第63話 何も見えない扉の奥

 夕食を食べ終わり、風呂を沸かして入る。

 風呂場はそれなりに広かったが、流石に四人では入れない。


 そして就寝する事にしたのだが……。


「アハバイン様、今日は一緒に寝ましょう」


 そう言って寝間着姿のアーネラとノエルは俺をつかんで放さなかった。

 美少女にそうされるのは悪い気はしない。しかし正直暑苦しい。


「もうこの家に変なのはいなさそうだが」

「それでもです。あんなのと一人で出会ったらと思うと」


 玄関で出会ったあの全身がねじれた女や、風呂場にいた手の長い女の悪霊のことだろう。

 確かに俺も暗闇の中で遭遇したら、悲鳴の一つでも上げるかもしれない。


 まあ、そうする事で気が済むのならそうすればいい。

 不安を和らげるのも主人の仕事だ。


 マステマは風呂が終わったら、さっさと寝てしまった。

 裸で寝ようとしたので、慌ててアーネラが寝間着を着せる。


 悪魔は病を患うのだろうか。

 単純にはしたないからやめて欲しい。


 俺を掴むことで安心したのか、奴隷二人から寝息が聞こえる。

 今日は学園初日だったが、なんだかんだ色々あった。


 疲れていても不思議ではない。


 家の掃除も仕事も任せているからな。


 俺も疲れた。寝るとしよう。

 ゆっくりと瞼を閉じて眠りに就く。



 ――深夜。

 不意に目が覚めた。


 疲れからして朝まで目を覚まさないと思ったが、こうして目が覚めたという事は本能によるものだろう。


 奴隷達は変わらず隣で寝ていたが、何時の間にか手を放している。


 目を開けると、目の前にマステマの顔があった。

 怖いくらいに奇麗な顔が、俺をのぞき込んでいる。

 紅い目が爛々と輝いていた。

 体が反射的にビクつく。


「なんだ?」


 そう聞くと、マステマは右手の人差し指を口の前に持っていき、小さな声でシーっと言う。

 隣の二人が起きるから騒ぐなという事だろう。


 一体なんなんだ?


 今のマステマは出会った頃に近い。

 最近の情緒を獲得した子供のような様子とは違い、悪魔としてのマステマだ。


 俺はゆっくりと起きる。

 アーネラとノエルは深く寝ているようだ。目を覚ます気配はない。


 部屋の中は暗い。かろうじてシルエットが分かる位だ。


 マステマが俺を手で招くのでついて行く。

 ゆっくりと。

 歩くたびに床が緩やかに軋む音と、時計の音だけが聞こえる。


 階段を昇る。消えた筈の異様な気配を再び感じるような気がする。

 階段を踏みしめる度に聞こえる音がうるさい。


 ……ふいに手を腰にやるが、剣は持っていない。


 マステマを見る。以前渡した、黒いドレスを着ていた。


 二階に到着し、マステマはそのまま奥へ行く。

 そして奥の扉を開けると、その先はただ真っ黒だった。

 何も見えない。

 直前まで目を瞑り、暗闇に慣れた筈の目でも何も見えない。


 底抜けの闇に、マステマが手招きする。


 思考が鈍い。

 考えようとする度に何かに邪魔をされ、足がその暗闇に向かう。


 扉に近づくたびに、マステマの口が笑みの形に広がるようだ。

 紅い目と、紅い口が暗闇の中ではっきりと見える。


 それはまるで、悪魔のようだ……。


「間抜け。そっちに行くな」


 その言葉が聞こえた後、俺は何者かに首を掴まれて後ろへ投げ捨てられた。


「誰に断って、私の真似をしている? 私が魔王デモゴルゴンに仕えるマステマと知っての行いか?」


 悪魔の圧倒的な気配と力が迸る。周囲の異様な空気が怯えたように怯む。

 俺を掴んだのは本物のマステマだった。


「不快だ。私に怯えて逃げるなら見逃してやろうと、寛大に接してやった結果がそれか? 現世に縋るしかないゴミが」


 これは怒りだ。マステマが怒りを露わにしている。

 恐らく舐められたと判断したのだろう。


 悪魔にとって大切なのは契約と体面である。

 舐められた悪魔は契約を軽視されると考える。


 つまり弱いと思われることは恥そのものなのだ。


 そうか、俺は化かされたのか。

 少しばかり油断していた。


 あのまま暗闇に足を踏み入れたら、恐らく簡単には戻ってこれなかっただろう。

 冒険者の頃は天剣だけは常に身に着けていたものだが、感覚が鈍っている。


 手を虚空に向けて天剣への繋がりを探る。

 そうすると天剣が俺の手に飛んできた。


 剣が震える。少しばかり怒っているな、これは。


 天使も悪魔も怒っていて、ああ後が思いやられる。

 天使が俺の魔力を吸って久しぶりに姿を現した。


「馬鹿ですか? こんな浅い手に。しかも悪魔に助けられて」

「ああもう、分かってるよ」


 マステマは自らに化けた存在に近づく。

 よく見れば、マステマの方がよほど美しい。


 マステマは扉の奥の何も見えない空間を殴りつけると、空間が砕けて消える。

 奥には普通の部屋がうっすらと見える。


 マステマを真似た存在は、空間が砕けると共に体に亀裂が走り、赤い血が全身から流れる。


「これはなんだ?」

「はぁ。私を倒した人間がこんな雑魚にやられそうになるな。昼間の奴らの残りだ」

「お前に怯えて逃げたんじゃないのか?」

「大半はそうだ。力の差が分からないやつが、この時間まで潜んでいたんだろ」


 そう言って、マステマは砕け始めた偽物の首を掴む。


「お前は食うにも値しない。消えろ」


 マステマが力を込めると、そのまま偽物が砕けた。

 その欠片がマステマの足元を通り、逃げようとしたのを天使が光で焼き尽くす。


「雑ですよ。悪魔」

「……天使か。そういえば居たな」


 マステマと天使はあの戦い以来の遭遇になる。

 一触即発になるかと思われたが、マステマが先に気配を収めた。


「本物ならともかく、核だけの天使に用はない。私の用は済んだ。寝る」


 そう言ってすれ違いざまに、俺に蹴りを入れてきた。

 痛い。


「しゃんとしろ」


 全く、悪魔に説教されるとは。

 少しばかり浮かれていたか。


 その後マステマはいびきをかいて寝始めた。

 俺も眠るが、それ以降は特に問題は起こらずに夜が過ぎる。




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