連理の契りを君と知る episode7(最終話)「連理の契りを君と知る」

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 椿月はあの頃の夢を見た。




 毎夜、こっそりと会うあの人。


 雪に囲まれた、月のない真夜中。寒椿が凍える庭。


 胸の隆起もまだなく、枝のような四肢をした子供の頃の私。


 膝を抱えて震えていた私を、勇気づけてくれたのは――






 朝からしとしとと降り続く雨音が、彼女を眠りから呼び覚ます。


 薄く開かれたまどろんだ眼(まなこ)で、椿月はぼんやり思う。


 夢に見るなんて珍しい。ずっと忘れようと努めてきたから、もうあの人の顔も声もうまく思い出せないのに。


 絶えず降り注ぐ細い雨の音に誘われ、椿月はまた瞳を閉じた。











 朝から降り続く冷たい雨の中、特注の傘を手に一人歩く、洒落たスーツ姿の男がいた。


 往来を行く人々の中でひときわ存在感を放つ、見目麗しい彼の名は、神矢辰巳。


 この都市にある劇場で活躍する、人気俳優である。


 最近では他都市での主演公演も成功させ、巷での評価はうなぎ上りであるとか。


 陰鬱とした雨空などまったく介さず、長い脚で颯爽と街中を歩いていた彼だったが、ふとあることを思い出し、思わず顔をほころばせた。


 そのあることとは、彼の友人と、舞台仲間である女性が、ついに互いの気持ちを通わせたという事実だった。


 他都市での公演を終え、久しぶりに地元の劇場に帰ってきた彼を迎えてくれた二人。


 開口一番、いかに自分があちらの劇場で活躍したかを話してやろうと思っていたのだが、神矢はその鋭い感性で、二人の雰囲気の違いにすぐに気がついた。


 別に、二人はべったりくっついていたわけでも、ニコニコと寄り添っていた訳でもない。


 いつも通りの立ち位置、いつも通りのふるまいなのに、なんとなく、二人の間の空気が違う。


 何を訊かずとも、言われずとも、神矢は察した。


 二人を交互に見、ははーんと笑って、一言、


「おめでと」


 とだけ言った。


 二人は顔を見合わせ、面(おもて)を耳まで真っ赤にして、


「な、何が?」


 と、一生懸命とぼけたふりをしていたが。


 そんな、年齢の割に初々しい反応も含めて思い出し、神矢はふふっと笑ってしまうのだ。


 ずっと二人の間でそれぞれの気持ちを聞かされていた身としては、奥手な彼らがようやく結ばれてくれたことを嬉しく思う。


 特に椿月のことは、彼女が劇場に来たばかりの暗い姿を知っている分、幸せになってほしいと思う。


 そんなことを考えながら視線を遠くにやっていると、通りの向こうからやってきた一台の高級車が、前の方でおもむろに停車したのが見えた。


 運転席に座っていた白手袋をはめた男が、二本の傘を携え、すぐに飛び出してくる。


 神矢には分かるが、遠目ながらあのうち一本の傘はかなりの品物だとうかがわれる。


 白手袋の運転手が後部座席の扉を恭しく開き、ドアの上に丁重に大きな傘を差し掛ける。もう一本の高そうな傘は、後部座席の主へと差し出されていた。


 これは果たしてどれだけの人物が降りてくるのかと、神矢が興味深く視線を奪われていると。


「えっ」


 差し出された傘を手に取り、車外に姿を見せたその男。


 仕立てのよい着物に、高級布地の長羽織を合わせたその出で立ち。


 そしてその顔は、神矢も見覚えのあるものだった。


 今まさに考えていた人物の顔。


 神矢は思わず駆け寄った。


「センセー?! 一体何やってんだ?」


 侍する白手袋の従者は、神矢に不審そうな目を向ける。


「お知り合いの方でしょうか……?」


 判断を仰がれた主が神矢に向き直る。


 その相貌は間違いなく、自分の知った人のものであるはずなのに。


「何か?」


 男は初対面の反応を示す。


 近い距離でじっと見つめ合ってみて気づく。


 同じ表情の乏しい顔でも、無関心から来るそれではなく、感情を読ませまいとするそれ。


 その目に宿る、研ぎ澄まされた刃のような、底の知れない冷たさ。その心の奥に、何を飼っているか分からないような。


 神矢はようやく人違いを理解し、さっと自分の態度を切り替える。


「……失礼いたしました。知人に似ていたものですから」


 俳優としての全力を出し、爽やかにそう伝え、ともすればひっ捕らえられかねない剣呑なその場から、素早く逃げた。


 背格好も顔も、誠一郎にそっくりだったのに。


 口を開いてみると、物腰や雰囲気がまったく違う。


 だが、よく考えてみると、あの男性は眼鏡をかけていなかった。近眼の誠一郎ではありえないことだ。


 しかし、それ以外は本当によく似ていたのだ。


 おさまりの悪い気持ちを抱えたまま、神矢はざあざあと雨脚を強くする街並みに姿を紛れ込ませて行った。











 雨が包む夕刻の劇場の一室に、一組の男女の姿があった。


 質素な袴姿の質朴(しつぼく)な眼鏡の青年と、化粧を施し、髪を整え、良家の子女を思わせる華やかな装いをした娘。


 青年の名は、深沢誠一郎。もはや駆け出しと称するには違和感のある仕事量を得ている、小説家である。


 そして、飾り気のない彼とはおよそ不釣り合いな、洗練された美しさを持つ娘は、この劇場で活躍する女優・椿月。


 この二人、前々から心の中で想いを寄せ合っていたのだが、ついに先日、相思相愛の関係と相成った。


 今日もまた、舞台の出番を待つ彼女の控室に、いつものように誠一郎が会いに来ていたのだった。


 以前は素の姿とは大きく印象の異なる役柄で舞台に立っていた椿月だったが、最近はほとんどこの姿のままで役を演じている。


 もともと演技力に定評があった椿月。彼女が等身大の女性として演じる姿もとても評判がよく、以前のような脇役ではなく、主役格で配役されることも多くなっていた。


 今日も、素の顔立ちを生かした自然な化粧を施され、リボンを飾り付けたつややかな長い黒髪を背中に流し、舞台衣装である牡丹色のワンピースに身を包んでいる。


 互いに忙しくなり、会う日がなかなか作れなくなっても、こうして短い時間だけでも、逢瀬を重ねていた。


 二人で過ごす時間はというと、口の上手くない誠一郎が彼女の話を静かに聞いていることが多い。


 頼りないだとか、男らしさに欠けると思う人もいるかもしれない。しかし、二人はそれを心地の良い過ごし方だと感じていたし、そうして一緒にいる時間をかけがえのないものと感じていた。


 そんな時、誠一郎が唐突にこう口にした。


「あの、もし良かったらなんですが……。僕の家族と会っていただけませんか」


 突然の申し出に、椿月はその目をぱちくりとさせて彼の顔を見つめる。


「家族と言っても、父が早くに死去したので兄が家督を継いでいて、今は一つ年嵩の兄が家長なのですが。ここから離れた都市に実家がありまして、兄が所用でこちらに出てくるそうなので、うちにも寄ると。良ければ椿月さんのことを紹介したいのですが……」


 普段、自分たちの過去の話はあまりしない二人。


 妙に仰々しい言葉を使って説明された家の事情や、誠一郎に兄弟がいたことも初耳だったが、何よりも。


「しょ、紹介っていうのは、その……」


 椿月は照れのような、困惑のような、喜びのような、なんともつかない表情でまごまごしてしまう。


「あ、いえ。その、そんなに深い意味では……」


 そういう反応をされるとは思っていなかった誠一郎も、つられてまごついてしまう。


 もちろん、誠一郎としては、深い意味もなくはないのだが。


「でも、その、一応……。宜しいですか?」


 濁す言葉に色々な意味を込めながら、改めて誠一郎が問うと。


「うん、分かったわ」


 椿月は決意するようにコクリとうなずいた。


 表情の出にくい誠一郎の顔にほんのりと、ほっとしたような感情がにじむのが分かった。淡々としているように見えて、彼なりに意を決して告げていたのだろう。


 それは椿月が彼のことをこれまでずっとよく見てきたからこそ、分かることなのだけれど。


 でも、なぜだろう。椿月は胸に不思議な気持ちを感じていた。


 家族に会わせたいという彼の思いは、嬉しい。


 嬉しいのだけれど、なんだか少し胸騒ぎがする。


 ドキドキとは別の種類の、形容しがたいモヤモヤした予感。


 嫌なことなんて、不安なことなんて、何もあるわけないのに。


 きっと、彼のご家族に会うことに緊張しているせいだ、と自分に言い聞かせる。


 ふいに黙り込んだ椿月に、誠一郎はおもむろに右手を伸ばした。


 無骨な指先が、桜色の愛らしい耳朶(じだ)に触れる。


 椿月は驚いて頬を染めるも、肩をすくめるまま、そのくすぐったい仕草を受け入れる。


 触れてくれることは嬉しいのだけれど、緊張してしまって。


 街中で逢瀬を重ねるときも、まさか往来で抱き付くというわけにもいかないが、会えば一回は互いの手に触れる。それだけで、以前の二人の関係からすれば大きな進歩だった。


 言葉はなくとも、愛おしそうにまっすぐ見つめてくる眼差し。


 見つめ返すと胸の高鳴りが激しくなって。先ほど感じた胸のわだかまりなんて、消し飛んでしまう。


 ずっと見つめ合っていたいとさえ思うのに。


 廊下がにわかに騒がしくなりだす。


 それを察知すると、誠一郎はすっと手を引っ込めた。


 賑やかになった扉の外から、舞台の準備の時間が迫っていることを感じとると、防寒のための厚手の羽織を手に取り、立ち上がった。


「頑張ってください」


 できるだけ優しく聞こえるように、そう椿月に告げると、誠一郎は部屋を去って行った。


 彼の手が離れてしまった名残惜しさと、彼のいなくなった部屋の寂しさを思い、彼の姿が見えなくなってからも、椿月はしばらくそのドキドキの余韻に浸っていた。











 一人帰路に就いた誠一郎。


 劇場の面する大通りは人通りも多い。眼前をいくつもの雨傘が上下している。


 兄からの便りが届いて以来ずっと言いたかったことを、今日はようやく椿月に伝えることができた。


 離れた都市に住む忙しい兄がわざわざこちらに来るというのだから、家族に会ってもらうのにその時ほどの機会はないだろう。


 まじめな誠一郎のこと、男女のその先にある結婚というものを考えていないわけがない。


 自分で良いのか。それが一番悩ましいことであった。


 美しく、可愛らしく、優しく、明るく、自分など到底釣り合いの取れない人気女優の彼女。


 だけれども、だからと言って誰かに譲る気など毛頭ないのも事実。


 実を言うと、同じくらい心に引っ掛かっているのは、椿月のかつての想い人のことだった。


 彼女がその悲しみで地元を逃げ出してしまうくらいショックだったという、その人との関係。


 当時まだ少女だった彼女の淡い想いとはいえ、その男に冷たく突き放されたからといって、すべてを捨ててそこを去ってしまうような思い出が、気にならないといったら嘘になる。


 皮肉なことではあるが、彼女がその悲しい出来事に胸を突き刺され、逃げ出し、ここにたどりついたからこそ、自分たちは出会えたのだけれど。


 おそらく今やすでに、ただの彼女の過去の一頁だということは分かっている。しかし、心のどこかに女々しく気にしてしまう自分がいた。


 だって、こうして恋人同士になった今だって、どうしてこんな冴えない自分を彼女が求めてくれるのか、まったく分からないのだから。


 さっきまで彼女に触れていた指先を見つめる。


 お互い、これまで自らの過去の話はあまりしてこなかった。


 だから、彼女にその過去について深く尋ねることはためらわれる。


 それに、自分も己の昔のことは積極的には話さないのだから、お互い様ではあったのだ。


 雨粒が傘を打つ衝撃を、手に強く感じる。


 雨の勢いが増しているのだろう。


 ついに兄がやってくる。


 その時には彼女に、これまでの自分のことを、自分の出自のことを、残さず話すのだ。


 空に敷き詰められた、鈍い色をした雲たちが見下ろしている。


 いまだ終わりの見えない冬の冷たい雨が、一帯を重く包み込んでいた。




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