第2話 ブコビィの企み

「あんた達はここで待ち伏せしてくれ。この街道を敵が逃げて来るからな」

「…………」


 チャガンの族長ブコビィはそれだけいい、さっさと馬を走らせて行ってしまう。


「あの野郎、いつからおれ達に命令するようなったんだ」


 そう言ったのはクイナである。だが話を持って来たのは確かにチャガンだ。ここでウダウダ言っても始まらない。とにかく目立たないようにして待ち伏せするしかない。


 狩猟でもそうだが、獲物を待ち伏せしている間は火を炊く訳にはいかない。どんなに寒くともじっと我慢しているしかないのだ。


 しかしいくら待っても敵は一向に逃げて来る気配が無い。


「タリウト、斥候を出せ」

「はっ」


 直ぐに数人の者が馬に鞭を当てた。

 斥候が行ってしまうと、また街道沿いの森に静寂が戻ってくる。鳥の鳴き声がたまにするだけの空間に、剣を携えた者達が息を潜め辺りを窺っている。



 そのまま半刻ほど過ぎた、


「隊長、おかしな事になってます」


 馬を飛ばして斥候が戻って来たのだが、


「戦闘はこの街道沿いとはかけ離れた場所で起こってます」

「何!」


 いつまで待っても敵が現れない訳だ。


「くそ、行くぞ」



 だがバルク達が駆けつけると、既に戦闘は終わっていた。

 その戦場跡は凄惨な状況でとても小規模な戦闘だったとは思えない。

 モルダビア公の側近がバルク達を指差している。そして少人数で、その上戦闘に遅参して来たバルク達を見るモルダヴィア公の視線は冷ややかなものがある。それでも幾らかの報酬は支払われる。

 この状況はバルク達にとって屈辱以外の何物でもない。逃げるようにしてその場を離れようとしたバルクやクイナの前にブコビィが現れ、わざとらしい大声を出す。


「なんだ、遅かったじゃないか。今頃のこのこと、何処に隠れて居たんだ」


 タタールの傭兵にとって戦場での逃げ隠れは万死に値する最も恥ずべき行為だ。


「この野郎!」


 今にも剣を抜きそうになっているクイナをバルクが必死になって止めた。


「よせ、モルダヴィア公の御前だ」


 なすすべもなく去っていくバルク達を見送り、ブコビィは側に立つ仲間につぶやく。


「これで奴らの評価は地に落ちたな」


 陰湿な薄笑いを浮かべるのだった。





「あのくそったれ野郎!」


 クイナが未だに叫んでいる。


「見返してやれ」


 隊長バルクの声だ。


「次の機会に奴の鼻を明かしてやればいいではないか」


 戦場からの帰途で馬を降り休ませていた時だったが、


「ん?」


 軍団が腰を下ろしている所は丘の中腹で、見晴らしの良い場所である。裾野は林になっていて細い街道が左右に伸びている。その時、皆の注意を引いたものがある。


「あれは?」


 見下ろす街道を馬車が何者かに追われて疾走しており、護衛らしき男達10人程が並走して敵を防いでいる。しかし追いつかれた者から順に切り倒されていく。その追っ手は護衛をする者の約3倍はいるだろう。


 バルクが叫んだ。


「馬に乗れ!」

「クイーー」


 そこまで言ったタリウトが振り向いた時、クイナは既に馬上で鞭を当てていた。先の屈辱を晴らすつもりなのか、一直線に丘を駆け下りていく。


「ウオーー!」


 野獣のような叫び声と共にクイナの剣が横に払われる。それはカミナリの一撃にも等しかった。一気に3人が切り倒されたのだ。追っ手は何が起こったのか分からないままに左右を見た。

 クイナは手綱を引くと、再び男達の中に切り込んで行く。


「クイナ、少しは残しておけよ」


 やっと追いついたタリウトの声だ。だがその声も届いていないのか、クイナは悪魔のような形相で次々と敵を切り刻んで止まる事を知らぬ。

 突然新たな騎馬軍団に襲われた敵は狼狽え、ついに馬車の追撃を諦め撤退していった。

 クイナは馬を降り、地面に両手を付いて肩で息をしている。この短時間で一体何人切ったのか。


 その後逃げていた馬車が見つかり、側に行くとドアが開いて妙齢な婦人が顔を出した。バルクが丁寧に声を掛ける。


「お怪我はありませんでしたか?」

「あの者達はもう……」

「大丈夫です。これでしばらくは襲って来ないでしょう」

「ありがとうございます。貴方達は?」


 我々はタタールの傭兵軍で戦闘からの帰りですと答えた。

 婦人はベネチア商人の娘で貿易商を営むラウラ・アレクシアと名乗った。出先から館に帰る途中であったと言う。そしてあの追っ手達には心当たりがないらしい。


 この時代ヨーロッパでは、社交辞令に加えて互いに氏素性を名乗り合うのが、初対面では分別ある者の礼儀であるとされていた。アウトローなどの無法者でない限り。自ら発信する以外に情報元の乏しい時代だ。この様な場面では尚更だった。

 現代のプライバシー云々とは少し違う世界である。特になぜかフランスでその傾向が強い。別に怪しい者ではありませんと互いに表明し合う訳だ。

 そしてそれ以上にマナーとしての自己紹介は中世ヨーロッパの終わり頃に確立され、特に欧米では現代に至るまでその作法が受け継がれている。


「お礼をしたいのですが。もしよろしければ今から私の館にいらっしゃいませんか?」


 婦人の館は此処から東に半日ほど走った所だと言う。甘く薔薇の香るようなその申し出を断る理由など何も無い。バルクはもちろん喜んで承諾した。

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