行進

緋色ザキ

行進


「おめでとう、小川さん」


 経理部のドアを開けるのと同時に、そんな祝福の声が聞こえてきた。その声のした方に視線をやると、一人の女性の周りを何人もの社員が取り囲んでいた。

 中心にいる女性、小川さんは笑顔を浮かべていた。左手の薬指が照明に反射してキラリと光る。僕はそれを見て、祝福の理由を知った。小川さんは結婚をするのだ。

 なんだかその光景がむしょうにまぶしく感じ、デスクに腰を下ろすと窓の外を見た。陽光が強くこちらめがけて注いでくる。

 こんなことが前にもあった。そう、あれは入社式の日だ。

 ほのかな期待に胸を膨らませた入社式。そのあと外で行った写真撮影のときも青く透き通った空から強い日差しが注がれてきた。

 あの日、僕と同期たちは晴れやかな気持ちで式典に望んでいたと思う。少なくとも、僕はそうだった。そして、そこには小川さんの姿もあった。

 彼女とは、たしかその日の打ち上げで一言二言言葉を交わしたように記憶している。明るく朗らかで、人見知りで口下手な僕にもにこやかに話しかけてくれた。その日にはすでに会社に溶け込んでしまっているような印象があった。それからは業務上の話くらいでとくに関わる機会がなかったけれど。

 そんな彼女が、結婚する。

 前に進んでいく。

 きっとこれから妊娠して、子どもができて、子育てをしてと、忙しない日々を送っていく。そんな日々の中で幸せを噛みしめて前に進んでいくのだろう。

 大勢に囲まれ笑顔を浮かべる彼女とデスクのパソコンの画面に映る疲れた目をした僕。明暗はくっきりと分かれている。その後ろ姿は遙か遠くにあり、その輪郭さえもおぼろげだ。

 僕は小さくため息をついて、それからパソコンを立ち上げると仕事を始めた。デスクには書類が山積みにされている。けれどもいまはその仕事が少し心を軽くしてくれるような気がした。




 午前中の仕事が一段落し、外で昼食を取ろうとエスカレーターに向かって歩いていると、突然肩を叩かれた。

 振り返るとそこには長身で笑顔を振りまく男が立っていた。


「なんだ、三宅か」


「なんだとはひどいな。まあ、その冷たい感じが佐藤のらしさなんだけどさ」


 そう言ってうんうんと一人で頷く。

 僕は内心ため息をつく。

 正直僕はこいつがあまり得意ではない。嫌いではないが距離感が近く、しばしばうっとうしさを覚えていた。そもそも、僕はあまり誰とでも親しくなれるような気質ではなくて、とくにこういう話のテンポが速く、コロコロと表情を変えるタイプが苦手だった。同期にはそういうタイプの人間が多かったこともあり、次第に僕に話しかける人間はいなくなっていった。そして残ったのが三宅ともう一人、僕が最も親しくしていたやつという風になった。ただ、その親しかったやつも辞めてしまい、いまでは僕に話しかけてくる同期は三宅だけとなった。

 常にこんな感じの反応をする僕に嬉しそうに笑顔を浮かべる三宅の本心を僕は掴めないでいた。一時期はマゾヒストなのかと本気で思ったりもしたが、まあ、さすがに違うだろうという結論に至った。


「あー、先輩、こんなところにいた」


 と、後ろから声がかかった。振り返るとショートヘアーの女性が立っていた。


「ああ、柴崎。どうしたんだ?」


「どうしたじゃないですよ。このあと昼食がてら相談に乗ってくれるって約束してたじゃないですか。先輩がエントランスで待ち合わせって言ってたのに来ないから探してたんですよ」


 三宅はそれに苦笑して頭を掻いた。


「いやあ、そうだったな。ごめん、ごめん。エントランスに向かってたんだけど佐藤の姿を見てたらいても立ってもいられなくてさ」


 もし僕が女性社員ならいまの言葉にときめきを感じたかもしれないが、残念ながらそんなことはない。僕の話題が出たことで、三宅の後輩は僕の方を大きな瞳でじーっと見てくる。


「佐藤さん、ですか。先輩からたまに名前が出てくる?」


「そうそう、その佐藤」


 なぜか嬉しそうな顔の三宅。一体なにを話しているのだろうか。ただ、いまはそれを尋ねている時間はない。


「そんなことより、お昼行きたいんだが」


 ここで話している間にも休憩時間はどんどん少なくなっていく。


「そうですよ。行きましょう先輩」


 それに同調するように後輩は三宅に詰め寄った。


「あー、そうだな。行こうか、柴崎」


 ゆっくりと頷いて歩き出す。しかし、三宅はすぐに足を止めて振り返った。


「なあ、佐藤。今度飯でもどうだ?」


 それは予想外の声かけで僕の頭を驚きが支配した。


「……いや、いままで二人で飯なんて行ったことないだろ」


 だから、出てきた言葉はそんなただ事実を羅列したような冷たいものになってしまった。 三宅は一瞬目を見開いて、それから、そうだなと僅かに笑みを浮かべ、後輩と歩いていってしまった。 

 その背中は僕にとって遠いものに見えた。

 三宅は同期内で出世頭であり、配属先の営業部で優秀な成績をあげ、若くして課長職に就いている。人当たりが良くコミュニケーション能力に長け、同期や先輩、後輩問わず慕われる存在である。プライベートの方でも綺麗な彼女がいるという話を小耳に挟んだことがある。

 僕なんかとは比べものにならない完璧超人であり、一緒に飲みに行ったって話すことなんて何もないだろう。

 そう心の中で言い訳をして、僕もまた足早に外へと歩みを進めた。




 その日の仕事が終わる頃には、十九時を回っていた。いまから食材を買って帰ってでは

だいぶ夕飯が遅くなってしまう。

 それで、僕は会社から歩いて五分ほどのところにある居酒屋へと向かった。

 店に入ると、この時間にも関わらず客はまばらで騒々しさはない。久しぶりに入ったがあまり変わっていないことにほのかな安心を覚える。厨房に立つ店主のおじさんは僕の顔を見て僅かに目を見開いたが、小さくいらっしゃいと言うと再び厨房へと視線を戻した。

 僕はゆっくりとカウンターに腰掛けてメニュー表を開いた。今日は野菜定食とビールにでもするか。

 水を運んできてくれたアルバイトのお姉さんに注文を行い、それからぼーっと視線を彷徨わせる。


「なあ、今日なんだけどさ」


 そんな疲れとやる気に混じった声が僕の目を引き寄せた。左前のテーブル席にはまだ二十代前半だろうか、若いサラリーマン二人が座り、仕事について語り合っていた。

 彼らの瞳は輝いていて、力強さを感じた。その姿を見て、ふと思い出す。僕にもあんな時代があったことを。

 あれはまだ、入社して間もない頃。同期の中に一人僕ととても馬が合うやつがいて、毎日のように仕事終わりに飲みに行っていた。その当時の僕は若気の至りというやつだろうか、一丁前に仕事だけじゃなく政治や社会情勢の話をしていた気がする。

 もう、今となってはなにを話していたのかなんてほとんど覚えていない。ただ一つ、記憶に鮮明に残っている会話がある。

 あれは、いつものようにこの居酒屋で話していたときのことだ。いま、まさに二人の若者が座っている席で僕は同僚の三島と酒を交えながらこんな話をしたのだ。


「なあ、三島。僕は人間の人生っていうのは大海原にいて、帆船に乗っているようなものだと思うんだ。それで、風に翻弄されながら前に進んでいく。人によって船の大きさや性能は違うんだ。そんな船と船とが風のいたずらで出会い、そして引き離される。でも、中にはずっと一緒に航海を続けていく物好きなやつもいるんだ。それから風を受けて進むべき道から逸れていくやつもいる。僕らはきっといま、逆風にあえいでなかなか動けないでいるんだろうな」


 そう言って、自虐的な笑みを浮かべた。すると、それまで枝豆を食べながら眠そうな表情を浮かべていた三島が急に真剣な顔つきになった。


「それは違うぜ、佐藤。たしかに俺たちは巨大な力に翻弄されているが、地に足ついてないなんてことはない。俺たちは道の上に立っていて、自分の行く末に向かって行進してるんだ。止まるのも、後ろに下がるのも、横道に逸れるのも全てが自分の意思だ。それを他のせいにしちゃいけない。だから、いまのお前は選んで立ち止まっているのさ」


 その言葉は酷く僕の心につきささり、なにも反論することができなかった。

 それから、帰りがけに三島は神妙な面持ちでこう呟いた。


「なあ、佐藤。俺さ、横道にそれようと思うんだ」


 三島はその一週間後に会社を辞めた。連絡先は知っていたけど、お互いマメなやりとりをするタイプではなく、それっきりになってしまった。いま、どこで何をしているのか、一切分からない。ただ、あいつのことだから何かに向かってひたむきに進んでいるんじゃないかと思う。


「ビールです」 


 アルバイトのお姉さんのそんな朗らかな声で僕は我に返った。

 ジョッキを口元に運びながら僕は思う。あのときから、果たして僕はどれくらい進んだのだろう。

 いや、それ以前にそもそも道をまっすぐ見据えて前を向けているのだろうか。もしかしたら、いまの僕は砂嵐が吹き荒れて方向感覚が分からなくなってしまい、荒野に佇んでいるのかもしれない。人どころか、生き物一匹いない道。やがては、透き通った空に思いを馳せることも忘れ、もがくことを辞めてただ終わりを静かに待つことになる。

 それは酷く恐ろしいことだ。

 日々に何かを感じることもなく、ただ一人で生きていく。いまの僕はまさにそんな生活を送っている。もうすでに、僕の周りには何もないのかもしれない。そんな考えを振り払うようにジョッキを机に置いた。

 口に残るビールのホロ苦さが僕を一層苦しくさせた。




 翌日の朝はひどく身体が重かった。

 食欲がなかったため携帯用のゼリーを流し込んで、出社した。

 その日は偶然電車の乗り換えがスムーズにいったこともあって、いつもより少し早めに会社に着いた。

 経理部のドアを開けると、複数の視線が僕を刺した。その視線の招待は、小川さんと同じ課の女性たちだった。彼女たちは僕の姿を確認すると、見るからに安堵した表情を浮かべ、それからまたおしゃべりを始めた。 一体どうしたのだろうと首を傾げながらデスクに座り、仕事の準備に取りかかろうとしていると、彼女たちの声がこちらまで響いてきた


「それでさ、小川さんの相手っていうのが、営業部の長谷川さんの高校の頃のクラスメイトらしいんだけどね、どうも遊び人らしいのよね」


「えーっ、そうなんだ。でもさ、小川さんも数ヶ月前まで営業部の樋口くんと付き合ってたよね」


「あの子も大人しそうな顔して手が早いからね。意外とお似合いなんじゃない」


「なんならもう違う相手を探し始めてるかもよ」


 いわゆる井戸端会議というものだろうか。彼女たちは小川さんを肴にして話に花を咲かせている。


「でも結婚ってことは産休に入るかもしれないのよね」


「あー、小川さんうっとうしかったしそれは嬉しいわね」


「たしかに、あの子すぐ男性社員に色目使うしね。いっそのことそのまま辞めちゃえばいいのに」


 彼女たちは僕の存在を忘れているのか、嬉々としておしゃべりを続けている。これは彼女たちにとっては一種のストレス発散であり、楽しいものなのかもしれない。しかし、僕にとってはとても聞き苦しいものだった。

 その空間にいるのが耐えられず、僕は席を立った。部屋を出たところで、ドンと身体に衝撃が走り、キャッという小さな悲鳴が耳をかすめる。

 その声の先に視線を向けると、小川さんが尻餅をついていた。


「ごめん、小川さん」 


 思わず手を差し出す。


「うんうん。私こそごめん。こんなところで立ち止まってたから」


 小川さんは僕の手を掴まず自分で立ち上がると、目元を拭った。それから、閉まりかかった扉を手で押さえて中へ入っていく。

 僕はそのまま席に戻るわけにも行かず、廊下の先にある自動販売機へと向かった。歩きながらも、先ほどの部屋へ入っていく小川さんの後ろ姿が頭から離れなかった。




 その日の仕事は比較的順調に進み、六時前には全ての仕事が片付いた。


「今日は久しぶりに定時で上がれるかな」


 僅かなうれしさを感じながらデスクを整理していると、一つの資料が出てきた。


「これは、今週中に営業部の方に提出するやつだったな」


 一瞬、明日に回そうかという考えが頭をよぎったが、すぐに思い直した。こういうことは、早めにやっておくに限る。

 エレベーターで六階まで上り、廊下を真っ直ぐ進み、そのフロアの最奥にある第一営業部を目指す。歩きながらふと、三宅と鉢合わせするのではと思ったが、もう六時を過ぎているし帰社していてもおかしくない。

 そんなことを考えていると、前方に見知った顔を捉えた。ショートカットの女性。たしか、三宅の後輩の柴崎だったか。第一営業部の一つ手前にある会議室の中を心配そうに眺めている。

 何をしているのだろう。気になって、僕もその会議室のドアのガラス部分に目をやった。しかし、内側からカーテンがかけられていて、室内は見えない。まあ、そうだよなと諦めようとした次の瞬間


「何でこんなミスをしてんだ」


 鋭い声が廊下に響き渡った。


「申し訳ありません」


 そのあとに、三宅の弱々しい声が耳に届く。それで、僕は状況を把握した。上司からお叱りを受けているのだ。

 と、それまで不安げな表情を浮かべて棒立ちしていた柴崎が勢いよくドアを開けた。


「その、それは先輩じゃなくて私のミスでして」


 三宅を庇うようにして彼女は一歩を踏み出した。


「チッ、後輩を盾にしてんじゃねーよ。てめーがしっかり教育できてねーからこうなんだろ」


 しかし、その行為は火に油を注ぐもので、上司はより一層激高した。それからしばらくそのやりとりは続いた。僕はなぜだか会議室の前を離れることができず、その場に佇み、中でのやりとりに耳を傾けていた。

 やがて部屋から声が聞こえなくなり、スーツ姿の中年男性が苛立ちを顔に貼り付けたまま大股で部屋をあとにした。その後ろから疲れた表情の三宅と涙目で鼻を啜っている柴崎が出てくる。

 三宅は僕に気づくと、苦笑を浮かべた。


「ああ、佐藤に聞かれちゃったかあ」


「いや、いまちょうどここを通りかかったところだけど」


 僕はとっさに嘘をついた。そう口にしたが、それに気づかない三宅ではない。しかし、彼はそれはよかったと小さく呟いてそれ以上なにも言わなかった。その姿には、いつも僕が感じる力強さが全くといっていいほどなかった。

 三宅はそのまま柴崎とトイレの方へ歩いていった。僕はその後ろ姿を見ていたが、はたと自分の用事を思いだして、第一営業部へ駆け込んだ。部屋に入ると、すぐに空気の悪さを感じた。空調ではなくて、人の悪意のようなものだ。

 耳を澄ませていると、こんな話し声が聞こえた。


「三宅、ざまあないなあ。最近調子乗ってたからいい気味だよ」


「ほんと、出世が少し早いだけで有頂天になっちゃってるんだもんなあ。困っちゃうよ」


「あんなんだけど、無駄に人望が厚いんだよなあ」


「人に取り入るのが上手いんだろうねえ」


 僕は思わず拳を握りしめた。三宅はそんなやつじゃないと叫びたくなった。でもきっと、そんなことをしたら余計に三宅の評判を落としてしまう。


「えっと、何かご用ですか?」


 気がつくと、目の前に営業部の人が座っていて、不思議そうな顔でこちらを見ていた。いつの間にか目的地にたどり着いていたみたいだ。僕は我に返って、資料を提出した。

 結局、六時半に上がることができたが、心のもやは残ったままだった。




 会社を出て、飲食店やビルが建ち並ぶ煌びやかな通りを駅に向かって歩く。夜ご飯は何にしようかと、そのことを考えてみるがさっぱり思いつかない。作る気力も全く湧いてこない状況だ。

 それならむしろここで食べちゃった方がいいんじゃないだろうか。僕は立ち止まって目の前に立つ飲食店の中を確認した。この時間ということもあってか盛況である。その隣のお店も、またその隣も同じような状況だった。 きっと、この通りのお店はどこも似たようなかんじなのだろう。

 どうしようかと考えていると、一つのお店が頭に浮かんできた。昨日行った居酒屋である。あそこならまず間違いなく席の空きがあるはずだ。 

 ただ、二日連続で行くのもどうなのかと思ってしまう。うーんと悩んでいると、目の前の中華料理店で美味しそうに餃子を頬張る客の姿が見えた。僕はちらりと自分の腹部を見た。

 そのタイミングで僕のおなかはぐーと音を奏でた。どうやら、本能には叶わないみたいだ。思わず苦笑して、来た道を引き返す。

 スーツや私服など色とりどりの服を身に纏うサラリーマンの姿が僕の脇を通過していく。その中にときおり学生や老人も混じっている。 しばらく歩くと居酒屋に着いた。店内を覗くと、思った通り空席が目立っていた。

 大通りにあるのに、あまり人が集まらないのはなにが原因なんだろうと考えてみて、すぐにその理由に思い当たる。

 店の外観が古びているのだ。看板の文字は薄れて読めるか読めないのかの瀬戸際になってしまっている。僕は過去に何度もこのお店に足を運んでいたが、料理の味が他と比べて劣っていると思ったことはない。だから、客足の差はそこで決まってしまっているのだろう。

 僕はそんな結論に一人納得し、店に入った。「いらっしゃい」

 店主はとくに驚いた様子もなく、昨日と同じような声音でそう一言発すると、厨房へと入っていった。

 僕は昨日と同じカウンター席に腰掛けてメニューを開いた。やけに餃子に目が行ってしまう。きっと、さっきのが原因だろう。でもそれ単体というのはおかしい。他になにを頼んだものか。考え込んでいると目の前にお冷やが置かれた。


「お客さん、何にします?」


 見ると、昨日と同じバイトのお姉さんが笑顔をこちらに向けている。 


「あっ、えっとビールと餃子と、それから、そうですね、味噌ラーメンで」


 とっさに注文をしてしまう。言い終えてから、別に待ってもらえば良かったことに気づいた。まあ、もう後の祭りだが。


「かしこまりました。店長。味噌、餃子、ビールで」


 その場には似合わない朗らかな声が閑散とした店内をこだまする。少しして、店長の低い声が聞こえてきた。


「ていうか、お客さん。昨日もいらしてましたよね?」


「えっ、あー。そうですね」


「もしかして、うちの店、気に入ってくれました?」


 顔を近づけ、瞳を輝かせながらこちらを見つめてくる。

 その圧に思わず首肯した。


「おー、そうなんですね。嬉しいなあ。いやあ、このお店、外観はぼろいし店長もあんな感じだしで全然人は入らないんですけど、料理は美味しいしお手頃だしでいいとこなんですよー」


 嬉しそうに語り始める。ちらっと厨房に目を向けると、店長がこちらを見ていた。少しこわばっているような、それでいて緩んでいるような、そんな顔をしていた。

 ただ、女性はそんなことはつゆ知らず、お店のよさを話し続ける。それだけ、このお店に愛着を持っているのだろう。そんな姿を見ていて、僕はなんだか嬉しくなった。


「おい、暇なら――」


「はいはい、いま行きまーす」


 女性は店長のそんな声にさらりとかぶせて、厨房の方へ行ってしまった。

 お店の中はちょうど一人客しかおらず、静寂が訪れる。

 僕は何の気なしに、厨房とは反対側の入り口に視線をやった。ガラス戸の先には、大通りがあり、店の前を歩く人々の姿が瞳に映る。 サラリーマンが中心だが、いろいろな人がこのお店の前を通過していく。

 疲れた顔をしたサラリーマン。はしゃいだ顔の学生たち。杖をつきながら歩くおばあちゃん。色とりどりの人々が僕の瞳に映っては消えていく。  

 歩き方も顔つきも連れ添っている人数も十人十色。それぞれがそれぞれの道を進んでいる。一見すれば、彼らの表情や格好から彼らが幸せかどうかが分かりそうなものである。以前までの僕であれば、その外面だけで人々を判断していたのかもしれない。

 でも、いまはその判断基準が全くもって役に立たないことを知っている。表層のメッキだけでは中がどんな状態かなんて全く分からないということを僕は学んだのだ。 

 小川さんも三宅も平坦なんかじゃない、障害だらけの道を懸命に、ひたむきに前へ踏み出している。そして、きっと僕も二人と似たような道にいて、なかなか一歩踏み出せないでいる。大きな力の前に、自分ではどうにもできないと言い訳をして塞ぎ込んでいる。

 あたりを見渡してみれば、そこにはたくさんの人がいるはずなのに、自分の殻に閉じこもっているだけの僕。蓋をして、なにもかも見えないと言ってだだをこねるのは楽なのかもしれない。でも、ずっとそのままではいられない。目の前にそびえ立つ壁に、僕は向き合わないといけない。自分自身で進むべき道を歩んでいかないといけない。きっとそれが、僕の目の前に広がる景色を変える唯一の方法なのだから。

 店内で食事を済ませ、会計を行う。店を出るさい、後ろから声がかかった。


「また来てくださいね。サービスしますよ」


 そんなにこやかな笑みの後ろで、店長も小さくそれに頷いた。

 僕はそんな光景に思わずはにかんで、それからまた来ますと答えて店を出た。

 明るく照らされた大通りにはたくさんの人影がある。みなそれぞれの早さで道を歩いている。僕もまた、その波に乗って進んでいく。歩きながら、ふと思う。

 今度あの店にいくときは、三宅でも誘おうか、と。

 なんだかこちらから誘うのはひどく照れくさいけど、きっとあいつのことだ。驚いた顔を浮かべて、でもすぐに白い歯を見せて頷いてくれるはずだ。

 そんな様子を思い浮かべて、思わず笑みがこぼれた。

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行進 緋色ザキ @tennensui241

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