誠一郎は兄を見送ったあと、すぐに椿月を探しに出た。


 走り去った時のただならぬ彼女の様子に、言いようのない不安と焦りが胸を浸食しはじめていた。


 まずは劇場に向かった。


 隅々まで見て回ったが、どこにもいない。人に訊いても、誰も見ていないと言う。


 続いて、椿月の住まいである、館長の家を訪れる。


 玄関先で応対してくれた女中は、椿月は一度戻ったあと再びすぐに外出し、その後戻っておらず、館長は今日は仕事で遠出をしていると告げた。


 誠一郎のあまりの様子に、女中が椿月の部屋を見てくれることになった。


 首を長くして待っていると、部屋の様子を見てきた女中が、何かを手に早足で玄関に戻ってきた。


「お嬢様のお部屋にこれが……!」


 誠一郎があわてて受け取ったそれは、書き置きの手紙だった。




〝今までお世話になりました。

お父さん、私をあなたの娘にしてくれてありがとう。

ここでの毎日、私は本当に幸せでした。

挨拶もなく姿を消す、最後のわがままを許してください。”




 目を見張る誠一郎に、女中は告げる。


「それと、お嬢様の物が、お部屋から一部なくなっているんです……!」


 これは、一体どういうことなのか。


 動悸がして息が苦しくなる。


「それと、これも置き手紙のそばに置いてあって……」


 おずおずと差し出されたのは、見覚えのある巾着。


 中には誠一郎が椿月に贈ったかんざしと、小さな紙切れが。


 紙切れにはこう書いてあった。




〝贈り物をお返しします。私が持っている資格はありません。

 私ではない、誰か他の大切な人に贈ってあげてください。

 誠一郎さん、さようなら。

 今までのこと、本当にごめんなさい。”




 さあっと血の気が引くのが分かった。


 なぜ。


 一体、なぜ。


 髪が結えない劇場でも肌身離さず持ち歩けるようにと、巾着に入れて椿月が大事にしていたかんざし。


 きっと彼女は、最後の最後までこれを持っていくか悩んだのであろう。


 それを物語るように、紙切れには館長への手紙よりもためらいのある、インクのにじんだ文字が並んでいる。


 誠一郎はかんざしを握りしめる。


 あんなに喜んでくれていた、大事にしていたものを手放して。


 似合うかしら、と館長に何度も飾って見せていたという椿月。


 二人で街を歩いた記憶。


 隣を歩く彼女の髪に光るトンボ玉。


 自分の贈ったものを、自分の愛する女性が身に着けてくれている嬉しさ。


 初めて知った心のむずがゆさ。


 すべてが遠くなってしまうというのか……。




 誠一郎は置手紙もかんざしも袂につっこんで、街に飛び出した。


 いてもたってもいられず、足は自然と走る。


 まずは駅。隅から隅まで探す。


 しかし、どこにも見当たらない。


 つかみかかるような勢いで周囲の人に尋ねても、誰も知らないと言う。


 一体どこを探したら。


 こんなに不安に駆られて、焦燥感にさいなまれる理由は分かっている。


 椿月は以前、傷つき、すべてを捨てて地元の街を出てきたという。


 もし今回もそうであるなら、きっと椿月はここからずっと遠くの、誰も自分のことを知らない地に向かい、ここには二度と戻ってこない。


 どうして彼女が突然姿を消してしまったのかは分からない。


 でも。


 二度と彼女に会えないかもしれない。


 考えただけで胸が張り裂けそうだった。


 自分の生きている意味を失うような。


 彼女が通っていた店、二人で行った喫茶店、公園、雑貨屋、知る限りのあらゆる場所を訪ねて回った。


 祈るような気持ちで、足が棒になってもなお、疲労困憊の体を引きずるように街中を探した。


 でも、どこにも彼女はいないし、彼女を見たという人もいない。


 日が暮れる。


 彼女が汽車に乗っていたとしたら、もう追いつけない。


 今の彼女は、以前と違い財力がある。どこへいく旅費だって支払えてしまう。近場で降りることはないだろう。


 一生かけて全国の街を回ったら、彼女を見つけられるのだろうか。


 抱えきれない胸の痛みに、誠一郎は道端でみっともなくしゃがみこんだ。


 声が聴きたい。


 今は容易に思い出せる鈴を転がすような声も、いつか年月が奪い去ってしまうのだろうか。


 縁側で並んで見た夏の塀も、


 腕を組まれて歩いた街の景色も、


 また二人で来ようと約束して眺めたイチョウ並木も、


 昨日のことのように鮮やかに心に記憶されているのに。


 初めて彼女の手を握った感覚も、


 穏やかな風に包まれながら彼女の細い肩を抱きしめた記憶も、


 静かな雪夜に彼女の柔らかな唇に口づけたことも、


 こんなにも体が覚えているというのに。


 ありありと感覚が思い出せるというのに。


 もう見つけられないかもしれないという事実が実感として迫ってきて、涙がこぼれた。


 どうしてなんですか、椿月さん。


 雑踏はしゃがみこんだ誠一郎を避けて流れを作る。


 なにかしら、やあねえ、邪魔だよ、変な人、とささやく声が降ってくる。


 もうどうでもいい、なんとでも言え、と思った。


 椿月さん、椿月さん……。


 あなたがいないと、僕は……。


 走馬灯のように、これまでの二人のさまざまな記憶が脳裏を駆ける。


 その時、ハッと気づいた。


 まだ、あそこを探していない。


 もし、わずかでも彼女が僕の存在に未練をいだいてくれているのなら。


 僕が探しにくることを待っているのなら。


 今までのすべてを切り捨てないでいてくれるのなら。


 いくあてのない彼女が身を隠すのは、あそこしかない。




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