僕が顔を上げると、ベットの横に小さな少女…小学一・二年生くらいか?…が首を傾げて立っていた。

「くるしいの? あすながなでなでする?」

 その少女は一生懸命に背伸びをして僕を撫でようとする。その瞳には心配の色。

 初めて会う僕を心配してくれている。新鮮な気持ちだった。僕の周りの人達は両親の顔色を見ている人は居ても、僕を心配してくれるような人は居なかった。

 純粋な心配。それが心地良かった。


 僕は、その少女が触れられる位置まで体を移動させた。

 少女は僕の頭を撫でると、とても嬉しそうに笑った。

「おにいちゃん、げんきでた?」

 少しの間僕の頭を撫で続け、満足したらしい少女はベッドの上に腕を置いて笑顔を僕に向ける。

「うん。元気になったよ。ありがとう」

 本当に気持ちが楽になった事もあり、僕は少女に素直にお礼を言った。


 それと同じタイミングくらいで病室の外がなにやら騒がしくなった。そして、病室の外、通路から父の友人の医師で担当医の小暮博明先生が焦り気味に顔を出した。

「ああ、明日奈。ここに居たのか。急に居なくなったらママが心配するだろう?」

 小暮先生は少女の姿を発見すると安心したようにふわりと優しく笑いながら病室の中へ入ってきた。

「拓也くん、すまないね。ウチの娘が勝手に入ってきてしまって」

「先生の娘さんでしたか。…優しい娘さんですね」

「好奇心旺盛でね。困っているんだよ」

 苦笑交じりの小暮先生の笑顔は優しい。


 小さな診療所で一人だけの医師。外来でずっと絶え間なく患者を診察していて忙しいはずなのに、彼が笑顔を崩したところを見たことがない。自分の両親が、苛立ってきつい物言いをしてしまう人達だから余計に彼の存在は不思議だった。

「先生は、苛立ったりしないんですか?」

 その疑問は思わず口に出てしまった。

「え? ああ、麻生と比べちゃった感じかな? 俺だってそりゃ苛立ったりするよ、勿論。ただ、麻生はちょっと不器用なんだよ。素直に心配してるって言えないだけ。ツンデレだね」

 心底おかしそうに笑っている小暮先生を見て、僕は混乱する。

 あの厳しい父をツンデレ? とても考えられない。

「拓也くん。君は君が思っている以上にご両親に愛されているよ。あの二人は揃いも揃って素直じゃないからなぁ」

 小暮先生はそう言いながら僕の頭をポンポンと優しく叩く。


「麻生は心配なんだよ。君が小学生のころ脳の病気で死にかけただろう? その前後で君が変わってしまって、未だにどう接していいのか分からないんだと思うんだよ。奇跡的に機能的にはなんら問題なくても、こう言ってはなんだけど、君は『天才』ではなくなって『普通』になった。精神性が以前と明らかに変わって、君のご両親は戸惑ったままでいるんだ」

 小暮先生は酷く優しい、そして、悲しそうな声で僕に話す。

 彼は両親からどこまで話を聞いているのだろうか。僕がかつて天才だったという話は今や知る人は少ない。両親が求める僕はきっと天才の頃の僕で、今の僕ではないんだ。今の僕にはその期待は重い。僕は、何も出来ない。


「拓也くん。ものは試し、なんだけど、絵を描いてみないかい? ウチの奥さん、絵を描くのが趣味でね。俺は絵心なさ過ぎて付き合えないから代わりに付き合ってもらえると助かるなー、なんて」

 僕が俯き始めた事に気付いた小暮先生が急に勧めてきた絵を描く事が、この後の僕の人生を大きく変えていく事になる。


 窓から見える、この空の蒼を描きたいと、僕は思ったのだ。

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