愛の炎はいつでも激しく
ヴァーシオンの城の周りにはまるで城壁の役割でも担っているのか、とても深くて広大な森が広がっている。王族のための遊歩道も整備されており、土地勘のないパトリックでも迷うことはない。メルヴィオラもこの森が気に入ったらしく、ラギウスやイーゴンたちと散歩に出かける姿をよく見かけた。
深緑にも見える森なのに、中に入れば違った顔を見せてくる。光の加減なのかはわからないが、聳え立つ木々が時々蒼く見えたり白く光ったりして、最初はパトリックたちを驚かせたものだ。
綿毛に似た何かがふよふよと頬を掠めることもあれば、岩の窪みに溜まった水が金色の波紋を広げて音を奏でることもある。目には見えないが、おそらく木の影や花びらの後ろに隠れた精霊たちがそこかしこにいるのだろう。同じ森とは言え、パトリックの知るオルトリスとは随分と空気が違っていた。
葉擦れの音も、花の匂いも、降り注ぐ木漏れ日でさえ不思議な力に満ちているようだ。本当ならゆっくり腰を下ろして、この美しい森を眺めていたいのだが、そうもいかない理由がある。
なぜならパトリックはいま、襲い来る炎の攻撃から逃げている最中だ。
「パトリック様ーーっ!!」
炎と一緒に迫ってくるのは、高い女の声だ。姿は見えないが、蒼い木々の向こうで、物凄い火柱が上がっている。とはいえ森が焼けていないところを見るに、あの炎を扱う者も魔法具の力をかなり繊細に操ることができるようだ。パトリックと同じ、いや、もしかしたら制御の力はあちらの方が実力は上なのかもしれない。
単純に火力だけでみればこちらの方が威力は高いのだが、パトリックは追いかけてくる者に対してその力を振るうことができなかった。
なぜなら、彼女は――。
「つーかまーえた!」
いつの間に先回りしていたのか、パトリックの前方から幾つもの炎の槍が現れた。進行方向を塞ぎ、かつパトリックを閉じ込める檻のように地面に深々と突き刺さる炎の槍。それを瞬時に、自身も炎を纏わせた剣で薙ぎ払う。ぱらぱらと散る火の粉をかいくぐって檻から抜け出したパトリックの眼前に、今度は地面から炎が噴き上がって巨大な壁を形成した。
「くっ!」
一瞬の隙。たたらを踏んで後退した体が、ふわり――と背後から柔らかい女の腕に抱きとめられた。
「うふふ。やっと捕まえましたわ。わたくしの王子様」
「エリスティリア様……っ!」
「いやだわ。エリスって呼んで下さいな」
背中から抱きしめられ、パトリックは身動きができない。というか下手に動けないのだ。
エリスティリア。
パトリックを背後から抱きしめて頬をすり寄せ、たぶん何か匂いもくんくん嗅いでいる彼女は、正真正銘この国ヴァーシオンの第一王女である。
ラギウスたち三人兄妹の末姫にあたる彼女と、初めて顔を合わせたのは一ヶ月前。メルヴィオラの護衛としてヴァーシオンへ入国したパトリックに、何と言うことでしょう! エリスティリアが一目惚れしてしまったのだ。
そこからはさすがラギウスの妹とでも言うべきか。怒濤の猛アタック攻撃が、こうして毎日繰り広げられることとなったのである。
「未婚の、しかも王族のあなたが、軽々しく男に抱きつくなど褒められたものではありません」
苦言を呈しつつ、やんわりと手を解いて向き直ると、金と赤の混じったスカーレット色の髪を揺らしてエリスティリアがこてん、と首を傾げた。
「パトリック様がお嫁にもらってくだされば万事解決ですわ?」
「ですから!」
「わたくし、自分よりも強い男性と結婚するのが夢でしたの。パトリック様ならわたくしの炎に怯むこともありませんし、何よりそのお姿はまさしくわたくしの王子様なのですわ! ねぇ、好きな食べ物は何ですの? ご趣味は? それからそれから……好きな女性のタイプは……きゃっ♡」
「私はあなたの王子でも何でもありません!」
そう語気を強めると、エリスティリアがかすかに肩を震わせて口を閉ざした。見れば、その蒼い瞳にもうっすらと涙が滲んでいる。
「あ、あの……エリスティリア様。……その、すみません。少し言い過ぎました」
「パトリック様は……パトリック様は、わたくしのことが……嫌いなんですの?」
「いえ、好きとか嫌いとかではなく……そもそも私たちはまだ出会ったばかりですし、お互いのこともよく知らないうちに将来を決めてしまっては、あなたにとってもよくないこととお伝えしたかっただけで」
「じゃぁ、もっと知ったら好きになってくださる?」
「それを約束することはできません」
「じゃぁ、わたくしのこと……嫌い?」
上目遣いで見つめてくるエリスティリアに、パトリックは彼女と正面から向き合ったことを後悔した。
そもそも彼女はヴァーシオンの王族だ。精霊のように美しいと噂される彼女の容姿に、見惚れないわけがない。思ったら即行動する猪突猛進な性格はラギウスを彷彿とさせるが、黙っていればスカーレット色の髪がとても情熱的に映る大輪の薔薇のような女性なのだ。
いままでも彼女に恋い焦がれた男は多くいたはずだろう。その手をことごとく振り払ってきた彼女が、なぜ自分をこれほどまでに気に入っているのか、パトリックは正直なところ嬉しさよりも困惑の気持ちの方が高い。
それでも彼女のサファイアのような蒼い瞳に自分が映っていると思えば、胸の奥がかすかに疼いて――こんなことなら腕を振り払わず、背中にしがみ付かれていた方がまだマシだったと小さく溜息をこぼしてしまった。
「……少なくとも、嫌いではありません」
絞り出すようにそれだけ告げると、目の前でスカーレットの薔薇がぱぁっと一気に花開く。しまった、と思った時にはもう遅く、今度は正面からエリスティリアに抱きつかれてしまった。
ふわりと揺れた髪に乗って、彼女のあまい匂いが鼻腔をくすぐる。それだけではなくやわらかい体の感触までがダイレクトに伝わって、動揺しすぎたのか後退した足を踏み外したパトリックは勢いよく後ろに倒れ込んでしまった。
「……っ!」
けれどもそこはさすが軍人である。いかに動揺したとはいえ、ご婦人に怪我を負わせるわけにはいかないと、パトリックは無意識にエリスティリアの体を強く抱きしめ返して保護したつもり――だったのだが。
「きゃぁーーーーーーん!!」
胸元で物凄い歓喜の声が上がってしまった。何なら胸にぐりぐりと頬をよせて、また匂いを嗅いでいるようだ。
「パトリック様、大胆ですわぁー!」
「違っ……!」
「いいんですのよ。わたくし、パトリック様にならすべてを捧げる覚悟が既にできております! わたくしとパトリック様の愛の炎、ここで高く燃え上がらせてみせましょうね!」
パトリックの上に乗ったエリスティリアが、蒼い瞳を細めて蠱惑的に笑う。まるで餌を前にした獣のようだ。
ラギウスといい、エリスティリアといい、どうしてこうもパトリックを悩ませるのか。愛らしい容姿とは裏腹に、その内に秘めた情熱は休む間もなくパトリックを翻弄し続ける。これではあれこれ思い悩む暇さえない。
「エリスティリア様っ。少し落ち着いてください!」
「パトリック様は激しいのと優しいの、どちらがお好みですの?」
「ちょっ、と……待って……っ。エリスティリア様! エリス……っ、……人の話を聞けーーーーっ!!」
パトリックの叫び声に合わせて、森の奥から巨大な火柱があがった。
それが牽制の火柱なのか、それとも愛の火柱なのかは、二人だけが知っている。
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