第9話 バイスと勧誘

 どうしてこの人は、初対面である僕にこのような事情をどんどん語りだしたのであろうか。

 すでに僕は何らかの罠にかかっているのではないか。

 相手を真正面から見ることができないタイプの不安に駆られる僕をよそに、バイスは話を続けた。

「しかし、数日前に起きたとある出来事から、僕はそれではいつか壁にぶつかるのでないかと考えた」

「壁……ですか?」

「壁だよ。言葉どおり」

 両ひじを僕の机について指をからませ、神に罪を懺悔ざんげする姿勢でバイスは目を落とした。

 長いまつげがバイスの顔に影を落とすのと、僕の左隣の席の女子が怪訝けげんな顔をしているのがほぼ同時に観測できた。

「僕が目指しているのは商業漫画家だ。しかしながら、この年齢で、かつ独力で戦うには何もかもが足りない。戦いに負けるのはいい。人は誰しも敗北を味わう運命にある。だが、問題はもっと致命的なものだ」

「致命的?」

「決定的と言い換えてもいい。つまり、商業漫画家になることをあきらめざるを得ないような決定的アクシデントに遭うことを避けたい。そのアクシデントを壁と呼んだ。乗り越えることに失敗してもいい。だが、乗り越えることを諦めてしまうことが問題なのだ。それは敗北のように、わかりやすい形で現れてはこない。いつの間にか、知らず知らずのうちに、壁に手をついて壁沿いに永遠に歩き続けることになるのだ」

 僕の脳裏に、冗談みたいな好天の中、くたびれきって赤茶けた老人がどこまでも伸び途切れるところの見えない白い土壁に手をつき、杖を頼りにとぼとぼと歩いていく様が想起された。

 「絶望」というタイトルをつけてそのまま絵画にできそうな光景だった。

「そこで、アシスタントというと慣用句的過ぎるが、つまるところパートナーを探すことにした。僕が知らず壁に手をつけて歩き始めた時にそれを指摘してくれる人間が近くにほしい。もちろん、これは僕のわがままだ。しかし、目的達成のためにわがままになれない人間が価値のあるものを生み出すことはできるだろうか?」

とバイスは僕をじっと見ながら言った。

 僕はふっと目をそらした。

 脳天まで達している嫌な予感がそこから揮発きはつしていく。

 そして、僕の嫌な予感は必ず的中する。

「そこで君に、そのパートナーとなってもらいたい。何か問題はあるかな?」

 バイスは魅惑的な笑みと同時に実に唐突な提案をしてきた。

 僕は感情を露骨に表情に出さないように少々苦労しなくてはならなかった。

 もちろんそれは唐突な形をとりながらも彼なりに考えを重ねた上での選択であるということはわかった。

 しかし、それならそれで素養か気質か、もう少しやる気がある人間を選択したほうが後々のことを考えてもよいと思われたのだが、バイスは僕をロックオンして放してくれない。

 僕としては、興味がないのでご辞退申し上げたい旨を告げたのだが、

「興味がないならそれこそチャレンジしてみるべきだろう? どうしたって人生は生きなくてはならないのだ。よし、君の暇つぶしを引き受けてやろうじゃないか!」

とバイスに安易に説得された。

 正直、生真面目さだけが目立つバイスの話し方を聞いた時点でこれは相当にめんどうくさいな、とは思った。

 しかし、高校新生活で最初に話しかけてくれたクラスメイトのお誘いを無下に断るのもいささか人情に欠けているのではないかとも思ってしまったのだ。

 このような心理状況におちいったのも今の僕からすれば当時はやはり新生活に半ば突入して完全に浮かれあがっているからとしか思えない。

 なめくじのような目立たない生き方を貫きたい僕からしたら、らしからぬ失態である。

 しかし、結局担任教師が教室に現れるまでのわずかな間にバイスとともに漫画を描くことを約束させられた僕は、実際どうふるまえばよかったのだろうか。

 答えは今も出ていない。

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