アイデスの憂鬱

森住千紘

.Prologue

 One summer afternoon  〜 ある夏の午後 〜

 動きを止めた身体が熱を持つ。


 顔が火照り、小さく胸が疼く。

 土が滲んだ手でキャチャマスクを拾い、マウンドでへたり込む少女の元へと歩み寄った。

 小刻みに上下する肩に、そっと手を置く。


 ひくり、と彼女の身体が震えた。

 土を握り締める彼女の手元が眼鏡越しに映る。

 舌打ちが出かけるのを堪え、私は、既に過ぎた事だと頭の中を切り替える。


明日香あすか」私は天才の名を呼んだ。「行こう、整列しなきゃ」

「……ごめん」俯いたままの彼女の言葉は僅かに掠れて震えている。「ごめん、アンちゃん」


 顔を上げた彼女の顔は、土と埃と汗と涙と何かに塗れていた。

 滲んだ黒。

 見たくない顔。

 だから一瞬で目を逸らし、同じ言葉を繰り返す。


「整列しよ?」


 彼女の右側に回り、その手を取り立ち上がらせる。

 そのまま列の最後尾に立たせ、私は急ぎ最前へ。

 最後の礼に声を張り上げる。


 私の夏は終わった。

 けれど、ここはまだ通過点。

 だから、感情の揺らぎは少ない。

 少ないけれど。


 ベンチに戻り、手早く片付ける。

 後輩達が気を利かせて、懸命に動いてくれている。

 レガースを外すのを手伝ってくれた後輩は、どこか腑に落ちない表情をして呟いた。


「負けるとは思ってなかったです」


 結果は出たと言うのに、どこか納得のいかない様子。

 彼女の言う事は解らないでもない。


 世間的に、それはとても小さな世間ではあるけれど、私達のチーム、そして私達の世代には天才がいて、歴史は浅いけれど、チーム史上最強だと、周囲の大人達は口を揃える。

 それが世間を駆け巡り、気付いた時には尾鰭おひれは肥大、私達は優勝候補と見做されるようになっていた。

 そう見られている事をチームメイト皆解っていたし、その評価がモチベーションになっていたのは事実。

 けれど、私は心の何処かで、このような周囲の期待を裏切る結果が起こり得るとも思っていた。


 野球は何が起こっても不思議ではない。

 尤も、それはスポーツ全般に言える事だとは思うけれど。


 プロテクタ等を後輩に任せ、監督と共にベンチ内の最終確認をしてから、私は自分のバッグを持って外に出た。


 更衣室まで僅かな距離だとしても、やはり夏の日差しは強烈で、時折吹く風は熱風に近い。

 次試合のチームとすれ違い、その自信に満ち溢れた表情に、妙な引け目を感じてしまう。


 心をまち針で突かれるような疼痛とうつう

 過ぎた事と割り切ったつもりでいても、後悔を内包する苛立ちが、剥がれ掛かった瘡蓋かさぶたのように心にしがみついている。


 監督のやや後ろを歩く私は、その僅かな道のりで心を落ち着ける。

 無機質な部屋の中、皆が座っている。

 土で燻んだ背番号とユニフォーム。

 それらが一斉にこちらを向いた。


「お疲れさん」


 普段通りの飄々とした態度で、監督はチームメイトの間に入っていく。彼は皆の前に立ち、私はその最後尾に腰を下ろした。


「何があるか解らないよなあ」肩を竦めながら言う、監督なりの労い。「皆、自分の出せる物は全部出した。それでも結果が伴わない事もある。幾ら君達が強豪と言われていたとしても、まだ中学生。相手も中学生。実の所、その間の差なんて、殆どない。だから、時に簡単にひっくり返る。こんな事も起こる、という経験を胸に、これから歩んでもらいたいよね」


 監督は緩りと自分を取り巻く選手達に目を向けた。

 その中で一瞬動きが止まる。

 苦笑とも同情とも取れる、微妙な表情をした目が私に向いた。

 小さく溜め息をついたようだった。


「細かい反省は宿に戻ってからね。じゃ、各々着替えて入り口に集合」


 普段よりも幾分消沈した返答をして、皆がそれぞれ動き出す。

 監督は見送るように皆に向けた目を真下に、それから私へ。


斑目まだらめ、頼むよ、バッテリィなんだから」


 私は曖昧に頷き、内心溜息。

 重い腰をあげる。


「ほら、中沢なかざわも、着替えてスッキリしなよ」


 監督はそう言うと、土塗れの乙女達の花園から退散していった。


 ドアが閉まり、一瞬の沈黙。

 皆、何かを口にするタイミングを逃してしまったよう。

 それほど、この部屋は今まで感じた事のない気まずさの中に沈んでいる。

 私は微動だにせず俯く背番号1の横にしゃがみ込んだ。

 私が動いた事で部屋の空気も動き出す。

 各々が、何かを思い出したかのように動き出し、沈黙が雑踏に上書きされてゆく。


「明日香」チームメイトの窺う視線を感じながら、私は彼女の名を呼んだ。「着替えよ?」

「……ごめん」膝の間に顔を挟み、中沢明日香は消沈した声を出した。

「解ったから、ね」


 意外と思う反面、妙に心がさざめく。

 何故、ここまで落ち込むのだろう。落ち込めるのだろう。


 中沢明日香は天才だ。

 天才は天がもたらした才能だとして、では、才能とは何か。

 私が思うに、才能とは呑み込みの早さと、それをすぐに実践できる能力だと思う。センスとも言える。

 そう定義した上で、明日香の野球の才能は、紛れもなく本物だと私は思う。


 けれど。

 それだけでは、いずれ限界がくる。


 凡人でも時間をかけて同じ到達点に辿り着けば、立ち位置は一緒。

 天才が天才でなくなる瞬間。

 今はまだ天才なのかもしれない。

 けれど、今のままでは大して時間が経たないうちに、明日香は皆と肩を並べるだろう。

 何とかして、その才能の使い方を良い方向に持って行きたかった。持って行きたかったのだけれど。


 何度目かの、ごめんという言葉と共に、明日香が顔を上げた。


 否定したい訳ではない。

 中学生とはいえ、乙女は乙女。

 ”乙女である事”を止める権利は私にはないし、私も止められたくはない。

 けれど、それは自分がなすべき事をやった上で平行処理すれば良い事だ。

 だから、優先順位がちぐはぐだと感じてしまう。


 修正できなかった自分。

 修正する意味が解らなかった明日香。


 私達の溝は次第に大きくなった。

 それでも、私達はバッテリィとして共に臨まなければならなかった。誰にも言えず、私は燻んだ想いを抱えながら。


 赤く腫れた明日香の目。

 涙の跡はしっかりと残っていて、それを縁取る様な崩れたアイライン。

 仄かな茶色の長い髪に、スポーツ用とは些か毛色の違うマニキュア。

 昨今の規定には違反しない程度の嗜み。


 それ自体は別に構いやしない。

 それでモチベーションが上がる人もいるのも知っている。


 けれど、そこに力を入れ過ぎるというのはどうなのか、と私は思う。

 天才故に、周りより頭ひとつ抜けているから皆口にしない。


 私が危惧した時には、既に天才は完成されていた。

 明日香は自分と他者の違いも理解していた。

 自分が秀でている自覚もあったのだろう。更なる高みを目指せる伸びしろがあるのにも拘らず、蔑ろにした。

 私は、それを修正しきれなかった。


 私の意識が高いだけかと疑った時期もあった。あったけれど、海外で長年活躍した選手は小学生の頃から自分のヴィジョンが見えていた。だから、高みが目指せる位置にいるのなら、年齢など関係なく目指すべきだと私は自身の考え方を肯定した。


 だからこそ、私の中で明日香に対してやりきれない想いが燻っている。

 鼻を啜りながら彼女は立ち上がる。

 彼女の左手が私の手を掴む。もう一度鼻を啜った。


「何でこうなっちゃったのかな」少し鼻の詰まった声で明日香は言う。


 私は息を呑む。

 天才と凡人。

 その差はまだ有る。有るけれど、それは縮まる一方だ。

 私のこの先の道、隣に明日香はいない。

 だから。

 言葉が漏れる。

 感情を押し込めたつもりの、私の言葉が。


 私は咄嗟に明日香の手を取り、部屋から飛び出した。

 屋外に出て、建物の日陰で彼女と向き合った。


「確かに明日香は上手いよ。でもさ、だからと言って、自分一人でどうにかできるほどの差があったのかな」

「どう言う意味?」明日香は一瞬、訝しむような表情を見せ、私から目を逸らす。「確かにつまづいた部分はあった。けど、私以外にどうにかできた? どうにもできないと思ったから……」

「普段の明日香ならね。でも、あの時は球はバラけるしキレもない。他の投手と大して差はなかった」私は明日香に近寄る。「私言ったよね。一回、外野入って、落ち着いたらって。でも明日香は、まだ大丈夫って言い切った。全然大丈夫じゃなかったんだよ。私は受けてるから解る。だからそう言ったのに。でも……」

「私が代わってたら、流れ変わったの? 私そうは思えないんだけど。それにさ」明日香は少し俯いた。「私達の中学最後の大会なんだよ。最後まで投げたいじゃん」

「ならさ……」私の中で抑えきれない物がせり上がってくる。「何で練習で手を抜くの? 走り込みもサボるの? 今日つまづいたのだって、息切れしたからでしょ? 明日香は上手い。けど、それは周りと比べての話で、明日香自身はどう思ってたのさ。負けて悔しいなら、何でもっと野球に真面目に向かい合わないんだ」


 どうにも感情が表に出てきてしまい、私の視界は酷く滲んでしまった。

 私は許せなかったのだ。


 明るい未来に思えた女子プロ野球はついえ、一昔前のマイナな競技に戻ると思われた女子野球も、世界的なパンデミックが収束しつつある中、新たな門出を迎える事となった。

 それは、今は亡きプロへの通過点としか考えていなかった高校野球が、私の中での価値の比重を膨らませ始めた瞬間。

 懸ける価値のある時間となったそれ。

 先が潰えてしまった以上、そこで全てを出し切るのも悪くない。

 その舞台を共に歩む相棒として、明日香となら、と考えた。


 それなのに、天才は天才である事に胡座をかいた。

 私と同じ目線を共有してはくれなかった。

 何度も修正しようと試みて、流されて、失敗して、次第に諦めが勝っていった。


「……何で言ってくれなかったの?」明日香は呟くように言った。

「だから言ったよ、何回も」私は眼鏡を押し上げ、滲んだ視界を手の平で拭う。「聞かなかったのは明日香じゃん」

「アンちゃんがよそよそしくなったのは知ってた。でもその理由教えてくれなかったじゃん。そんな事はないよって、笑うだけ。アンちゃんとなら、私どこまで行けるんだろうって思ってたけど、……先にやる気なくしたのそっちじゃない」

「な……」私は言葉を失う。「それを明日香が言う? 私は明日香が手を抜き始めたのを見て……」

「……そっか、手を抜いていたように思うんだ」明日香は遠くを見ながらそう言った。「仕方ないじゃん、難しい事なんてなかったんだから。私これでも、自分のできる事、できない事の判断はしてるつもりだよ。練習はさ、確認作業なんだよ。できないラインを確かめる為の。それで、そのラインが解ったら、それを克服する。初めは楽しかった。けどさ、やればやるほど、皆の目が変わってきた。なんか壁って言うのかな、皆と私の境界線みたいなさ。私はね、どんどん一人になっていった。アンちゃんなら解ってくれると思ってたけど……」

「……何で言わないんだよ」


 私の声は震えている。

 明日香の心音こころねに触れたのは何時いつぶりだろうか。

 こうして正面から言い合う事がここ最近まるでなかった。

 ましてや、明日香が何を感じ、どう思っているか、それを考えた事があったのだろうか。


 私は勝手に彼女の内面を決めつけていただけだったのだろう。

 私達はどこかでズレて、すれ違い続けていた。

 遅い。遅すぎる。

 私達は互いに阿呆だった。


「受け止めてもらえるとは思えなかった。だって私は一人だったから」

「私達は阿呆だね」涙が頬を伝う。「バッテリィ組んでるのに、対話すらできてなかった」

「……ごめんね。きっと私が悪いんだ。実際手を抜いたのは事実だし」


 今度は私が鼻を啜る番だった。


「そこは絶対許さない。けど、これからはちゃんと話し合える」

「もう終わっちゃったけどね」明日香は泣きながら笑った。


 目元を手で拭った物だから、アイラインの残り香が薄く伸びてアライグマの様になっていた。


「顔洗おう」私は明日香の手を取った。先ほどとは違う足取りで、更衣室に戻る。


 今度はしっかりと話そうと自分を改めた。

 とことん話して、明日香と本当の意味でのバッテリィを組む。

 そして新たな道に肩を並べる。

 今まで描いてきたプランに修正を加える。それは私にとって、とても魅力的で、夢幻と諦めていた最善の道だった。


 次に通り抜ける門は華やかで希望に満ち溢れる物であるに違いない。

 私の夏は余り良くない結果で終わってしまったけれど、始まりとしては予想だにしない最高の結果となった。

 私の未来は祝福されている、そう思わずにはいられなかった。

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