第2話 しずやしず
1275年9月。蒙古襲来から1年が経過していた。
ヒブライ・ハーンは日本側を交渉の場に引き出せると予想し、使者一行5人を送って来た。
「ヒブライは日ノ本侵略に失敗したのを忘れ、未だ従属させようとしておる。義郎、どうしてくれようかのう。全く諦めの悪い奴らよ」
雉狩りに出ていた時宗は弓を引きながら、義経にそう尋ねた。
「殺しましょうか、皆殺しで」
それを聞き、時宗は雉を射ぬまま弓を一旦下げ、義経を見た。
「時々思うのだが、其方、恐ろしいことを笑顔でいうのう。使者を殺せば必ず戦になる。まあ、殺さなくとも奴らは侵略を実行に移すだろが」
「同じ様な言葉を以前、しずにもいわれたことが御座ります。殿はいつも笑顔で、でもその笑顔が怖いのよと」
「しずとは、其方の側室の?」
以前、静御前に関して時宗に話した事がある。もちろん名前は「静」ではなく「しず」とし、白拍子だったことも隠した。しかしその時、名前が似ているという繋がりで、とても信じがたい不幸な事実を知ってしまった。
義経の都落ちに随行した静御前は、吉野山で義経と別れた後、捕らわれ、鎌倉の頼朝の元へ送られた。そこで義経の子を出産するが、男児だった為、由利ヶ浜で殺され遺棄された。静は開放されるが、その後の消息は不明だという。
ー吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入って行った 貴方の跡が恋しいー
ーしづやしづ賤のだまき繰り返し昔を居間になすよしもがなー
(静や静と繰り返しわたしの名を呼んでくれた昔に、おだまきが繰り返し回る様に、戻すすべがあれば良いのに)
鶴岡八幡宮社前で、白拍子を舞うことを頼朝に強要された静御前は、義経を想うこの詩を詠み、頼朝を激怒させるが、北条政子の執り成しで命を救われた。子を殺され、生きる望みを捨てた上での舞であった。
この話を聞いた義経は、怒りと後悔を顔に出さずにいられず、部屋を出て行ってしまった。いまでもその思いは薄れることはない。
「はい。しずはとても聡明で明るくて、わたしの傍らを片時も離れることがなかった。とはいっても妻や娘も愛していたのも事実ですが」
義経はなんとも屈託のない笑顔を見せた。
「しず殿は其方を愛していたのだな」
「……ええ、たぶん」
もう義経は知っていた。時代は80年以上進んでしまったことを。
「しずが生きていたら、100歳を超えているな。おばあちゃんというか、生きる屍だな。ふふ、死んだのか。しず…」
窓際に立ち、枠に肘を置いて、彼は月を見ていた。静と離れてから毎夜、こうして月を見上げている。静の下にもきっと、同じ月明りが届いていると信じて。しかし時を超えた事を確実としてからは、月の明かりも虚しく見えた。
「もうこの時代に、しずはいないんだな」
周りの人間と、源義経についての話題に触れたこともある。彼らの話しは興味深かった。特に間違ってはいないが、少々誇張されてもいる。ここは鎌倉だが、東西に行けば行くほど義経の人気は凄まじいと聞いた。
「ひいきだねー、兄には兄のお立場があったと思うよ」
義経は少しうつむいた。背はそれ程高くないが、細身で筋肉質な身体は均整が取れている。義経の身軽さは、日々の鍛錬の賜物だ。肉体年齢もタイムスリップした31歳で止まっている。
「しかし兄上は、なにゆえそれ程わたしが憎かったのか。一ノ谷、屋島、壇之浦、功こそあっても誤りはないのに、ご勘気を蒙るとは」
義経は壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。
「父上が平氏との戦に敗れ、幼いわたしは母の懐に抱かれ、諸国を流浪し、辺境で生きるか死ぬかの瀬戸際に常に立たされていたが、同じ流人でありながら、兄上は念仏三昧の平穏な日々を過ごして来たではいですか、なのになぜ」
義経は実の兄が自分を討伐しようとしていることを当初は受け入れられず、遺臣のないことを誓う起請文を提出するが、鎌倉に入ることも許されず、腰越にとどまった。そればかりか恩賞として与えられていた平氏旧領までも没収された。更に頼朝は義経が住んでいる屋敷を家来に襲撃させたのだ。
「腰越に来たのが自刃の四年前、兄への謀反を決心したのも同じ時期。時は流れていても、わたしだけが、あの日の想いを抱いたまま、ここに残されたのだ。それにはきっと、何か大きな意味があるのだろう」
ヒブライ・ハーンの使者は鎌倉に連行され、北条時宗の命で9月7日、龍ノ口で斬首された。しかしその二年後、また元から使者が派遣され、重ねて元への服属を要求してきた。
「また来たね」
時宗は居室で寝転んでいた。
「性懲りもなく。もうー、このまま放っておいてくれないかな」
義経は時宗の居室の柱にもたれ掛かったままでいった。
「どうする?」
「これ?」
義経は親指を立て、首をなぞった。
「殿、また斬首しかあるまい。我ら日ノ本は奴らに服属する気はないのだから。しかし、なんでまた送ってくるかな?送られて来た使者も嫌だろうにね。前の人が殺されてるんだし、自分たちも殺されると思ってるよ絶対」
「だろうなあ、どんな気持ちで日ノ本に渡って来たのだろうなあ」
「奴らは大軍で来ますよ。使節を皆殺しにされたのですから、面目が立たない。いままでの様には行かない」
「どちらにせよ、その日は近いか」
「ですか。その、可哀想な使者のことですが、わざわざ鎌倉に連れて来なくとも、大宰府で斬首すれば良いかと思われます」
使節3人は大宰府で殺された。この報せが元に届いた頃、4年前に派遣して消息を絶った使節も既に殺されている事が判明。1981年1月4日、ヒブライは諸将に日本再征軍の出陣を発令。モンゴル人、漢人、そして高麗人によって構成された軍は約四万。江南軍の数役十万。総勢十四万人に達した。
それに対し鎌倉幕府軍は四万人だったが、前回の反省を改め、此度は何度も実験を試みた。
「とにかく上陸を拒む作戦だ」
時宗は九州の御家人に命じて、防塁を建設させた。高さ約3メートル、幅(奥行)1,2メートルの防塁は、総延長約20キロメートルに及ぶ。防塁の海側は急傾斜の石積みで、陸側は緩やかな傾斜に築かれている。これは日本側の兵が馬で防塁に駆け上り、敵を見下ろし、矢を得る為に工夫されていた。
時期は夏、蒸し暑い船内に、兵士たちは2か月も留め置かれることになる。
「洋上に2か月もいたら、病人や使者も出よう」
ふたりは庭を歩いていた。蝉の音が騒々しい。
「そのうち、あれも来ますよ」
「あれ?」
聞き間違いかと、時宗は耳に手をかざして義経の口に顔を近づいた。ふたりは背格好が似ていたので、遠目では、どっちがどっちかわからない。年齢も同級生になっていた。顔付も、少々穏やかなのが時宗で、目元に険しさを感じるのが義経であった。兄への猜疑心が、顔付に表れたのかも知れないと、義経は鏡を覗くのが嫌だった。
「殿、あれですよ。神の国に吹く風です」
義経はそういって目を瞑り、風の匂いを嗅いだ。
7月30日から翌日の8月1日にかけて台風と思われる暴風雨が北九州を襲った。荒れ狂う海に浮かぶ元軍の大船団は一夜にしてその大半が消えた。
九州上陸ができない元軍が台風に遭遇したのは、季節柄を見ても、全くの偶然とはいえない。神風を待ち、神風を吹かせた。
一節によると、元軍の死者は十三万人。全滅であった。
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