塵の街

小泉藍

第一部 第一章 寛永寺、朝~髙橋伊勢守~

一 血蓮幻想

(一)

 頭上に丸く広がる水色の空に、触れることを考えただけで指先に温もりが生まれた。

 寺の桜が盛大に咲き誇る様が遠目にもよく見える。主家たる徳川の命が旦夕に迫っているのにも関わらず、その色合いは生の歓びそのものだった。

 造化の生死は人間の営みにはかすりもせずさばさばと進むのだ。麟太郎は馬上そっと眉根を寄せた。朝の光の中閑散とした下谷広小路を寛永寺に向かい、口取り一人を供にしてゆっくりと進んでいる。

(国破れて、桜あり)

 心中つぶやき、麟太郎は寛永寺に隣接する不忍池に思いをはせた。

 広大な池中央にはその名も弁天島と称する小島が造成されている。島にも池畔にも出合茶屋と料亭が建ち並び、夏には水上に蓮が満開になる。

 江戸の繁栄と太平楽の、まさに象徴のような場所だった。今はもちろんどの店ももぬけの殻で、あるいは固く戸を閉ざしている。

 さらに数日後には戦が始まって池は血溜りになり、その血を吸って白い蓮も赤い花を咲かせるようになるのかもしれない。

 酸鼻な情景を、ひどく無感動に麟太郎は思い描いた。

 薄衣をやんわりと何重にもかぶせてくるような春の陽気も、空と花の淡い色彩も、大量にわだかまった負の感情に歯が立たずあえなくはねかえされる。

 そもそも現実から目を逸らそうと思っても、眼前を見すえれば武装した男たちが屯集しているのだ。

 不忍池から引いた水路が広小路と寺の前をくぎり、その上に橋がかかっているがまずその三枚橋から鎧や剣術稽古の竹胴をまとった数十名の男たちが固めている。

 立ったり座ったり思い思いの姿勢をとり、刀槍を誇示しているが銃を持ったものは誰もいない。

「徳川家軍事取扱、勝安房守である」

 名乗りにも男たちの目が和らぐことはなかった。

 先月に将軍が恭順を表明して以来、確かに勝安房守の名は薩賊の走狗、売国の首魁の響きをもって江戸中に鳴りわたっている。それにしたところでこう型どおりの反応を見せるようでは、この者たちは正規の護衛ではない、頭に血が上り熱に浮かされた連中だろう。

 麟太郎が馬から降りると男の一人が近づいてきた。

「朝早うよりご精励であられる。して、御用のおもむきは」

「うむ。向こうさんとの談判がかなうことになったから、上さまに御言上申し上げようと思ってね」

 一同の顔に緊張が走った。

「これは、失礼をつかまつった。お通りを」

 言われるまでもない。口取りの下男も連れず、一人で飄然と麟太郎は踏み出した。

「……豚一の手先!」

 麟太郎が黒門まで近づいた時、背中から声が投げつけられた。

 麟太郎は一瞬歩みを止めた。すぐにまた歩き出したが、最初の罵声が呼び水になったのか次々と怒鳴り声があがる。門番が狼狽顔で麟太郎と男たちの方を見比べる。

「お前も天狗党だろ!」

「薩賊の走狗!」

「御直参の面汚し野郎! 上手くやったと思うなよ、事が終わったら煮られるんだぜ」

 みな聞き飽きた文句ばかりで、麟太郎はもう構わずに歩き続けた。

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