序章
【一】走れ、走れ、走れ
湿り気のある白い世界が、生き物のように身体を呑み込んでいく。
空気の流れる微かな音、擦れ合う葉音、虫の
大丈夫、うまく逃げ切れるはずだ。
んっ、この音は。
耳を小刻みに動かし、音を捕える。
風だ。風が来る。後ろからだ。
びょうびょうと風が唸り声をあげて、朝靄を前へと押し流していく。
突如現れた無数の白蛇が、追い越し四方八方に飛び去り靄に喰らいつく。
幻か。いや違う。風の神の力だ。
天が味方してくれている。そうとも言えないか。
靄が消えればみつかりやすくなってしまう。追っ手にとっても条件は一緒だ。待てよ、あいつらの力を考えればこっちが不利になるかもしれない。
『頼む、風の神シナよ。我らを守りたまえ』
赤毛を
皆ついてきている大丈夫だ。
問題は追っての奴らだ。
あいつらはいったいどうしちまったんだ。悪の手先に成り下がったのか。
それともなにか。『正義は我にあり』とでも思っているのか。何かはき違えているんじゃないのか。裏切り者だと
なぜ、あんな酷いことができる。
日向様がいったい何をしたというのだ。日向様の断末魔の叫び。あたり一面に立ち込める血生臭い匂い。昨日の事のように思い出される。
『邪悪な巫女、日向。我らの
狼の放った言葉が今でも耳に残っている。訳の分からないことをほざきやがって。日向様は、上から物を言う厳しい人ではあるがそんな惨忍な人ではない。
くそったれ。邪悪なのは狼のほうじゃないか。口元を血で汚し、咆哮する狼の姿を思い出す度に身体に震えがくる。あんな姿が神の
日向様を救えなかったことが悔やまれる。
狼どもめ。
日向様だけでなく、自分まで殺そうとするとは。
アシはブルッと身体を震わせて走り続けた。
ヨウとノキがいなければ狼に食われていたかもしれない。逃げるだけで精一杯だった。あのとき逃げてしまったことが恥ずかしい。だが、そうするしかなかった。
力のない自分たちに選択肢はなかった。
あれから半年が経つというのに、狼どもはいまだに自分たちを狙ってくる。
日向様殺害を目撃したため狙われているのか、別の理由があるのか正直わからない。それでも真実が知りたくて
傷が
このまま狼どもに殺されてしまうのだろうか。それは避けたい。
とにかく今は逃げるしかない。あのときの日向様と同じ目にあわないように。あいつらは容赦ない。話し合いなど甘い考えをすべきじゃなかった。
まずい、痛みが増してきた。顔を
アシはすぐにかぶりを振り、走ることに集中した。囮になることなんてヨウとノキが望むはずがない。動けないとなったらヨウとノキは、勝てないとわかっても狼どもに立ち向かうだろう。こいつらはそういう奴らだ。自分だけ助かろうとは思うまい。
頑張ってくれ、動き続けてくれ。自分の足に向けて強く願う。
皆揃ってこの窮地を乗り越える。
絶対に絶対に、絶対にだ。
誰一人欠けてはいけない。安全な地へ逃げ切るまでは、自分が引っ張っていかねばならない。弱気は禁物だ。
アシは血の滲んだ足を
確実に狼どもが距離を縮めている。狼の集団にチラッと目を向け、ヨウとノキに『急げ』と目配せした。
もっと早く動いてくれとアシは、足に力を込めた。このままだと追いつかれてしまう。
まずい靄がだいぶ晴れてきてしまった。
「アシ、おまえ大丈夫なのか」
「ふん、こんな怪我ぐらいたいしたことはない。ヨウこそ、限界にきているんじゃないのか」
「馬鹿にするな。なんの問題もないさ」
ヨウの奴、虚勢を張りやがって。限界をとうに超えていることはわかっている。わかっているが、今は無理しても頑張ってもらわなくては。
「ふたりとも、おいらダメかも」
ノキの奴。弱音を吐くな。頑張ろうと思ったところなのに。
文句を言いたいところだが自分もダメかもしれない。
アシはすぐに頭から弱気を振り払い、ノキに言い放つ。
「ノキ、力を振り絞れ。今が頑張りどころだぞ。あいつらの餌食になってもいいのか。十二神獣様たちのところにもうすぐ着く」
「わ、わかったよ」
よしとアシは頷き前を向く。
そうは言ったものの正直辿り着けるか疑問だった。状況はかなりまずい。狼どもに囚われるのも時間の問題かもしれない。それならば戦うか。
ダメだ。自分たちの妖力では勝てない。考えるまでもない。わかりきったことだ。
アシはチラッと右前方へと目を向けた。最悪、あそこへ避難するか。もうひとつの人の世へ通ずる扉へ。
あっ、しまった。挟み撃ちされたか。
唸り声をあげる狼集団が前方にも待ち構えていた。
こうなったら選択肢はひとつ。もうひとつの世界へ行くしかない。
「最終手段だ。もうひとつの人の世へ逃げよう。あそこには狼どもも近づけないはずだ。我らだけしか通れない抜け道がある」
アシは荒い息をしながら背後のヨウとノキにそう告げた。
「正気か。あそこへは許可がなければ立ち入ってはいけないはず」
「ヨウ、わかっている。だが緊急事態だ。きっと許してくれる」
「おいら、賛成だ。もう走れない。食われるのも嫌だ。あそこへ行こう」
ヨウはノキをチラ見して、渋々頷いていた。
よし、決まりだ。
「あの吊り橋の先だ。道がなくても突き進め、いいな」
右へと方向転換すると、もうひとつの人の世へ通じる扉へと突き進む。痛む足に顔を歪めながらも地面を蹴り続けた。
あれ、どうしたのだろう。あたりが暗くなってきた。なぜだ。もう夜なのか。そんなはずはない。まだ朝のはずだ。
まさか、意識が遠のいているのか。血の滲む足を見遣り、歯を食いしばる。
ダメだ、ここで力尽きるわけにはいかない。もう少しだけ、もう少しだけもってくれ。
んっ、あれはなんだ。
目の端に信じられない光景が映る。
太陽が、太陽が消えていく。
このような奇怪な現象が起こるとは何事だ。
薄らいだ靄から望む空にはどんどん欠けていく太陽があった。光が失われていく。暗くなっていく。
不吉だ。この世の終わりなのか、これは。
もしかして日向様が亡くなられたせいなのか。違うか。
亡くなる当日に起きるのなら、納得できるがそうではない。まさか、日向様は怨霊と化してしまったのか。
チラッと背後に目をやると、異様な姿が目に留まる。
巨大狼の背に乗った木製の面をつけた黒衣の者だ。あいつは何者だ。怪しげな奴だ。
あいつのせいか。あいつが太陽を消そうとしているのか。あいつは力ある呪術師なのか。それとも
鬼神という可能性も捨てきれないか。
太陽を消せるとしたら。そんな力の持ち主に勝てる気がしない。
アシは、身体をブルッと震わせてもうひとつの人の世へ通じる道へ飛び込んだ。
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