誠一郎の兄が訪れる日となった。


 ここしばらく降り続いていた雨は、ようやく止んでいた。しかし頭上は相変わらず、いつ降り出してもおかしくない怪しい色合いの曇り空だった。


 誠一郎は椿月のことを迎えに行った。


 「あなたの家は知っているし、もう何度も行ったことがあるからいいのに」と言う椿月に、頑なに「迎えに行きます」と言い張った誠一郎。


 普段はさほど意思の主張などしない方なのに、ごくたまに妙に強情になるところがあり、椿月はその度に彼のふるまいを不思議に思う。


 舞台に立たない時はほとんど化粧などしないのだが、今日は少しおしろいをはたき、薄く紅を引いた。


 できるかぎり彼のご家族に失礼のないようにと、いつもはあまり着ない、良い布地で仕立てられた着物と袴を身にまとった。


 きちんとふるまえるかしら、と緊張しながら誠一郎の横を歩く椿月は、いつもより口数が少ない。


 加えて、なぜか誠一郎も、いつもよりもさらに寡黙さを増していた。


 沈黙の時間が長くなると、椿月は隣の彼を見上げて問いかけた。


「ねえ、誠一郎さん。変じゃないかしら?」


 そう着物の袖を引いて尋ねてくる彼女に視線を落とし、誠一郎は目を細めて言う。


「まったく。よくお似合いです」


 本当にとても素敵なのだ。実際に、すれ違う人々の視線を確実に奪っていた。


 ただ、それを自らさらりと口から出すには、まだまだ彼の経験は不足していたし、他に気を取られていることもあったのは事実。


 自分以上に気もそぞろな誠一郎のことを椿月は不思議に思いつつ、口数の少ないまま二人は彼の家を目指した。


 家族に会うことを誘われた日から、椿月は胸にずっと落ち着かない気持ちを感じていた。


 緊張のせいだと思いたいのだけれど、何か種類が違うような気がしてならない。


 大丈夫、きちんとご挨拶をすれば、大丈夫。これまで自分に何度も言い聞かせた言葉を、今もまた歩きながら、不安を押し殺すように何度も繰り返していた。


 そうして、いつもの誠一郎宅が見えてきた。


 家の門の前にはなぜか、見たことのない老夫婦が立っていた。


 誠一郎いわく兄がやってくると言っていたし、ご家族ではないのだろう。


 椿月が疑問に思っていると、誠一郎が彼女にそっと告げた。


「この借家の大家夫妻です。一緒に兄を迎えたいと」


 借家の大家夫妻が、店子の家族がやってくるのを出迎えたいという。椿月には事情がよく理解ができなかった。


 でもまずは、以前急に誠一郎宅に一泊することになり、世話になったお礼を伝えなくては。


 門の前でにこやかに二人を迎えてくれた夫婦を、誠一郎は先に椿月に紹介した。


「椿月さん、ご紹介します。お世話になっているこの家の大家夫妻です」


 夫妻の妻の方が、目尻を下げてほほえむ。


「これはこれは、とても可愛らしいお嬢さんで」


 椿月は夫妻に頭を下げた。


「こんにちは。先日はありがとうございました」


 椿月が顔を上げると、驚くことに夫妻はもっと頭を下げていた。


「とんでもございません。あんなもてなししかできず、申し訳ございませんでした」


 びっくりしたまま固まって、目をまばたかせるしかない椿月。


「あ……え、はい……。どうも……」


 なぜ大家夫妻が、借家人の客人にこんなにかしこまって頭を下げているのだろう。


 うまく呑み込めない状況に、いつもの笑顔すら作れないでいた。


 身内の方でなくてもしっかりご挨拶しようと思っていたのに。予想外の応対にそれどころではない。


 椿月の混乱を察して、誠一郎が言いにくそうに彼女に耳打ちした。


「実は……大家夫妻は、うちの縁者のようなものなんです」


 縁者だったとしても、不自然だ。どう見ても誠一郎の方が年若いのに。


 前に彼は、椿月を大家夫妻のもとに連れて行くことを頑なに拒んだが、それは確かにそうだろう。どう考えても、通常の大家と店子の関係ではない。


 椿月は思考が追い付かず、首をかしげることすらできなかった。


 そして夫妻の妻の放った次の言葉に、椿月は耳を疑う。


「誠一郎坊ちゃまには、せめてうちにお泊りいただければと申し上げたんですが……」


「だから、その呼び方は止してくれと……。もう深沢の本家からは出た人間なのに」


「我々にとって、恩人のご令孫であることには変わりませんよ」


「本日は当主様がお越しになられるそうで」


「ああ。兄は所用でこちらに出てきているそうなんだが、数年ぶりに僕の顔を見に来るとかで、ここに寄ることにしたらしい」


 大家夫妻に話す彼のその口調は、まるで使用人に話す時のそれで。普通の人には到底できない喋り方のはずなのに、彼はそれがとても自然にできていて。


 黙ったままの椿月に彼女の戸惑いを感じとって、誠一郎が不器用ながら説明を足す。


「あの、僕は家を出たのでもうあまり関係ないのですが……。実は、実家はある都市で商売をしていまして……」


 その話し方は、いつも話しかけてくれる彼のそれそのものなのに、なんだか急にとても遠くなったように感じられる。


 そして同時に、椿月は、混乱の中に背筋に少しだけ嫌な予感を覚えていた。それが何なのか、自分でもよく分からないのだけれど。


 顔が引きつって、ぎこちない表情になっているのを感じる。


「坊ちゃま。そんな言い方では正確に伝わりませんよ。深沢家はたいへん立派な大商家なのですよ。それはもう、旧華族の方にも劣らないような大きなお屋敷で」


「わたしどもも、過去は捨て子だったのですが、慈悲深い大旦那様に拾っていただき、そこで幼少の頃より仕事と生活の面倒を見ていただいたんです」


「いや、でも僕は、ほとんどそこには住んでいなかったから……」


「この誠一郎様の家も、わたしどもが大家などさせていただいていますが、元は深沢家が全国に持つ土地の一つです。わたしたちが世帯を持って独立するときに、仕事としてこの地域のいくつかの家屋の管理を任せてくださったのです」


「誠一郎坊ちゃまがこちらに出てこられると聞き、深沢家のご子息を長屋住まいなどさせられないと思い、こうしてお住まいいただいているんです」


「僕は長屋でもなんでも、まったく構わなかったんだが……」


 椿月の中の嫌な胸騒ぎが、まるで警鐘を鳴らすかのように大きくなりつつある。


 そんな時。遠くからエンジン音が聞こえて、車がやってくる。


 車種に詳しくない人間でも、それが一般的な物とは品質を画することが一目で分かる。


 門の前で停められた車。後ろにもう一台続いていた。


 すぐさま後続車から壮年の男が降りてきて、前の高級車のドアを恭しく開ける。


 車内より出てきたのは、高級そうな羽織姿の男。


「久しぶりだな、誠一郎」


「お久しぶりです、兄上」


 出迎えた誠一郎と、眼鏡がないだけで、鏡で映したようにそっくりの顔。


 思わず二人の顔を見比べ、椿月は目を見開く。


 それはあまりに似ている兄弟への驚きだけではなく。


 椿月の感じていた、正体不明の嫌な予感が、現実のものとして形作られつつある。瞳が徐々に絶望に染まっていく。


 深く頭を下げる大家夫妻。


「当主様。ご無沙汰しております」


「久しいな。いつもご苦労」


「もったいないお言葉です」


 車のドアを開けた壮年の使用人が、主に細かく気を配る。


「旦那様。ぬかるみでおみ足が汚れます。こちらの道を」


 そして、誠一郎にも頭を下げる。


「誠一郎様。お久しゅうございます。お変わりございませんか」


「ああ、変わりない」


 誠一郎の返答に、懐かしそうに目を細める。まるで彼の昔の姿を思い出しているかのように。


 きっと使用人の中でもかなり歴の長い、使用人頭のような存在なのだろう。


 挨拶をすることも頭を下げることもできず、ただ呆然と事態を瞳に映していた椿月。その使用人頭の顔を見て、わなわなと目を見張った。


 息が止まる。


 一気に青ざめる顔。


 誠一郎の顔を見上げる。


 椿月はすべてを理解してしまった。


「ご……、ごめんなさい……!」


 椿月の脚は、叫ぶような言葉と共に、泥をはね上げながらがむしゃらに駆けだした。


 突然の行動に、周囲の人間は目を丸くするしかない。


 同じく呆気に取られていた誠一郎。兄がいる手前、そして何よりもあまりに突然なことに驚きすぎて、すぐに彼女を追いかけることができなかった。


「つ、椿月さん……?」


 そんな中、使用人頭が冷静につぶやいていた。


「はや。今のご婦人の顔、どこかで……」











「ふむ。少し狭くないか?」


 広さだけが取り柄の家に素直な感想を述べながら、兄が家の中を見回っていく。


 がたのきているぼろい家屋には不似合いな、高貴な姿。


「なんだ、誠一郎。お前、水仕事なんてやっているのか? 家事はすべて大家の者たちに任せればいいと言ったのに。せっかく向こうが是非そうしたいと言ってきたのだから」


 居間、寝室、書斎、台所。弟がどんなところに住んでいるのか、くまなく確認してめぐる。


「私が餞別に贈ってやった外国の本もあるじゃないか。役に立っているか?」


 弟と比べて饒舌な兄が、たびたび色々と尋ねるのだが。


 誠一郎は先程のことで気もそぞろで、ろくに言葉も返せない。


 何かに気を取られると思考がそればかりになってしまう、昔から変わらない弟の様子に、兄はやれやれとため息をこぼす。


「ところで誠一郎。お前からの手紙では、会わせたい人がいるとあったが、先刻のご婦人か? 何やら急にいなくなってしまったようだが、どうしたんだ?」


「それが……。僕にもよく分からなくて」


 不安が自分の心臓を早鐘のように鳴らす。


 自分はここでこのままこうしていて、本当にいいのか?











 袴のひだを派手にひるがえしながら、椿月は駆けていた。


 上がる息。


 流れて弾ける涙の粒。


 分かってしまった。


 私がなぜ、あなたに惹かれたのか。


 気づいてしまった。


 自分の過ちに。


 分かってしまったからには、もうあなたのそばにはいられない。


 ごめんなさい。


 私はなんということをしてしまったの。


 自分という存在を、丸ごと消してしまいたい。




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