02

 エミルが、壊れた。

 血に塗れた和装を翻した彼女を見るのは、決して初めてではない。だけど崖上から降りて来た直後の、一切の感情をも映さない瞳も、色を失った肌も、も。それなりに長く同じ時間を共にしていたけれど、悠仁は初めて目にした。

 今は、笑っている。楽しくて仕方ないというような笑い方をしているようにも見えるが、その実ひどく虚しい笑いだ。

 こんなエミルは、知らない。ゾッと、背筋に嫌な寒気を覚える。

 殺気を放っているわけでは無い。むしろ、微かな害意さえ感じない。それなのに、この圧迫感は何だ。


!」

「!」


 届いたのは、ただの一声。それだけで、エミルが笑うのをやめる。振り返った先に居た人物を見て……それでも、全ての感情を消したままの彼女の笑みは変わらなかった。

 急いで駆けてきたのか、大粒の汗を首筋に伝わせて肩で息をする、彼女の養父・聖がそこには居た。

 その姿を見て、また悠仁は驚く。彼のこんな姿も、初めて見たと。いつもクールで、穏やかで、元殺し屋などとは思わせないような柔らかさと居心地の良さを持った聖がこんなに息を乱した姿など、見たことが無かった。

 それに彼は今、エミルを何と呼んだ?

 と。その名は、彼女の本名だ。二人きりの時には呼んでいたというが、人前では決して口にすることは無かった名だ。それを、よりにもよって世界大総統の前で。


「……聖、さん……」


 ようやく絞り出した声は、情けない程に弱く震えていた。

 そんな悠仁にはただの一瞥もくれず、聖はまっすぐエミルに歩み寄る。自分を見たまま微動だにしないエミルを抱き寄せた腕は、彼らしくなく強引だった。

 力の加減も出来ない様子で自分をきつく抱き締める腕にも、エミルは眉根一つ動かさない。ただ、耳元で聴こえる荒い呼吸を聴きながら――目を閉じた。

 じきに呼吸が落ち着いた様子の聖が、エミルを抱き締める腕に更に力を込める。


「嫌な、予感がしたんだ。だから何度も言っていたのに、この馬鹿は……」


 口調も、彼らしくなく少し乱暴だ。取り乱しているのか。そもそも何故ここに居るのか。

 いや、分からないわけではない。まず「嫌な予感がする」と、悠仁をの「仕事場」へと向かわせたのが聖だ。

 目を開けたエミルの視線は何処を見ているでもなく、ただぼんやりと空を見つめている。

 顔を上げると、崖がみえて。そのずっと上には、今にも雨が降り出しそうに分厚い雲がかかった空が、皆を見下ろしていた。


「俺がいつも何て言ってるか、覚えてるか」


 もう一度目を閉じて。また開いて。ゆっくりと、エミルは聖の背に手を伸ばした。


「……壊れる、前に……俺を、頼れ」

「そうだ」


 絞り出すようなエミルの声に、聖はようやくいつものような余裕を湛えた、穏やかな苦笑を浮かべる。

 無表情が標準装備の聖がこんな柔らかい表情を見せるのは、に向けた時だけだ。それだけ彼は愛情を注いでいる。


「誰が何と言おうと、お前は俺の愛娘だから。必要な時には頼って欲しいし、目一杯甘やかして、守りたいとも思っている」


 腕を緩めてエミルを見つめ、片手はそっと、彼女の頬を撫でた。肌の色を濃く見せる為に塗っているファンデーションが落ちない程度に、そっと、優しく。


「本当にお前は……いつもは律儀に俺の言いつけを守るくせに、こういう事は聞かないな」

「っ……ごめん、なさい……」


 歪んだ顔を隠すように、エミルは今度は自分から聖に抱き付いてその胸に埋める。


「ごめ……ごめんなさい聖。ごめんなさい。怒って……っ」

「怒らないさ」

「お願い! 怒っていいから、あたしのこと捨てないで……!!」

「捨てない」


 優しく言って、聖はもう一度エミルを抱き締めた。今度はきつくなく、優しく、彼女を甘やかす為に。

 さらりと、エミルの髪を梳く。


「親ってのはな、無条件に子供を愛して、守る存在なんだ。確かに俺はお前と血は繋がってないが、それでもお前を本当の娘だと思ってる。だから、子供お前を捨てる理由なんて何処にも無い」


 穏やかに、優しく微笑んだ聖の言葉に、表情に、彼の服を握り締めていたエミルの手の力が強くなり、その背縫いを破いた。まるで『殺し屋』なんて言葉が似合わない姿。今はただ、純粋に親に甘えるただの子供だ。

 小さな肩が震えているのを、悠仁も桂十郎もただじっと見つめていた。


「疲れただろう。一度眠って良い。俺は傍に居るから」


 静かに聖が言えば、それに従うようにエミルは目を閉じる。その身体を横抱きにして、聖は自分の方にもたれさせた。

 腕の中で安心したように眠るエミルを少しの間見つめて、それから聖は今度は桂十郎に視線を向ける。


「世界大総統閣下。俺はこの子の親で、金井聖といいます。少し話したいこともあったが、この子のことが先だ。今日のところは、ひとまず失礼します」


 ひとつ目礼をして、きびすを返した。帰るために歩き出す聖の背を、悠仁が黙って追う。

 ただただ、一人の少女が気にかかる。何も言わないままの桂十郎のことは、もう振り返らなかった。

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