あなたが生きてみたかった

くもの すみれ

第一話 あなたが生きてみたかった

 どうしても一緒に居たかった。朝、目が覚めるでしょう。一番に思うことが貴方ではなかったとしても、貴方が同じ部屋にいてくれることを確認して安堵感を覚えてみたかった。昼間はベランダに出てプランターに何を植えたか覚えてもいない枯れた生命を見て、反省しながらも、夏の入道雲や春の霞んだ青空を堪能していたかった。隣には貴方が居て、綺麗だねと問いを投げかけると貴方は決まって同じ台詞を返すだけで、だから私はいつまで経っても焦ったくて、そういうヤキモキした上手くいかない現実を貴方と愉しんでみたかった。

 願いは妄想じみていて常に物語でしかなかった。私が思い続けた年数は、貴方が全く別の人生を謳歌することで成立していった。好きだと告げる機会すら持てぬまま、私は日々成長していく年齢と感情を憂いては必死に愛そうと試みた。


「三十二年間、無駄に生きながらえてきた気がするから、だからこれでおしまいだと神様に今すぐ言われても、私は多分受け入れてそれであぁもうおしまいなのかと納得出来ちゃう。」


 青嶋なな。両親はとても穏やか且つ優しい眼差しを私に送り続けて育ててくれた。高校も大学も、将来を私は強要されることはなく、自分本位でいいのだと伸び伸びとした環境で、のんびりと私を確立していった。四年制の大学に通い卒業し、就職した先の会社ではもう中堅扱いをされるようになっていた。

 今日も一人で目が覚めて、起きた先には誰かがいるわけではない部屋で、珈琲を飲んだ。ブラックでも苦味など抵抗感はない。不味いとも感じることはなくかった。


「三十二年間、そうやって生きてきたの。お母さんもお父さんも私を健やかに育ててくれたはずなのに、何にも縛られず、自由であったはずなのに、今の私は、雁字搦めの状態なのだと思う。」


 恋をした。高校二年生の春だった。相手は学年のみんなから人気のある生徒だった。接点など特になく、卒業をするまでの間まともに会話することさえなかった。それでも勝手に恋を始めていた。手を繋ぎたかったし、キスやハグだってしてみたかった。名前を呼ばれたりした日には、嬉しくて、トイレの便器の上で歓喜の雄叫びをあげてしまうかもしれないとすら、思った。

 ベランダに出て、プランターにまだあった枯れた枝のようなしなしなとした物体を眺めた。私だっていつかこうやって、誰かに見つけてもらうこともなく、朽ち果てて、綺麗だねと言い合ってみたかった空の一部になってしまうのだろうか。だとすると、私の両手の中には特別な宝物は全くなかった。失うものが無いというのは実に悲しく、そして無敵にもなれる。でも、一番弱っちいのだ。

 夏がもうすぐそこまで迫り来ていた。雷雲が、刺激を大地に突き落とし、何かを強奪しては恐怖を植え付けていく。このプランターにも雷は落ちるのだろうか。そうした先に新しい生命が芽吹いたりするものなのだろうか。

 分からないことを、必死に考えた。そうしなければ、虚しくてむなしくて、涙が零れ落ちそうだったからだ。


「三十二年間、一人でそうやって生きてきたから、一人の痛みが十分に分かってしまうんだね。」


 そうだね。そうなんだろうね。言葉は返せなかった。後ろを振り向いてしまったら、何かが始まって終わってしまう気がした。

 私の肩にポンと軽く誰かの体温が触れた。聞き馴染みのない声音は、豚の角煮みたいにトロトロとした柔らかさを蓄えていて、私は無性に苛立ちを覚えた。怒りに似た衝動のまま、抵抗しようとしていたくせに、あっさりと顔をむけてしまう。するとそこには、私が飲んでいたブラック珈琲の注がれたマグカップを持って、鼻先をくんくんと動かし、それでも私を確実に捉えていた。彼がいた。


「青嶋なな。」


 真っ黒な髪が、梅雨の終わりの生温い風にゆらゆら揺れて。それでも彼は笑ってる。あの頃の、あの記憶のまま、あまりにも鮮明によく出来た幻覚だと思えた。恐る恐る手を伸ばし、自身の右頬をありったけの力を込めて抓った。


「いたい。」

「うん、痛そうだ。」


 目の前に彼がしゃがみ込む。制服のワイシャツ、ネイビーとちょっとくすんだ青のストライプ柄をしたネクタイ、グレーのズボン。私が三年間見続けた制服姿のまま、彼がいた。


「どうして。」

「さて、どうしてだと思う。」


 謎かけはやめて。口にしようとしたが、意識は彼と初めて会話をしたことに夢中となり、感情は正直なもので高揚していくばかりだ。


「分からない。」

「分からないだろうね。だって君は、もう、僕と同じ境界線にいる。」

「なあに、それ。どういうことなの。」

「三十二年間、君は生きていたんだ。人生ゲームでいう、ゴール。それが君は三十二年間だったわけだ。僕は十七年間。つまり、君は。」



 もう歳は取らないんだよ。

 

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