第23話 キスまでしたのに

 日が沈みかけた黄昏時、メルヴィオラたちはようやくルオスノットの街に辿り着いた。夕飯時と重なって、市場に並ぶ露店からは食欲をそそるおいしい香りが漂ってくる。

 昼食はひとつ前の街で済ませていたが、何しろ時間と海軍に追われる身ではゆっくり味わって食べる暇もない。メルヴィオラでさえ軽い空腹を覚えているのだから、ラギウスとイーゴンはもはや飢餓状態ではないだろうかと心配になる。とはいえ、海軍の制服を着ている彼らが露店で買い食いするわけにもいかず、結局メルヴィオラたちは誘惑の市場を通り抜けて領主の館へと向かった。


 ルオスノットはこの辺りでは規模の大きな街だ。市街は綺麗に区画整理されており、石畳の街並みは都会的な雰囲気を感じさせる。

 街の奥にはまるで城かと思うほどの大きな屋敷が建っていて、そこが領主の館であることは一目でわかった。


 入口まで馬を走らせると、立派な門扉が姿を現した。その脇に二人の門番らしき人影が見える。近付いてくるメルヴィオラたちを一瞬警戒していたようだが、海軍の制服を目に留めると姿勢のいい敬礼をして扉を開いてくれた。


「ようこそ、遠路はるばるおいで下さいました。この地の神木の守人を務めております、クリスザールと申します。お会いできて光栄です、フィロスの聖女」


 領主のクリスザールは、白髪が混じりはじめた頭を恭しく下げて、メルヴィオラたちを快く出迎えてくれた。聖女と共に海軍の制服を着た者が訪れれば、疑念の目を向けられることもない。

 ましてや今は祈花きかの旅の期間中だ。イスラ・レウスのフィロスが花を咲かせたことは吉報として知れ渡っており、同じ神木を祀る土地では聖女がいつ来訪してもいいように予め準備がされている。

 それはここルオスノットも同じで、連絡もなしに来たメルヴィオラたちを、クリスザールは手厚くもてなしてくれた。祈花きかが終えれば、そのまま簡単な宴の場まで用意していると言う。


「イスラ・レウスで聖女が誘拐されたと聞きましたが、無事に救い出されたようで安心しました。海軍の方々にはお礼を申し上げます」

「聖女を守るのは我々の勤めですので」


 攫った本人がしれっと言ってのけるので、メルヴィオラは思わず眉を顰めてラギウスを振り返った。目が合うと、クリスザールにバレないように背を軽く叩かれる。


「長旅でお疲れでしょう。少し休まれますか?」

「いえ、このまま祈花きかに参ります」


 聖女らしくお淑やかな仮面を被れば、今度はラギウスが若干目を見開いたのがわかった。そう言えば公の場で聖女として振る舞う姿を見せるのは、攫われた時を省けばこれが初めてかもしれない。

 どんな気持ちで見られているのかはわからないが、ラギウスだって今は素性を隠して海軍を演じているのだ。似合わないのはお互い様だと心の中で悪態をついてみたが、ラギウスの方は不思議と制服姿も立ち振る舞いも板についている。そのわずかな違和感は、メルヴィオラの中に小さな疑問の種を残した。


 館の内部にあるというフィロスの樹は、広めに作られた中庭の中央に聳え立っていた。イスラ・レウスやエムリスの孤島にあったものと比べると一回りほど小さいが、それでも屋根の高さを優に超えている。

 神木が館の中にあるのはめずらしいのだが、領主の館も初めからここにあるわけではない。フィロスの樹を守る役目を担っていた領主の先祖が、いつでもそばで見守れるようにと近くに家を建てたのが始まりだそうだ。


祈花きかに何か必要なものがございますか?」

「いいえ。集中したいので、人払いだけお願いできますか?」

「承知しました」


 祈花きかに、時間はそうかからない。意識を内なる海へ落として、自分の中に眠るルーテリエルの残滓に触れることで祈りは完成する。数分くらいで済むだろうし、屋敷の中だから一人でも危険はないと判断したのだが。


「俺……私は、ここに残ります」


 屋敷へ促すクリスザールの手をやんわりと断って、ラギウスは首を横に振ったのだった。


「別に、今更逃げたりなんかしないわよ」


 クリスザールとイーゴンが屋敷の中へ入るのを確認してから、メルヴィオラはラギウスの方を振り返って不満を漏らした。


「お前が逃げるなんて思ってねぇよ」

「だったらどうして」

「前みたいに、腹減って倒れるかもしれないだろ?」

「……っ! そんなに空腹じゃないもの!」

「領主がご馳走用意して待ってるから、あと少しがんばれ」

「子供じゃないんだから! 失礼ね!」


 ぷいっと顔を背けて、中庭に飛び出した。背後でラギウスの笑う声が聞こえたが、振り向けばまた言い返しそうだったので、メルヴィオラは完全無視を決め込んで静かに瞼を閉じた。

 黄昏時を過ぎて夜闇が迫っているというのに、閉じた瞼の向こうに淡くまろやかな光を感じる。白い光は真珠だ。フィロスの樹の根元を埋め尽くすようにして、ここにも歴代聖女の流した涙の粒が淡い光を放っている。それは夜を照らす地上の月のように、メルヴィオラの立つ中庭の地をほんのりと白く染め上げていた。


 深く息を吸い込むと、海からは遠く離れているのに、かすかな潮風の匂いがした。


『……』


 メルヴィオラの深層で、青い髪の女が膝を抱えて蹲っている。真珠の光を纏いながら海中を揺蕩う女が、メルヴィオラに気付いたように顔を上げた。

 フィロスの樹に祈花を捧げる時、いつも頭の奥に浮かび上がる映像だ。それはメルヴィオラの記憶ではない。聖女の力に残された海の女神ルーテリエルの残像だ。

 深い海の底。たくさんの真珠の涙に包まれて、彼女はいつも泣いている。


 ルーテリエルの瞳が赤いのは、涙を流しすぎたせいかもしれないとメルヴィオラは思う。フィロスの樹に花を咲かせる時も、神殿で力を高めるために祈りを捧げていた時も。たまに見る夢の中でさえ、彼女は声もなくただ静かに泣いていた。

 メルヴィオラはルーテリエルの泣き顔以外、見たことがない。もちろん声も聞いたことがなかった。

 それが、今回ばかりは少し違う。


『……い』


 深い意識下で、メルヴィオラとルーテリエルの赤い瞳が重なり合った瞬間、はじめて声が聞こえたのだ。

 何を言っているかまではわからない。けれどメルヴィオラに語りかけていることは疑いようがなく、意識下で見ているだけのルーテリエルがこちら側へと手を伸ばしてくる。その指先が頬に触れた途端に息苦しさを覚え、メルヴィオラの意識が現実へと弾き飛ばされた。


「……はっ……」


 目を開けると同時に、メルヴィオラは胸を押さえて蹲ってしまった。

 息ができない。どれだけ口を開いても、まるで溺れているかのように空気が少しも入ってこない。


「ヴィオラ!」


 祈花したフィロスの甘い香りも一切感じられず、視界がどんどん色褪せていく。体の感覚が失われていく一方で、メルヴィオラを呼ぶラギウスの声だけが強く鼓膜を揺らして……。

 縋るように伸ばした手を引き寄せられたかと思うと、空気を求めて喘ぐ唇がラギウスのそれに塞がれた。


「……っ!」


 驚く暇も、恥じらう暇もない。強引にこじ開けられた唇から熱い空気が押し込まれ、メルヴィオラの全身に血が巡っていく。わずかに離れたかと思えば再び唇を塞がれて。そうやって何度か空気を送り込まれるうちに、メルヴィオラの意識がようやくこちら側に戻ってきた。


「……も……、だいじょ、ぶ……。あり、が……と」


 呼吸は戻ったが、体の方はひどくだるい。ラギウスに支えられていても、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。


「何があった? お前、溺れてるみたいだったぞ」

「わからないわ。ルーテリエルの幻影が触れてきたと思ったら……息ができなくなった」

祈花きかの儀式ってのは、いつもこうなのか?」

「ううん。祈りの時にルーテリエルの幻は意識下に浮かぶんだけど……いつも私が見ているだけだったから」

「干渉してきたのは、はじめてだってことか」


 ルーテリエルは海の女神で、人々に癒やしを与える存在だ。なのに「干渉」と言われ、なぜか背筋がひやりと震えてしまった。


 祈花きかの儀式で聖女の力が強くなり、その結果ルーテリエルの存在をより近くに感じてしまったのかもしれない。

 神官長がいれば何か教えてくれたかもと思ったが、祈花の旅に同行する予定だったのは彼ではなく、身の回りの世話をしてくれている女性の神官だ。彼女がこの疑問の答えを持っているとは思えず、結局のところ旅を終えてイスラ・レウスへ戻るまでは一旦胸の内へしまうほかないだろう。

 そう思っていると不意に体が浮いて、メルヴィオラはラギウスに横抱きに抱え上げられてしまった。


「ちょっと……何っ」

「いいから黙ってろ。まだフラフラしてんぞ」

「だからって……このまま中に戻るつもり?」

「何か問題あるか?」

「問題って言うか……恥ずかしいでしょ!」

「キスまでしたのに、今更なにを恥ずかしがるってんだ」

「キスじゃない! あれは……」

「うるせぇな。もっかい塞ぐぞ」


 再び近付いたラギウスの顎を押し返すと、その指先を面白おかしく舐められる。

 押して押されて。必死に拒否するメルヴィオラと、余裕の笑みでからかうラギウス。そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけたクリスザールたちが飛び出してきて、ようやくラギウスの遊びから解放されたメルヴィオラは、横抱きの恥ずかしさも忘れてホッと安堵の息をついてしまった。




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