第14話 私ひとりで十分だ

 部屋の中はいたってシンプルで、ベッドと小さなテーブルがひとつ置かれているだけだった。窓はあるがカーテンは閉められており、換気の行き届いていない室内は少しだけ煙草と香水の匂いが染みついている。


「風呂はそっちだ。シャワーだけだが我慢しろよ」


 そう言って、さっき市場で買った服を手渡される。店の主が適当に見繕ってくれたものだ。どんな服かはじっくり見ていないのだが、女性の店主が選んでくれたのだからそう心配することもないだろう。

 服の入った袋を持ってシャワー室の扉を開けたところで、メルヴィオラは少しだけ不安げにラギウスの方を振り返った。


「ねぇ……。どこにも行かない? 私が出てくるまでちゃんとここにいてくれる?」


 先程の酒場の雰囲気。粗暴な男たちの様子は、イスラ・レウスから出たことのないメルヴィオラにとって初めて目にする「恐ろしい世界」だ。同じ海賊であるラギウスたちの方が異質なのかもしれないが、少なくとも酒場にいる男たちよりはよっぽど安全だと思えた。


「何だ? ビビってんのか?」

「だって……」

「へぇ。お前でもそういう顔できんのな」

「そういう顔って何よ」


 それには答えず、薄く笑みを浮かべたラギウスにくいっと顎を掬われて、メルヴィオラの体がおかしいくらいに跳ね上がった。


「怖いんなら、一緒に入ってやってもいいぜ?」


 顎を掴み上げるラギウスの指先がつうっと肌を滑って、メルヴィオラの細い喉を掠めていく。触れた箇所はほんのわずかなのに、ラギウスの指先を辿るように肌が熱を持ってしまい、それはあまやかな痺れとなってメルヴィオラから呼吸さえ奪ってしまう。

 更にさっきの店主の言葉までもがよみがえり、「ごゆっくり」の意味をようやく理解した頭が、火山のようにボンッと噴火した。


「いっ、いらない!」


 突き飛ばす勢いでラギウスの胸を押し戻し、メルヴィオラは逃げるようにシャワー室へと駆け込んでいく。薄い扉の向こうに聞こえる笑い声は、強めに出したシャワーの水音でかき消すことにした。


 本音を言えばもう少しゆっくりと浴びたいところだったが、隣の部屋にラギウスがいるという状況はなかなか落ち着かない。手早く汚れを落として体にバスタオルを巻くと、メルヴィオラは新しい洋服に袖を通した。


 鎖骨が見えるくらいに襟の開いた白いブラウスは、袖の部分がふんわりと膨らんでいる。ワンピースは肩紐のないタイプで、胸元にある編み上げのリボンをきつめに結べばずり落ちることはなさそうだ。肩紐の代わりなのか、首で結ぶリボンまでついている。

 いつも着ている服はゆったりとしたワンピースばかりだったが、こういう服も珍しくて少しだけわくわくする。ワンピースは膝丈で少し短い気もするが、裾の青いフリルがまるで人魚の尾ひれのようでかわいい。

 今まで着ていたものに比べると肌の露出が多いのは否めないが、動きやすさは抜群に上がった。仕上げに膝下までの編み上げブーツを履くと、鏡に映ったメルヴィオラはまるで女海賊のように溌剌とした印象に変わっていた。

 これならばラギウスと隣に並んでも違和感はないだろう。と、そこまで考えてハッとする。


(な、なんでラギウスが基準なのよ。別に海賊になりたいわけじゃないし、服が思ってた以上にかわいかっただけなんだから!)


 ぶんっと頭を横に振って余計な思考を振り払う。それでもにわかに上昇した体温と室内に篭もる蒸れた湿気に、メルヴィオラの肌がかっと熱を持ってしまった。気を紛らわせようとして窓を開ければ、シャワー後の湿った空気と入れ替わるようにして涼しい風が吹いてくる。それと同時に――にゅっと現れた無骨な手が、メルヴィオラの腕を乱暴に掴んだ。


「……っ!」


 叫ぶ間もなく、口元が湿った布に塞がれる。鼻を刺激する嫌な臭いが脳まで届き、メルヴィオラの視界がぐわんと揺れた。


「見ろよ、この髪。やっぱり見間違いなんかじゃなかった。コイツは聖女だ」

「聖女じゃなくてもかなりの上玉じゃねぇか。こりゃぁいい値で売れるぞ」


 薄れていく意識の中で、下品に笑う男たちの声がする。体を無遠慮に撫でる手が気持ち悪くて身を捩ると、力の入らない足が滑って備え付けの棚の足にぶつかった。その衝撃で棚に置かれていた石鹸などの小物が床に転がり落ち、浴室に派手な音が響き渡る。


「おまっ……何やってんだ。静かにさせろ!」


 男のひとりが焦ったように窓枠に足をかけると、もう片方がメルヴィオラを肩に担いで後に続く。逃げようともがいてみたが、どうやらさきほど嗅がされたものは何かよくない薬だったらしく、メルヴィオラの意識はおろか体の力さえ抜け落ちてしまっていた。


「……ラギ……っ」


 助けを求めて、必死に手を伸ばした。その指先が何かに触れることはなく、メルヴィオラの視界も既に薬が効いて真っ暗だ。けれど。


「ヴィオラ!」


 意識を完全に飛ばすその前に、ラギウスの声を確かに聞いたような気がした。



 ***



「大佐!」


 ティダールの街を密かに巡回していたパトリックの元へ、一人の部下が駆け足で近寄って来る。その様子から何か新しい情報を得たに違いないと、パトリックは青の双眸を薄く細めた。


「見つかったのか?」

「いえ。ですが少々怪しげな噂を耳にしました」

「噂?」

「はっ! 何でも聖女が競売にかけられていると」

「なんだと!?」


 ティダールの港には部下を配置してある。新たに船が入港すればすぐにわかるし、それが追っているラギウスの海賊船エルフィリーザ号なら尚更だ。

 しかし船の目撃情報はなく、代わりにもたらされたのは聖女の競売。いつの間に街へ入り込んでいたのかはわからないが、競売の話が本当ならパトリックが優先すべきは聖女の保護だ。おそらくだが、ラギウスもそこにいるだろうと予想する。


「港の警備は残しつつ、近くの岸壁も徹底的に調べ上げろ。残り半分は引き続き街を巡回し、エルフィリーザ号のクルーを見かけたらただちに捕縛」

「聖女の方はいかがいたします?」

「私ひとりで十分だ」


 腰に佩いた剣の柄をきゅっと握りしめるその手には、赤い石の指輪が炎を揺らめかせるように輝いていた。

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