或いは、恋文なのかもしれない。
細蟹姫
第1話 私とあなた
「ぶんちゃんさん、今日もありがとう! 楽しかったー。お疲れー。」
「お疲れツグミ。また明日ね。」
跳ねるような明るい声で、お礼を言って、私はオンラインゲームと音声チャットを落とす。
同時に ガチャリ と向かいの部屋の扉が開く音がした。
夫の
部屋の前をその足音が通り過ぎるのを、私は身を縮めて静かに待った。
『あぁ、こんな生活はいつまで続けられるのだろう・・・』
もし、文哉がこの事を知ったとしたら、私たちはその時どんな終わりを迎えるのだろうか。
或いは何かが始まるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は何も映っていないディズプレイをただただ見つめていた。
***
「おはよう文哉。」
「あぁ。」
「今日も忙しいの?」
「あぁ。」
私と文哉の朝の会話はいつもこれだ。
すでに着替えを済ませた状態で部屋から出てくる文哉は、まるでそれしか言葉を知らないかのように「あぁ」しか言わない。
そして私がゴミだの洗濯だのとバタバタしている間に、さっさと支度を済ませて玄関で靴をはいているのだ。
「あ、もう出るの? いってらっしゃい!! 気を付けてね。」
「あぁ。」
きっと、私がそれを見つけなければ、文哉は挨拶もなしにこの家を出て行くのだろう。
結婚して3年。それは初めから変わらない事だった。
「いってきますくらい言おうよ!」と言ったこともあった。
「見送らなくていい」という彼に対して、見送るのを辞めようと思ったこともあった。
けれど、私にとって玄関での見送りは、家族を大切に思う愛情表現の一つ。
私の母は、どんなに忙しくても誰かが出かける際は手を止めて、玄関まで見送りに来てくれる人だったから、私も家族ができたら、そうしてあげたいとずっと思っていたのだ。
「もしかしたら、これが永遠の別れになることもあるでしょ? だから、玄関の見送りだけは、どれだけ喧嘩をしたとしても、笑顔で見送ることにしているの。後悔したくないから。」
いつかの日に、そんな事を言ったのは誰だっただろうか。胸に残ったその言葉のお蔭もあって、私は私の為にも文哉を見送ることを辞められないでいた。
文哉を見送ってから、一人朝食を済ませて家を出る。
『今日は卵が安い日だ。文哉の好きな、オムライスを作ろうかな。それから、大根のサラダ。ホタテの缶詰、まだあったかなぁ・・・それから、文哉のシャツにアイロンかけないと。あ、お酒が無いかもしれない。買って帰らないと機嫌悪くなっちゃうな。えっと、今週の文哉の予定は・・・』
私の頭の中は、いつだって文哉中心で回っている。だって文哉が大好きだから。
だけど、文哉はそうは思えないらしい。
「お前と話していると話が通じなさ過ぎて吐き気がしてくる。」
「今、お前の顔見たくないんだよ・・・」
「どうせ俺の事なんかお前には分からないだろ?」
「はいはい、俺が悪かった。結局俺が我慢するしかない。話し合うだけ無駄なんだよ。」
「頼むから俺を怒らせるな! イラつかせないでくれ!!」
事あるごとに、そうして私を拒絶する。
理由は私が文哉の意図を汲めないから。文哉の欲しい言葉を、反応をしてあげられないから。文哉を好きだという気持ちを、明確な言葉で、態度で示すことができないからだ。
その原因はいつだって私にある。彼の中でそれが変わることはない。
***
私と文哉の出会いは大学の時。学科の違った私たちは、研音サークルで出会った。
歌が好きだった私は、昔からバンド活動に興味があって、研音サークルの見学に行ったけれど、人と話す事が苦手で尻込みし、その扉を叩くことができず、部屋の前で立ち往生してしまっていた。
やっぱり辞めようと回れ右をした時現れたのが、一足早く入部を決めていた文哉だった。
「あれ? 君も研音見に来たの?」
「えっと・・・はい。」
「じゃ、一緒に入ろうぜ! 俺は文哉。君は?」
「あ、
「おー。よろしくな。美羽鳥。で、美羽鳥は何志望? 俺はさ、ギターやってんだけど、ベースとかも弾けるようになりたいかなって。」
「私は・・・歌が好きで。」
「へぇ、歌えるんだ。俺、実は音痴でさ。歌える奴って凄いよな。あ、じゃぁさ、一緒にバンド組もうぜ。んで、オリジナル曲とかやろうよ。俺、書くから。知り合いがドラムできっからさ。決まりな! よし、結成祝いにカラオケでも行くか!!」
少し強引に、だけど手を差し伸べて引っ張ってくれた文哉に、私が恋をするのに時間はかからなかった。
とはいえ、コミュニケーションが苦手だった私とは違い、誰にでも気さくなタイプだった文哉は先輩からも可愛がられ、女の子たちにもすごくモテていた。
文哉と同じ学部だという美人な彼女を部室に連れて来ては、人目もはばからずいちゃ付いているのを、気にする素振りを隠した私は心を痛めて眺めている。そんな日々を過ごしていた。
そんなある日の事だった。
その日は珍しく、文哉の元気がなかった。聞けば彼女と別れたという。
いつも傲慢なくらい自信家な文哉が、案外打たれ弱い事を知った。
「俺はただ、あいつの為を思っただけなんだけどな・・・」
「俺の何がいけなかったんだろう・・・」
「俺はさ・・・尽くしてやったんだけどな・・・」
思えばこの時、すでに文哉は「俺」の事ばかりだった。
まるで「黙って俺についてくればいいのに、あいつはそれをしないで歯向かってきた」とでも言いたげに、今までの自分の偉業を語った後、思い通りにならないのは「俺のせいなのか?」と、不毛な問いを投げかけていたように思う。
けれど、この時の私はそれらには目を瞑り、懸命に聞き役に徹していた。
「悪いのは文哉じゃないよ。」
「文哉は素敵な人だもの。間違ってないよ。」
「きっと、彼女さんが求めていたものが違っただけだよ。」
慣れないながらとにかく文哉に寄り添った。
やり取りのどこかで、違和感を感じていたと思う。
だけど、その違和感を私は見て見ぬふりをしてしまった。
その結果、私は文哉の彼女になった。
付き合ってからの日々は幸せだった。
尻込みばかりする私を、文哉は外へと引っ張り出してくれたから。
知らない世界を知れた。私にもたくさんの可能性があることを知ることができた。
文哉と居れば、どこまでも高く飛べるような気がしていた。
いつだって前を歩いてくれる文哉が時々見せる絶望的な悲壮感。
それすらも、私だけに見せてくれる特別なものだと疑わない程に、恋に夢中だったあの頃。
だから、私は違和感の正体に気づきながら、それらを無視してしまった。
あの時、もしも心が鳴らした危険信号に従っていたのなら、私は文哉とは結婚していなかったかもしれない。
***
文哉との新婚生活は順調だったと思う。
だけど、いつからか生じていたズレは、今はもう修復不能になっている。
すれ違うたびに何度も話し合いを要求してきた。
けれど、返って来るのはいつだって、0か1かを決めるための不毛な罵倒。
どちらかが100%悪いだなんてことはありえないのに、文哉はそれを決めたがった。
「私が悪かったです。」
「これから気を付けます。」
「頑張って改善してみるね!」
そう、全てを飲み込んで、言っていられた時はまだよかった。
けれど、文哉は行動が伴わない事に腹を立て、私を叱咤するようになっていった。
「何度も言ってるよね?」
「口で努力するって言ったって、何も変わってないじゃん。」
「何で俺のいう事が聞けないの?」
努力を怠ったわけではない。だけど、私は文哉の理想をこなすにはあまりにも力不足だったのだ。それでも自分なりに頑張った。文哉と一緒に居たかったから。
だけど、そんな言葉を浴び続けた私の心が少しずつ壊れていくのを、私は見逃せなくて、ある時ついに、反論をぶつけてしまった。
「そういう思いがあるのは文哉だけじゃないよ? 私にだって我慢できない事はある。出来ないことだってある!!」
ただ文哉に歩み寄ってほしかった。
一方的に責任を問うのではなく、答えが出なくとも共に模索していこうとする姿勢が、話し合いがしたかった。
私だって、文哉だって、たかが人間だ。完璧になど慣れる訳もない。だから、同じ理想を見つめて、そこに向かって一緒に歩んでいきたい。
だって私は文哉が好きだ。一緒に歳を重ねていきたいと、心からそう願っている。
そのためにお互いの不足を補っていきたい。そう伝えたつもりだった。
それは、まぎれもなく文哉の事を愛しているが故だったのだけれど。
「あぁ。そう。じゃぁ、俺が我慢しろって事ね。」
返ってきたのはそんな言葉だった。
「そうじゃなくて・・・」
「だってそうでしょ? 美羽鳥が出来ないっていうならさ、俺が我慢するしかないじゃん。他になんか打開策ある? ないんでしょ。もういいよ。俺は苦しいけど、どうにもならない思いを抱えて一人苦しめって事じゃん。」
「違っ―――」
「美羽鳥は俺の事が好きじゃないんでしょ? だからそうやって俺の事苦しめてさ。人の事いじめて楽しい?」
「そんな事思ってない! 私は文哉が好きだから―――」
「どこが?」
「え・・・えっと・・・」
「ほら、もういいよ。そうやってさ、適当に好きとか言えば済むと思ってんでしょ? 美羽鳥の言葉って薄っぺらいんだよね。上辺だけっていうか。」
「あ・・・・・・・・・。」
「美羽鳥の言葉に、俺が傷ついているの分かってる? 人の気持ちが分からない美羽鳥には、分からないか。」
「・・・・・・・・・。」
「何も言わないんだね。もう、話す事ない? だったら出てってよ。顔も見たくないから。」
「・・・・・・・・うん・・・。」
それから、何度同じような会話を繰り返しただろうか。
頑張って話し合いを求める度に
時に私は発した言葉を咎められ、
時に私は言葉を発しないことを咎められた。
私が文哉に寄り添えないのがいけないのかもしれない。だけど、これ以上文哉を真摯に受け入れていたなら、私の心は本当に壊れてしまう。それが恐ろしかった。
私は、文哉を嫌いになりたくはなかった。それでも文哉を好きでいたかった。
文哉と一緒に居たい。
私の願いは、ただそれだけだった。
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