第32話 『母』

 母は戸惑う私の目をじっくりと覗きこんだ。


「これは下賤の者によって作られた、下賤の者のための何かです。

 こんな低俗なものを『本』と認めるわけにはいきません。百の害こそあれ一の利もない。当然……」


 母は火柱をあげるドラム缶の方を振り返る。私はどうすることもできず、ただ、ギュッと目を瞑った。

「氷川の人間には必要のないものです」


 がこん。

 その本はドラム缶の縁にあたって音を立てた。ふわりと火の粉が舞い上がる。

 本はすぐに炎に包まれた。

 あんなに夢中になってめくったページはみるみる奇妙な形でまるまり、そして、灰になった。


 がこん。がこん。

 投げ込まれる本の音。

 それを聞きながら私は自分の胸の一番弱い部分が握り潰されるような痛みを感じた。


「奥様」

 家政婦の牧野さんがタカナシさんの小屋から飛び出してきた。

「こんなものが見つかりました」

 そう言って母に何かを手渡す。


 それは毛糸でできた帽子だった。

 昼間、私がタカナシさんからもらい、今は自室のランドセルの中に隠しているものと同じものだった。

 しかし、一点だけ違いがあったようだ。


「ここに『Y』という編み込みがありますが、もしかして……」

 含みを持たせた牧野さんの指摘に母は静かにうなづくと、私の方を見た。


「美冬さん」

 私は母に見つめらて思わず身がすくんだ。

 蛇に睨まれた蛙みたいだった。口が全く動かない。

 母はそっと言った。

「あなた、『M』と入ったこれと同じ帽子を持っているのではありませんか?」

 私は呼吸の仕方を忘れるくらいに驚いた。

 どうしてそれを?

 何も答えられなかったが、母にはそれで十分だったのだろう。

 母はにこりと笑った。

「どうすればいいのか、わかりますよね?」


 その瞬間、色んなものが私の脳裏を駆け巡った。


 それは、まだ私が『飼い殺し』という言葉を知らない頃のことだった。

 せいぜい小学校1年生か2年生くらいのことだと思う。

 私は無知だった。無知だったけれど、やっと察した。


「はい、よくわかります。『』」


 毛糸はよく燃えた。


 帽子を手作りするのにどのくらいの時間がかかるのか、私にはわからない。

 ただ、費やされた時間の何百分の一にも満たない時間でそれがこの世から消えたのは確かだった。


 私はゆらゆらと揺れる炎をいつまでもぼんやりと眺めていた。

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