雨、散歩

黒猫のプルゥ

第1話

 雨の日は長ぐつをはいて散歩に出かけた。かさをくるくる回して大きな池のある公園を歩いた。ぬれるのも冷たいのも少しも気にならなかった。

 ぼくは雨が好きだ。言葉を覚えるより、たぶんずっと前から。うす暗い空も、ざーざーいう音も、しめったにおいも、全部好きだ。まぶしいだけの太陽なんかよりずっといい。

 その日もぼくは雨の公園を散歩していた。池の周りをぐるっと歩いて、水面に輪っかが広がっていくのをながめた。小川に沿ってさいたアジサイの葉っぱに、しずくが落ちてはじかれるのを観察した。

「ねえきみ、アジサイが好きなの?」

 どこからか女のひとの声が聞こえてきた。ふり返ってみるけど、近くにはだれもいない。「こっちだよ」ともういちど声が聞こえて、そのひとが東屋にいるとわかった。屋根とベンチだけの小さな東屋だった。

 かさを閉じて、雨水をふり落としてから屋根の下に入った。

「アジサイを見るのが好きなの?」

 直角にならんだベンチのいちばん左に座ったそのひとは、同じ質問をくり返した。

「ううん、ただ雨が好きなだけ。オバチャンは雨、好き?」

「オバ……。いや、きみからしたらじゅうぶんオバチャンか。うん、オバチャンもきらいじゃないかな。——あ、ごめんね。いきなり知らないひとに話しかけられたらびっくりするよね」

「オバチャンは悪いひと?」

「どうかな、どっちかというと悪いひとかも」

「ふーん、そっか」

 ぼくはかさをベンチに立てかけて、オバチャンのとなりに座った。

「あれ、悪いオバチャンとのお話につき合ってくれるの?」

「ぼくも悪い子だから」

 ぼくが言うと、オバチャンは少し困ったように笑った。

 雨はさらに強く降ってきた。この屋根の下だけがぬれない場所で、ぼくとオバチャンは水の中に閉じこめられてしまったみたいだった。

「アジサイってね、土の酸性度によって花の色が赤になりやすいか青になりやすいか決まるんだって。ほら、リトマス紙ならわかるんじゃない? ちょうどあんな感じ」

「へー、そうなんだ。おもしろい」

「おもしろいでしょ。でもさ、なんだかそれって、人間みたいだと思わない? 育つどじょうしだいで、どんな結果になるかある程度は決まっているなんてさ」

「そうなのかな、ぼくにはよくわかんない」

「わかんないか。そうだよね、まだわかんないよね」

 オバチャンは柱にもたれかかって、その表面をなでた。

 東屋の中はあんまりきれいじゃなかった。悪口とかこいびとどうしとかの落書きがいくつもあるし、ベンチの下には空きカンが転がっていた。

 こんなところに、どうしてオバチャンはひとりでいたんだろう?

「アジサイはきれいだけど、じつは毒を持っているんだって。だから気をつけるんだよ、少年」

 オバチャンは遠くを見て言った。


 次の日も雨だった。ぼくはかさと長ぐつを用意して出かけた。公園を歩いて東屋まで行くと、オバチャンはまたそこにいた。前の日と同じで、ベンチの左のはしっこに座っていた。

 オバチャンは自分がぼくと同じくらいのとしだったころのことを話した。学校のこととか、流行っていたゲームのこととか。それからぼくに、いろいろと質問をした。

「きみ、もう自分のスマホを持ってるの? いいなあ、オバチャンが子どもだったころはそもそもスマホなんてまだなかったよ」

「だけどね、ぼくはこうやって直接ひとと会って話すほうが好き」

「お、なかなか大人びたことを言うじゃないか、少年」

 ぼくとオバチャンはたくさんのことを話した。でも、オバチャンは自分自身のことはほとんど話さなかった。


 それからもぼくは雨が降るたびに出かけた。公園を散歩すると、オバチャンはいつも必ず同じところにいた。東屋のベンチのいちばん左に。

 ぼくには不思議だった。オバチャンが絶対に決まった場所に座っていることが。それから、大人なのにずっと公園にいることが。きっとオバチャンのとしなら、仕事とか、けっこんとかしてなきゃいけないはずなのに。

 オバチャンの話は少しずつ子どもから大人に成長していって、だんだん時代がいまに近づいてきた。そして、日に日にオバチャンの口は重くなっていくような気がした。

 しとしととつぶの小さい雨が降ったある日、とうとうオバチャンはだまりこんでしまった。柱に頭をもたれさせて、ぼんやりとした様子だった。

 ぼくは前から気になっていたことをきいてみることにした。

「オバチャンはいま何をしてるひとなの?」

 オバチャンは首を起こしてぼくを見た。

「ん、オバチャンはね、何もしてないひとなんだ。お仕事も、お勉強も、なーんにも」

「なんで?」

「なんで、か……。あんまり楽しい話じゃないけど、聞いてくれる?」

 ぼくはだまってうなずいた。長ぐつから足をぬいて、ベンチの上に体育座りした。

 オバチャンは話し始めた。ちょっと前までは仕事をしていたこと。そこで好きなひとができたこと。

「そのひとは上司でオバチャンの教育係でね、なんでも優しく手取り足取り教えてくれるから、ついその気になっちゃったんだ。顔もかっこよかったし。そのうちお付き合いすることになって、その間はすっごく幸せだったんだけどね。……わたし、あきられちゃったのかな。ある日から手のひらを返したように冷たくされるようになってね、いつの間にか仕事場での居場所もなくなっちゃってて……」

「そんなの、ひどい」

「うん、ひどいし、まちがってるよね。でも弱いわたしは何も言えなくて、つらくなって、けっきょくお仕事やめちゃった」

 オバチャンは柱にすがりつくように体をあずけた。

「そっか、だからオバチャンはいつもそこに座ってるんだ」

「え?」

「その柱に書いてあるの、オバチャンの名前なんじゃない?」

 オバチャンの座っているすぐそばの柱には落書きがあった。平べったい三角のいちばん高いところから縦の棒が降りて、その両どなりには名前がひとつずつ書かれていた。男のひとの名前と、女のひとの名前。

「うん、そう……。急に雨に降られたちゃったときにね。こんなとこに落書きなんかして、やっぱり悪いひとだったね、オバチャン。——はあ、情けないな。がんばって、空回りして。あきらめきれなくて、雨宿りして。生まれてから、わたしの人生ってこんなことのくり返しばっかり。梅雨の天気みたいに、わたしの心はいつだって雨もようなんだ」

「雨もよう……? なら、オバチャンはまだ雨降らせてないんだ?」

 ぼくが言うと、オバチャンは不思議そうな顔をした。

 後ろ向きにベンチの背から身を乗り出して、にごった空をぼくは見上げた。

「雨もようって、いまにも雨が降り出しそうな天気のことだよ。だから、オバチャンはまだなんだよね。——雨、降らせちゃったほうがいいんじゃない?」

 オバチャンもいっしょになって雨を見た。絶え間なく降り注ぐ優しい雨を。そしてゆっくり柱から体をはなして、ひざの上に両手を置いて、うつむいた。やがて大つぶの雨が手のこうにこぼれ落ちた。半分ははじかれて、半分ははだに染みこんだ。

 ぼくは何も言わなかった。ただ雨の降る音だけを聞いていた。

 どれだけの時間そうしていたかは覚えていない。一時間だったかもしれないし、五分だったかもしれない。

「……ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって。でも、オバチャン、少しは元気になったかも」

 オバチャンは服のそでで目元をぬぐった。

「よかったね、オバチャン」

「きみのおかげだよ、ありがとう」

 オバチャンはぼくの頭をなでてから立ち上がった。屋根のとぎれるところまで歩いていって立ち止まり、ふり返った。

「オバチャン、もう一度がんばってみるよ。——それと、こんなことわたしが言うのもなんだけど、今度からは知らないひとと気安く話しちゃダメだぞ、少年」

 最後にそれだけ言って、オバチャンは雨の中へふみ出していった。かさもささずに、ゆうゆうと。まるで青空の下を歩いているみたいだった。

 オバチャンはもう晴れたから、かさも雨宿りも必要なくなったんだろう、とぼくは思った。


 その日からオバチャンが公園に現れることは二度となかった。気まぐれに東屋をのぞいてみると、いつのまにか柱の落書きはきれいに消えていた。

 オバチャンとは会えなくなってしまったけど、ぼくが雨の日の散歩をやめることはない。

 だって、ぼくはやっぱり、雨が好きだから。


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