12話、幽霊ちゃんについて。(後編)
「……あ、れ」
さらに月日が経っても変わらない。人々を助ける夜がやって来て、幽海は箱庭商事の会議室にて目覚めた。開いたドアから蛍光灯の灯りが漏れてくる。
今日も人助けだ――そう思って体を起こそうとするのだが。
上手く、起き上がってくれない。
肉体の無い幽霊に物理的な問題は皆無――問題は、精神だった。
「お、かしいな。起き上がらないといけないのに……起きて、皆を喜ばせなきゃ、いけないのに……!」
それでも本能が拒絶しているのか、立ち上がれない。前へ進めない。困っている人達の元へと、行くことが出来ない。
幽海にとってそれは地獄でしかなかった。自分の鬱屈さから逃れる行為が出来ないばかりか、積もり積もってしまった鬱を感じることしか出来ないのだから。
とうの昔に、許容量など超えて溢れ返っていたのに気付かぬフリをした代償は、あまりに重い。
「ぅ、ぅ……」
このまま負の感情に溺れてしまうのだろうか。
苦しい。重ったるい感情が奔流の様に肺に流れて喘ぐ程に、ぎゅうと胸が痛む。
どうすれば、どうしたら――。
「じゃあ、お疲れ様でーす」
「お疲れさん、ゆっくり休めよ~」
その時であった。
何と、目の前の廊下を社員が横切って行くではないか。しかも帰る時に着るジャケットを羽織って、荷物も片手に持って。
極め付けに、「お疲れ様です」という言葉。
もしかして社員全員――
「……」
突然の出来事に幽海は呆然としていた。当然だろう。昨日迄はあんなに遅くまで残っていた社員が続々と夜になってすぐ家路につくのだから。
呆然とする間にオフィスビルは伽藍洞になった。ドアから漏れる灯りは蛍光から月光へと移り変わり、キーボード音一つ鳴りもしない。幽霊として生まれてこの方、感じたことのない閑かな闇夜だった。
「……」
こうして箱庭商事は、幽海の心情と会社の事情という2つの意味で終わりを迎えた、危険な共存関係の跡地と化した。
真っ暗闇の中、幽海は。
「……ふ、ふふ」
気張って負わねばならなかった重荷を下ろして筋肉を弛緩させるように、重圧から解放されて思わず緩んだ口から安堵の笑い声が漏れていた。
瞬間、幽海は思わず頬を押さえた。
「あ、れ……?」
何故笑っているのか、自分で理解できなかったからだ。だが
「なんで……」
無理矢理手で頬を押さえつける。
駄目だ、笑っては――幽海は直感した。言語化が出来なくとも、それだけは駄目だと。笑ったら今までしてきた人助けを全て否定する気分になったから。
抑えろ。抑えるんだ。
必死に口角が上がるのに抵抗していると。
「……っ、え?」
今度は、涙が溢れてきた。
「何、なの……」
幽海は当惑する。生まれたての赤ん坊が自らの感情を言語化できないように、記憶を失くして幽霊として現れたばかりの幽海もまた、自らの感情を上手く処理できなくなっていた。
安堵と不安が一斉に混ざり合って襲い掛かる。人助けで否が応でも積もっていった疲労と鬱屈さ。それから解放されても尚待ち受ける記憶喪失への恐怖と不安。八方塞がりなその状況に、頭がおかしくなりそうだった。
「どう、しよ。どうしよ……」
しかし、それでも助けてくれる人はいない。
これは小説ではなく、現実だ。事実は小説より奇なることもあるが、都合が良くなるとは限らない――。
かつ。こつ。
その時だった。
廊下から、靴の鳴る音が響く。
「あ~……かったりぃ」
続けて壮年の男の声も続けて耳に入る。それらの音はどんどん近づいて来た。
(ど……泥棒さん!?)
突然の登場に幽海は驚き、パニックに陥りかける。
しかし相手が泥棒だとしても、どうってことないだろうと思い直す。正直怖いが自分は幽霊。物理的に傷つけられることは一切無い。何も怖いものは、ない。
ない筈だけど。
それでも、やっぱり怖いものは怖い。そう思って、部屋の中で震えて通り過ぎるのを待とうとした。
このまま何も起こってくれるな――両手を
しかし、これは現実だ。
「面倒臭えけど、ちゃんと警備の仕事はすっかあ」
男は、無遠慮にドアに手をかけてガラリと開ける。
その瞬間、男と幽海の視線がかち合った。
「……え?」
男はきょとんとした表情をしていた。彼は自ら言った通り、ただの警備員だった。青を基調とした制服を身に纏い、帽子を被り、右手には警棒を持っている。
何だ、と相手が泥棒でないことが分かった幽海は胸を撫で下ろす。もう恐怖を感じることはない。安心だ。
と思ったその時。
警備員の男が、幽海に声を掛ける。
「……なあ!」
それは、驚きの声ではなく。
「君!
幽海の表情が固まった。
癒しの幽霊。
困っている人を助ける、自分の今の
本能で拒否しているにも関わらず骨身にまで染み付いた、困っている人を助けて癒すその存在理由を。
「……そうよ!」
幽海は振り返って、笑顔を振り撒いて、示してみせた。
新たな地獄が始まった瞬間だった。
***
アイデンティティというのは、鉄格子になり得る。自分という囚人を閉じ込める牢獄を。その囚人に自由は許されない――自分らしさを訴える自由さえ。
箱庭商事、夜。
定時退社を推奨されてすっかりすっからかんとなった社屋に、遊崎幽海は顕現する。幽霊の青白さより青い顔をして、重い瞼をこじ開けた。
「……」
あの日――鬱、恐怖、不安という混合液体が心の器の容量を超えた日以後も、警備員の男性に愛想を振り撒いていた。はっきり言えば、限界を超えて尚限界を超えることを要求される環境など、地獄以外に形容しようがない。
その『限界を超える』行為は元々自らの鬱屈さから背けるためのものであったのに、背けられるどころか、その出汁に使っている人を勝手に原因にして鬱屈さを深めているのだ。
罪悪感だけでなく、自己嫌悪まで込み上げてきてしまった。それが幽海に追い打ちをかける。吐き気がまた襲い掛かった。出せるものは嗚咽以外に何一つない。
何をどうしても負の感情の蟻地獄に掛かり、抜け出せない。藻掻き方も分からず、足先から膝、腰、肩を経て頭頂まで呑み込まれる。
息苦しい。溺れる。
……助けて。
だが、それでも容赦なく一日は始まる。
人間にも幽霊にも、時間の流れは平等だ。
「……っ、う」
与えられた平等な時間の内、警備員の男性が来るまでの間、幽海はさめざめと泣く。
優しくすることも癒すことも止めてしまえば良かったのだが、止めることはとても怖くてできなかった。
――止めて、果たしてその後どうなるのか。
今ですら鬱々とした気分を深めているというのに、それを一時でも忘れられる術すら喪ってしまったら。それが今の幽海には怖くて堪らなかった。硝子の精神で衝撃に耐え切る自信は、どうしても持てない。
しかし、深めていく鬱鬱とした気分に対処できるような気力も、ほとんど残っていなかった。それでも、選択肢など存在しない。
「ひっく……ぅ……」
こっ、こっ。と。
あの警備員の靴が軽快なステップ音を鳴らす。
幽海は必死に涙を拭って無理矢理口角を引き攣らせ、感情のメーターを無理矢理陰から陽へと振り切って、男性の前へ出て行った。
地獄だ。
その心の叫びは、誰にも届かない。
***
暫く経った頃、幽海に朗報が入る。
なんと警備員の男性が転職をしたらしい。つまりそれは、あの男性が居なくなるということを意味していた。
幽海はその事実だけを耳に入れ――代わりの人が来るなんてことはこの時点で耳に入れなかった――、安堵していた。嬉しくもなっていた。もうこれ以上負の感情を塗り重ねなくて良いのだ、と。
恐怖も不安も気味悪さも無くなってはいない。しかし幽海にとってみれば、もうそれだけを耐えていたかった。これ以上負の感情に塗り潰されたら、本当に壊れてしまう。
「……あー、もう」
泣きたいのか笑いたいのか分からないぐちゃぐちゃな表情で、幽海はひっそりと呟いた。
とにかく疲れた。今まではそれでも他者を助けなくてはならなかった。
だが今は、誰に
自分が癒される、またとない機会がやってきた。
真に心が癒される、なんてことがないというのに。
しかし、もう癒さねばならなかった。幽海の心は崩壊寸前であった。
「……うふふ」
訳の分からない笑みを零して、ふらり、と幽海は給湯室の冷蔵庫に向かった。
昔、あそこに甘いものがあるということは耳に入れていた。それをどうしても食べてみたかったのだ。それで癒しが得られるのであれば――。
「甘いものを
……ちなみにお金を払わないといけないことを彼女は知らない。知らないからこそ心の赴くまま冷蔵庫に手をかけ、少しばかり大きな音を鳴らして開けた。
中から適当に取り出したのは『桜見だいふく』。苺アイスが大福生地で包まれているものだ。
「……ふ、ふふ」
甘味を前にして頬が緩む。
高揚感と興奮に、体が痺れる感覚がする。
「こ、これで……」
束の間でも良い。何だって良い。
今の目の前の良くない感情から逃げられるのであれば、甘いものに舌鼓を打つのも悪くない。恐らく、今までの人助けよりはマシな筈だ――そんなことまで考えるようになる程、幽海は余裕を失くして自己中心的になっていた。
「ようやく私も――」
そうして幽海は叫んだ。
心の底から、快哉を。
「休めるっ!!!」
次の瞬間。
「……は?」
という男の声が聞こえた。
――そして物語は、新たな始まりを迎える。
***
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