【短編】しらゆき姫

仲田日向


 決定打になったのは義母のひとことだった。

 「そんなにこの家が気に入らないというのならさっさと出ていきなさい!」


 ネスはまだ薄紅色の気配が残る頬を大きくふくらませ、「そのつもりだよ!」と叫ぶように応答した。


 義母は言った。「あなたの気持ちもわかるわ。じゅうぶんにわかる。だけど、もう一年も経つのよ? そろそろ心を開いてくれてもいいんじゃない」


 「あんたたちが勝手に僕の生活に割り込んできたんだ!」とネスは言った。「僕は父さんと二人で幸せだったのに……。ずかずかと僕らの暮らしに入ってきて、こんなところに引越しさせられて……、そんなやつらとなんで仲良くしないといけないんだよ!」


 義母の後ろで赤子のジェーンが泣いた。ネスの父親と義母のあいだに生まれた子供だ。ネスとは半分だけ同じ血が流れている。


 義母はネスの言葉にショックを受け、うろたえている様子だった。その表情にはネスもさすがにいたたまれないような気持ちを感じた。言い過ぎたかもしれない。そのときには、なぜ自分がここまで新しい生活に突っかかっているのか、と不思議に思いさえした。


 だが、もうこれ以上我慢ならないというのもまた、揺るがしがたい事実であった。ネスは奥歯を噛みしめ、きびすを返して屋敷の入り口をぬけた。うしろから義母の呼ぶ声が聞こえてきた。でも、ネスは振り向かなかった。そのまま走り、気がつけば町を通り過ぎていた。”くらがり森”への入り口に突き当たっていた。


 ネスは少し迷ってから森のなかに入っていった。どうせ行くあてなどないのだ。どこか気軽に休めるところを探して、そこでのんびり暮らそう。まだ幼いネスには、それが実現可能な思いつきに感じられた。不安よりも楽しみや期待を心に抱いていた。僕はひとりで、まったく自由に生きていくのだ、と。


 最初のうちはよかった。木々から垂れ下がっている木の実を食べたり、道ばたに落ちていた丈夫な木の枝であたりをかきまわしたりしているだけで愉快な気持ちになれた。だが、夜が訪れるとそんな楽観的な心情もあっさりと霧消してしまった。夜はひどく暗かった。いや、森の夜はひどく暗かった。ネスはそのことを知らなかった。電気も外灯も、ここにはひとつだってない。時間を追うごとに、暗闇はどんどん濃密になっていった。そこまで原初的な暗闇に遭遇するのは、ネスにとって初めての経験だった。


 とうぜん、彼は恐怖をおぼえ、急激に心細くなった。ネスは行きあたった巨木の幹に身体をあずけ、夜のあいだじゅう、ぴたりとも動こうとしなかった。ただ時間が過ぎるのを待っていた。眠ることなど到底できやしなかった。風や小動物が起こす物音に、いちいち心臓が跳ねあがった。


 そんな状況にあったので、東のほうから微細な陽光が差し込んできたとき、ネスはまるで自分が新しい存在にそっくり生まれ変わったかのような気持ちを感じた。生きていることがまるで奇跡であるかのように思えた。


 陽の光によって辺りが見渡せるようになると、ネスはすぐに行動を開始した。もう昨日ような夜を過ごすのはごめんだった。昼のうちに、どこか安らげる場所を探さないといけない。使われなくなった小屋などがあれば文句はないのだが……。


 捜索は5時間ほど行なわれた。ネスはくたくただった。

 そうして見つかったのが、だった。




 とつぜん、開けた土地が現れた。


 木々の生えていないスペースが楕円形に広がっており、その中心に煙突付きの石造り家屋が建っていた。そのとなりには小さな馬小屋が二つ並んでいる。少し離れたところには井戸と工具置き場もあった。


 ネスは家のほうに近づいていった。そうしながら、身なりをさっと整えた。ドアをノックする前から、なかに誰かがいるとわかっていたのだ。話し声こそ聞こえなかったのだが、そこにはたしかに人の存在を感じとることができる。


 ネスは戸をノックする。

 「ごめんください」

 返事はない。

 「ごめんください」とネスはくりかえした。

 すると、音もなく扉がひらいた。ネスは思わず身を引いた。

 「どなた?」と扉の奥の声が言った。少し攻撃的な、とげのある声だった。


 ネスはその声の主をそっと見上げた。

 背の高い女だった。かっぷくがよく、たくましい両肩はうしろに引かれ、砂袋が詰まっているような胸は大きく前に突き出されていた。顔の輪郭は中年女性特有の丸みを確実に帯びてきており、肌は異様なほどに白く、そのぶん唇に塗られた赤のルージュが殺人的に際立っていた。身につけているヒマワリ色のドレスは、かつては華美であったのだろうが、いまではシワがより、色は悲しげに褪せてしまっていた。落ちぶれ、うち捨てられた貴族。そんな印象を、ネスはその女の容貌から感じとった。


 「あの、実は、道に迷ってしまって……」とネスはたどたどしく言った。「少し休めるところを探していたんです。そしたら、このおうちが目に入って……」


 「ふうん」女は砂色の髪を後ろになでつけながら言った。「あんた、家出してきたんだろう?」


 図星をつかれたネスは何を言うこともできず、じっと黙り込んでしまった。その様子を見て、女はひどく愉しそうに笑った。酒場の男主人があげるような笑い声に、ネスはまた少し気圧される。


 「いいよ、休んでいきな。なんならずっとここにいてもいいよ。話し相手がいなくて退屈していたところなんだ」


 そういいながら、女は家のなかに引き返していく。ネスはそのうしろすがたをぼんやりと見つめていた。


 「何をしているんだい」からだの大きな女はネスに向かって投げつけるようにして言った。「さっさとなかに入りな。疲れているんだろう? なに、捕って食いやしないよ。早くこっちにきて、そこに座りな」


 ネスはつばをのみこみ、礼を言って、靴の裏についた泥をしっかりと落としてから家に入った。腰を落ち着ける場所が見つかったことと、ここは本当に安全なのだろうかという思いがちょうど半分ずつ胸に去来していた。


 だけどネスには選択の余地がなかった。これ以上歩きつづけることなんてできやしない。それならば、この女性の厚意に甘えるしかない。ネスはその機会がもたらされたことに感謝すべきなのだと考えた。自らの幸運に、そして家の主と見られる女性の優しさに。


 「僕はネスと言います」テーブルにつくと、ネスは言った。「町の方から来ました」


 「やけに疲れているみたいだね」と女は言った。キッチンに向かい、やかんに火をかけた。「野宿でもしてきたのかい?」


 「そうです」とネスは応えた。


 女は慣れた手つきで紅茶を二杯入れ、ひとつをネスの前に出した。ネスは紅茶が苦手だったのだが残すのも良くないと思い、砂糖をたくさん入れて無理に飲み切った。


 女は肉の積もった顎を右手で支えながら、ネスに言った。


 「あたしはシラユキ。ずっとここで暮らしてるの。いえ、ひとりでじゃないわ。子供がいるの、七人ね。どうしようもない馬鹿どもよ。きっとあと二時間くらいで帰ってくるわ。どうしようもない、愚かな馬鹿ども」






 「もともと、ここはあたし一人の家だったのよ」とシラユキは眼球のなかの火をゆらゆらとたぎらせながら話をはじめた。「いまはあいつらも一緒にいるわけだけど」


 「七人もお子さんがいらっしゃるんですか?」とネスは訊いた。父親が仕事の相手に使うような口調を真似してみた。


 「そうよ、ちょうどあんたと同じくらいのがね」

 「僕は九つです」

 「歳の話じゃあないよ」とシラユキは欠けの見える黄ばんだ歯を露出しながら笑った。「背たけの話さ。まあ見りゃあわかるよ。ちょうどあんたと同じくらいだからさ」


 ネスには女の言っていることの意味がよくわからなかった。なので別のことを訊いてみることにした。


 「お父さんはいないんですか、その子たちの」

 向かいの椅子に座る巨漢の女は砂糖菓子やクッキーに伸ばしていた手をぴたりと止めた。なにか空気が変わるのを、ネスは感じた。詮索してはいけない部分に手を触れた感覚があった。


 シラユキはさぞかし不愉快そうに、ひどく長いため息をついた。紅茶の入ったカップがかたかたと揺れた。ネスはテーブルの下で、デニムのズボンの裾をぎゅっと握った。


 「そうねえ、じゃあ最初から話してあげようかしら」やがて、シラユキは首をかしげながら言った。その声に苛立ちはこもっていなかった。さっきのため息は僕ではなく、なにか過去の出来事に向けて放たれたものなのだとわかり、ネスはほっと胸をなでおろした。


 「さっきも言ったように最初はあたしひとりで暮らしてたのよ。そしてまだ若かった。二十にもなっていなかったわ。たまに町に出て買い物をしたりもしたけど、基本的にはこの森のなかで生活をしてた。祖母は早くに死んだから、動物たちと一緒にね。きっとあなたにはそういう時間を想像できないでしょうね。のどかで、あたたかで、どこまでも透き通っているあの時間。

 今も変わっていないけど、あたしはその頃からとびきり美しかった。町の女なんかとは比べものにならないくらいにね。そしてそんな噂を聞きつけて、国の王子がやってきたのよ。わざわざ、こんな森の外れにまで。あたしたちはほどなく結婚したわ。それに合わせて、あたしも王宮に移った。どう? とっても順風満帆に聞こえるでしょう?」


 ネスには「順風満帆」の意味がわからなかった。だけど話の腰を折らないために肯いておいた。


 「全部変わっちまったのは子どもが生まれたせいなんだよ」とシラユキは苦いものを吐き捨てるように言った。


 ネスは首をかしげた。「でも、子どもが生まれるって良いことじゃないの? みんな喜ぶし、王様の子供だったら王子になるわけでしょう?」


 「」とシラユキは言った。


 「」とネスはくりかえした。正体のわからぬ不安が胸につもっていくのを感じた。


 「あたしから生まれたのはね」怒りをにじませる女は、奥歯をぐっと噛みしめながらこう言った。「


 家の外からざっざっと砂を蹴る音が聞こえた。つられて窓のほうを見ると、どうやらいつの間にか日暮れがやってきていたようだった。ネスはほとんど反射的に、家に帰らなくてはと思った。たまらなく父親に会いたかった。だが、そのことをシラユキに告げるより早く、戸がゆっくりと開いた。


 「あれが悪夢の正体だよ。七つ子さ」


 夕焼けを背に、そこに立っていたのは七人の男だった。だが、ただの男たちじゃない。彼らはみな一様に、絵本のなかのキャラクターのように小ぶりな体をしていた。小人だ、とネスは思った。ネスは彼らの先頭にいたリーダー風の赤い帽子の男と、ただ数秒間見つめあっていた。唐突に現れたお互いの存在に、お互いどちらもが驚きを隠せなかったのだ。


 「汚い靴で入ってくるんじゃないよ。小屋の方で泥を落としてから入って来いって何度言ったらわかるんだい!」


 怒号が飛んだ。小人たちは黙って引き返していった。戸がしまった。


 シラユキは一人では抱えきれなくなった悩みをそっと打ち明けるように、ネスに甘ったるい声をかけた。


 「あいつらのせいであたしはここに逆戻りさ。小さすぎる赤子が七人も一緒に生まれたんだ。そりゃきみ悪がるさ。あたしを破滅させたのは、あたしから出てきたあいつらそのものなんだよ。本当に悪夢みたいな話さ。なあ、そう思うだろう、坊っちゃん?」


 ネスは口をつぐみ、悲しげに閉じられた扉をどうしようもない気持ちで眺めていた。




つづく

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