斎藤さんと私。――女子大生と幽霊サラリーマン

姿月あきら

第1話

 私には幽霊が見えるらしい。――ああ、待って! 引かないで欲しい。電波とか中二病とか、私はそんな頭が残念な人ではないつもりである。確かに夢見がちとか言われることもあるが、基本的にオカルトは苦手な方だし、結構現実主義者なつもりだし……。

「なあ」

 聞こえない聞こえない。誰もいない一人暮らしの部屋から男の声なんて聞こえるわけが無い。

「おーい」

 見えない見えない。スーツ姿の中年親父の姿なんて、見えるわけが……。

「おいって!」

「うるさいなあああ! 今絶賛現実逃避中なんで私にかまわないでくださいませんか!」

 私は絶叫した。そして、一瞬置いて後悔する。ああ、明日隣の部屋から苦情が来るかもしれない。ここは学生用のアパートなのだ。今まで近所づきあいは上手いことやってきたのに。


「……すまない」

 私が怒鳴りつけた相手は、半透明ながらしゅんとしてうつむいた。よれよれのグレーのスーツ姿で、見るからに疲れた様子の四十代ぐらいの見知らぬ男性。彼は幽霊らしい。……いや、私も初めは疑ったけど、何しろ半透明だし足とか見えないし、壁をすり抜けて見せたりするものだから、これがドッキリで相手がとんでもないマジシャンか、それかミスター○リックばりの魔術師でない限り信じざるを得ないじゃないか。

「いや、あのすみません。気にしないでください。ちょっと動転しちゃって」

「そうだよなあ。あはは」

 頭を掻きながら笑う彼は、「斉藤さん」と言うらしい。私が大学から帰ってくると、何故かアパートに居たのだ。先週実家から送ってもらったばかりのベージュのソファの上でふよふよと浮いていたものだから、私はその場で卒倒しかけた。いやむしろ卒倒してしまいたかった。そして次に気がついたら全ては夢だった、というオチだったらどんなに良かったか……。しかし私はその場に固まったまま、申し訳なさそうに笑う彼を見つめることしか出来なかったのだ。



「……で、どうしてここに居るんですか?」

「それが分からないんだよねぇ」

 私の質問に、彼は心底申し訳なさそうに呟いた。

「いやね、気がついたらここにいたんだよ。出て行こうとしても、出られないんだ」

「へ!?」

 驚愕した私の顔に、斉藤さんは苦笑いする。

「まあ、見ててくれないか」

 斉藤さんはふわり、とその場から浮いて漂い、壁を抜けて行こうとする。すると、上半身が壁に飲み込まれて見えなくなったところで、その横からずるり、と人の頭が出現した。

「ひいっ」

 それはやっぱり斉藤さんの頭で、彼の中肉中背の体が半分ずつばらばらになったように見えた。なかなかキモチワルイ光景である。それでも体が半透明だし血なんかも無いので、スプラッタな光景ではないだけマシかもしれない。

「な?」

「な? じゃないですよ!」

「いやー。あはは」

「……」

 じと目で睨む私に、斉藤さんは頬を掻いた。

「すまないね。俺にも何が何だかさっぱりなんだ。確かに死んだはずなんだが」

 私は彼の口から出た「死」という単語にびくりとした。やっぱり彼は幽霊なのだ。ということは、人は死んだら幽霊になるのか。ふむ、大発見。

「えーと、それじゃ私に恨みがあるから呪い殺しに来たとか、そういうわけじゃないんですね……?」

「まさか。そんなホラー映画じゃあるまいし!」

 そう笑う斉藤さんはフローリングの床から数センチほど浮いていて、ホラー映画よりずっと現実離れして見える。むしろコントや喜劇みたいな……。――やっぱり夢じゃなかろうか。私は指で思い切り自分の手の甲をつねってみたが、凄く痛いのですぐやめた。

「なあお嬢ちゃん」

「……柑菜かんなです」

「柑菜さん。ちょっと話を聞いてくれないか?」

 私は余り気が乗らなかったが、聞かないとなんだかかわいそうな気がして、とりあえず了承した。

「じゃあちょっと、近くのコンビニで夕飯買ってきて良いですか? 話はそれからで」


 しっかりと鍵を閉めて、アパートを後にする。外はすっかり暗くなっていた。コンビニは歩いて三分程度で、私が普段週三で夜バイトしている場所だ。ドアを開けると、見知った顔がレジに居た。

「いらっしゃいませー」

 後輩の女の子で、確か高校二年生ぐらいのはずだ。私に気がつくと、彼女はぺこりと笑顔で会釈をしてくれた。少しだけ現実世界に戻ってこれたような気がして、ほっと息をつく。適当なお弁当を選んで、レジに向かう途中ではっとした。――幽霊って御飯食べんのかな? いやいや、さすがにそれは無いだろう。透明なくらいだし。私は頭を振ってよくわからない思考を振り払った。

「お願いしまーす」

 レジに商品を出して会計を待っていると、後輩ちゃんが私を見て首をかしげた。

「四百四十円になります……柑菜さん、なんか疲れてます?」

「え? うーん、色々あってねー」

 まさか家に幽霊が居たとは言えないので、適当にごまかす。彼は今も私の部屋でふわふわ浮いているのだろうか。



 アパートの自分の部屋の前で、私は一つ深呼吸した。もし今ドアを開けて部屋に誰も何もいなかったら。そしたらさっきのは夢だ。それか幻覚だ。もし幻覚だったらそれはそれで問題かもしれないけど……。

 がちゃり、とドアを開けて、小さめに「ただいま」と呟いた。脱いだ靴をそろえて、リビングに足を踏み入れる。

「おお、おかえりなさい」

 やっぱりというか残念ながらというか、そこには笑顔の斉藤さんが居て、彼は何故かテレビを観ていたのだった。

「ああ、やっぱり夢じゃなかった……というかなんでテレビ観てんだこの人なんで普通に馴染んでんだよおお」

 頭を抱える私に斉藤さんが頭を掻く。

「あ、勝手に付けちゃまずかった? ごめんごめん」

「いや、あの、別に構わないですけど……というか、どうやって付けたんですか?」

 彼の体は透けていて、壁を通り抜けてしまう。ということは、リモコンのような物を持ったりすることも出来ないはずである。


「なんだかね、『テレビ付け』って強く念じたら、付いたんだよね。面白いなーこの状態」

 自分で自分に感心したように言う斉藤さん。なんだかとても普通だ。普通のおじさん。私の父よりちょっと若いくらい。彼はどうして幽霊になって、しかも私のアパートに居るんだろうか。

 テレビではバラエティ番組がやっていて、最近人気の芸人が見飽きたギャグを連発していた。スタジオの笑い声が静かな部屋に響いて、今までになく不自然に聞こえた。


 小さなテーブルに買ってきたお弁当と冷蔵庫から出した麦茶のペットボトル、それに硝子のコップを置くと、私はとりあえず夕飯を食べることにした。横で見てる斉藤さんにはなんだか悪いけれど。

「……自炊はしないのかい?」

「いつもは作るんですけど、今日はそんな気にならなくて」

「そうか……野菜はしっかり食べなきゃ駄目だぞ」

「はあ……」

 彼は自分の娘にもこんな風にしゃべるんだろうか。温めてもらうのを忘れた冷たい御飯を口に運びながら、私はぼんやりそう考えていた。そういえば、このまま今夜斉藤さんはここに居るのだろうか。そしたらお風呂とか着替えとかどうしようか。別に、襲われるとかそんな心配は……ないのか?

「……」

 黙ったままお弁当を平らげていく私の横で、斉藤さんはテレビを見つめていたり私の様子を見たりしていた。やはり何か彼にも御飯的なものを買ったほうが良かったろうか。いやでも御飯的なものってなんだ。

「斉藤さんは、子供とかいます?」

 とりあえずずっと無言なのも気まずいので、声をかけてみる。

「いや、ずっと一人身だよ。寂しいおじさんさ」

「……なんかすみません」

「いやいや、気にしないでくれ。両親ももう亡くしているし、親族は兄貴ぐらいかな。でももう十年は会ってないなー。あまり気が合わなくてね」

 淡々と話す斉藤さんは、何でも無いような顔をしていたが、その目は寂しげに見えた。私はお弁当の最後の唐揚げを口に入れて、麦茶を飲み干してから、その場で姿勢を正した。幽霊といえど、年上の人の大事な話は心して聞くべし。テレビを消そうとリモコンに手を伸ばすと、斉藤さんは首を横に振った。

「テレビは付けておいてくれ。無音だとちょっと寂しいだろう」

「……はあ」

 私は伸ばした手をその場に下ろして、そのまま斉藤さんの話に耳を傾ける。彼はやっぱりふわふわ浮かんでいた。

「俺ね、いわゆるブラック企業に勤めててね」

 ――いきなり重い!! 自殺話ですか!?

「残業代も出ないのにハードワークだし、いい年して家族もいないし。死のうと思って」

 ――やっぱり。

「今朝駅のホームから飛び降りようとしたんだけどね……やっぱり怖くてね。それに、人間やっぱり生きてこそだよね。うん、そう思ってね、だから自殺はやめようと決めたんだ。あ、じゃあなぜ死んだのかって思ってる? だよねえ」

 斉藤さんは私の顔を見て肩を竦めてみせた。

「それがね、そのまま会社に行こうと横断歩道を歩いてたら、信号青だったのに急に車が飛び出して来てね」

 彼の言葉から先の展開が予想できて、ぞっとした。

「凄い音がしたのは覚えてるけど、そっからは分からないんだ。気がついたらここで浮いてたんだよ」

「……轢かれちゃった、んですかね」

「そうだろうね、きっと」

 それから私も斉藤さんもしばらく黙っていた。その間、テレビから不自然な笑い声だけ流れてきて、とても耳障りだった。それでも、何の音も無いよりは良かったかもしれない。テレビを付けたままにしろと言った斉藤さんは正しかったのだ。

「死のうとしても死ねないのに、生きようと決心したとたんにこれだからね。嫌になっちゃうねーまったく」

 ははは、と乾いた声で笑う斉藤さんは、最初に見たときより老け込んで見えた。この人は一体本当はいくつなのか。もしかしたら思っているより若いかもしれない。



「……これから、どうするんですか?」

 意を決して尋ねると、彼は困ったように笑った。

「とりあえず、君にこのまま迷惑かけるわけにもいかないし、成仏? 出来る方法を探すしかないだろうね」

「成仏……」

 なんだか、本当に小説とか二時間ドラマとか、そんな中でしか見たことの無い状況に、今私は置かれていた。それじゃあやっぱり、成仏する方法もそんなフィクションな話と同じなんだろうか。

「『もう一度あの人と会いたい』とか『あの景色を見たい』とか、そういう心残りは……?」

「特に無いんだなあ」

「そうですかー……」



 話がひと段落すると、私は弁当ガラや麦茶のコップなどを片付けて、机の上のノートパソコンの電源をつけた。明日提出のレポートを完成させなければならない。それに、斉藤さんの事故について、調べてみようと思った。

「宿題かい?」

「ええ、まあ」

「悪いね、こんな風に君の生活を邪魔して」

「いえ、なんというか……斉藤さんが望んだことじゃないし」

 苦笑して言うと、彼も苦笑した。なんというか、とても切なくなった。自分で自分が「死んでしまった」と分かるのって、どんな気分なのだろうか。やっぱり悲しくて、つらいのか。それとも、意外と落ち着いているのだろうか。彼がここを動けないなら、私も彼が成仏するのを手伝うべきかもしれない。これも何かの縁だろう。

「ああ、でも明日会社に行かなくて良いのは嬉しいなあ」

 背後から聞こえてきたこの言葉だけは、本当に嬉しそうに聞こえた。



 夜の十一時。ほとんど昨日までに終わりかけていたレポートの最後の仕上げを終えると、私は椅子に座ったまま、ソファでテレビを観ていた斉藤さんを振り返った。

「なんだい?」

「フルネーム、漢字で教えてくれませんか? 事故のこととか、調べた方が良いと思うので」

「……ああ、そうか。ありがとう。『斉藤のぼる』だよ。上昇の『昇』でのぼるだ。斉藤は一般的な漢字で」

 私は言われたとおりの名前と「交通事故」とキーワードを入力し、ウェブ検索をかけた。ずらり、と検索結果が出てくるが、なかなか斉藤さんの記事は見つからない。

「死体とか墓とか、どうしたんだろうなあ。やっぱり兄貴が骨を引き取るのかなあ……葬式はやらないだろうし」

 後ろでぶつぶつと呟く斉藤さんは、とても現実的なことを考えていた。それが逆に非現実的に思えて、不思議な気分だ。

「…………あった」

 とてもとても小さな記事。速報で、酔っ払い運転によって引き起こされた不幸な事故が載っていた。被害者男性の名は斉藤昇。三十七歳。都内建設会社勤務。運転手はどうやら重体らしい。他にはこれといった情報は載っていなかった。事故現場は都内某交差点……大学から近いし、明日行ってみるか。

「なんだか変な気分だなあ……こうして自分の死亡記事を読むなんて」

 私の背後から身を乗り出して液晶画面をしげしげと見つめる斉藤さんは、なんだか面白がっているようにも見えた。



「いやいやいや」

「いやいやいや」

「いやいやいやいや」

「いやいやいやいや」

 深夜の十二時、私と斉藤さんは押し問答をしていた。

「俺には構わず柑菜さんは寝なさい。明日も学校があるんだろう」

「大丈夫です! 起きてます!」

 見知らぬ男(幽霊)がいる中で、のんきに寝られる人がいたら見てみたい。私の表情から何を感じ取ったのか、斉藤さんはトンと自分の胸を叩くしぐさをして見せた。

「大丈夫! 君が着替えるときは目をつぶっているし、寝るときは離れたところで浮いてるから」

「それめっちゃ気になりますって!」

 思わず大声を出してしまって、慌てて自分の口を手で押さえた。大家さんや隣の人から怒鳴り込まれたらどうしよう。斉藤さんって他の人にも見えるのだろうか。見えなかったら言い訳出来ないなあ……。というか、私の声だけ聞こえてたら、一人で騒いでいるように聞こえるのか。凄く不本意。

「でもなあ、外に出て行くことも出来ないし」

「いや、気にしないでくださいよ。今夜くらい私起きてますから」

「いやいや、若い娘さんの睡眠時間を俺のせいで削るなんて出来ないよ!」

「……」

「……」

 議論は平行線をたどる。私はため息をついてとりあえずテレビを消した。節電である。

「斉藤さんは眠くないんですか?」

「ああ、なんだか眠くないね。死んだからかな。君は?」

「……正直眠いです」

「じゃあ寝なさい。食と睡眠は生きる糧だからね」

 なんとも重みのあるお言葉だ。でも眠れない斉藤さんの横でぐーすか寝るというのも、少しというかとても申し訳ない。私は机の中から小さなラジオを取り出した。

「じゃあ、一緒にラジオでも聴きませんか? 最近はまってるんです。そのうち勝手に寝ますから」

「……君がそう言うなら」

 私は中学時代に親に買ってもらったラジオを机の上に置いて、最近たまに聴いているFMの音楽番組に周波数を合わせた。時間的には今始まったばかりのはずだ。軽快な音楽とともにパーソナリティの男女の楽しげな会話が流れてくる。私は音量を調節すると、着替えもせずにベッドにもぐりこんだ。明日の着替えをどうするかは、明日の朝考えよう。斉藤さんは、ベッドの向かいにあるソファの上で浮いている。

「懐かしいなあ、俺も中学生のとき、受験勉強しながらよくラジオ聴いてたよ。最近は全くだったな」

「どんな番組聴いてたんですか?」

「お笑い芸人のラジオとかね。ヘビーリスナーで、何度かハガキも出したんだけど、結局読まれたことはなかったなあ。俺、笑いのセンスは昔から無かったから」

 しみじみと言いながら、斉藤さんはラジオに聴き入るように目を閉じた。

 それからは、しばらく黙ってラジオを聴いていた。好きな曲が紹介されると、口ずさんだり、ちょっとだけ大学の話をしたり。だけど、斉藤さんはあまり自分のことをしゃべらなかった。あまりしゃべりたくないのかもしれないから、私からは何も言わないことにする。



 ふわあ。思わずあくびが出て、手で覆った。壁の時計を見やると、夜中の二時。ラジオ番組はすでに違うものに変わっていて、あまり知らないタレントがトークをしながら時折懐メロを紹介していた。もう寝てしまおうか。斉藤さんが無害なことは、この数時間をともに過ごしてなんとなく分かったし。毛布を被ったままそっと斉藤さんを盗み見ると、彼は目を閉じたまま静かに泣いていた。

――……。

私はそのまま何も見なかったように、寝返りを打って壁を向いて目を閉じた。どうかすぐにでも斉藤さんが安らかに成仏できますように。私にはそう願うことしか出来なかった。




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