嗚呼、愛しのナンドリーナ

蒼井 るり

第1話 黒い天使とピンクの白菜

ここはどこだろう……。

 見知らぬ街の公園の入り口で、僕はただ茫然としていた。

公園の入り口は半円のすり鉢状になっていて、3段ほどの階段に囲まれていた。反対側の入口からは、階段を上ってこのすり鉢の上に出るようだった。

 階段や、植え込みの周りには待ち合わせらしき若者と、ハンバーガーにかぶりつく外国人が数人いるぐらいだ。

 僕は半円のちょうど中央、階段の2段目にゆっくりと腰を下ろした。二月のコンクリートは氷の様で、酔っぱらって火照った身体に冷気が這い上がって頭がしゃきっとした。

 重い頭を重力のまま反らせると、星ひとつ見えない都会の夜空が広がっている。この夜空は東京といた頃とかわらない。なぜか切ない気持ちになって、ため息を吐く代わりに大きく深呼吸をひとつした。

 その時だった。

 

 ……何かが僕の横を通り過ぎた。

 

 すべてがスローモーションで、その人がふわりと空中に浮かんでいるように見えた。

 正しくは階段の上から飛び降りてきたのだが、僕には本当にそう見えたのだ。

 赤いチェックのスカートがひらりとゆれ、腰と手首に巻いている太い鎖がシャラリと鳴った。

首には黒い革の首輪が光って、漆黒のエナメルみたいに綺麗なショートの髪が、透き通りそうなぐらいに白い肌の上になびいている。

 大きな目にすっと通った鼻、真っ赤な唇……。すべてが強く美しく、そしてそれとは反対に触れたら壊れてしまいそうな儚さを湛えていた。

 僕は思った。黒い天使だと。黒い天使が僕の前に舞い降りたのだと。

 黒い天使は地上に舞い降りると、突然僕をじっと見つめた。いや、訂正すると鋭い目で睨んだ。

 石炭のように真っ黒な瞳が、今にも僕を飲み込んでしまいそうにこちらを見ている。メデューサに睨まれて、石になったみたいに動けなくなった。

「リーナ!!」

 今度は男の声が公園に響いた。黒い天使は僕から目を離すと、声の方を向いた。

 リーナという名前に反応したということは、これが天使の名前なのだろうか。リーナというからには日本名ではなさそうだ。日本人離れした美人だし、もしかしたらハーフか外国人なのかもしれない。

 ドカドカと靴音を響かせながら、ピンクの髪が重力を無視した様に立っている、長身の男が階段を降りてきた。口のピアスから鎖が伸びていて、鼻とつながっている。

「しつこいねん。お前とはもう終わった」

 天使はその風貌からは想像できない、ハスキーな声で吐き捨てるように言った。日本語がうまいところを見ると、外国人ではなさそうだった。それとも、長い間日本に住んでいるのだろうか?

「納得いくか! ライブ始まる前は好きって言っとったやないか!」

「せやから、ライブ始まる前は好きやったんや! 何度も言わせるなや!」

 天使はポケットから煙草を出すと火をつけて吸い込み、勢いよく煙を吐いた。

「1年間付き合って来たやろ! なんで急にさよならやねん!」

 男の言葉に天使は舌打ちをして、なおも煙草の煙を吐く。

 そして、天使が突然僕を見た。

「こいつ」

 天使はおもむろに僕の方を指さした。

「ちょっと前に知り合ってこいつが好きになった。今も待ち合わせしてたんや」

 突然の天使の言葉に息が止まった。今天使はなんと言ったのだろうか。

「え? あの……」

 とりあえず聞き返してみる。もちろん返ってくる説明の言葉はない。

「ホンマに言うてんのか?」

 ピンク頭の顔がみるみる怒りにゆがんでいく。これは何かマズイ気がする。

「ホンマや!」

 天使は僕の方へヅカヅカと歩いてくると、ネクタイを掴み、その細い体からは想像できない強い力で、グイッと引っ張り、無理やり立たせた。

「ちょっちょちょ……」

 そう言うのが精いっぱいで気づくとピンク頭の真ん前まで連れて来られていた。

「なんだよ、こいつは」

 もうあと数秒で完全にキレそうなピンク頭が、鋭い目で僕を睨みつける。ピンク頭は革ジャンを着ていたが、その上からでもわかるぐらいに筋肉質な体つきをしていた。一発でも殴られたら、どこかに吹っ飛ばされそうだ。

 恐怖が一気に僕の足元から駆け上がり、体が震えはじめた。

「いいいいい、いや、あの、ぼぼぼぼぼぼくは……その」

 もう声も震えてうまくしゃべれない。極限の恐怖状態に立つと、本当に人はこうなるものなのだ。

 天使はテンパってる僕の横にやってきて腕に絡みついた。

「うひゃわぁっ!」

 声にならない声があがる。

「いいから、人助けやとおもて恋人のフリしろ」

 耳元でそっと天使がつぶやいた。そんなことできるわけない。

「どういうことや、リーナ! こんなもやしみたいな男のどこがええねん!」

「もやし……」

 もやしと言われたことは許しがたいが、とても言い返せるような相手ではなかった。

 天使はさらに僕の耳元でささやく。甘い、キャンディーの様な香りが僕の鼻孔をつく。

「勘違いピンク有毒白菜野郎に言われたくないって言え」

「ええっ! でもほら、相手の方怒ってるし、ここは穏便に話し合いで……」

 天使は僕の背中を思い切りつねった。鋭い痛みが体を走り、僕は体をよじった。

「はあぁぁあ……いた……痛っ」

「いいから言え!」

 なぜか天使の声は逆らえない不思議な魔力が宿っていた。

「かかか勘違いピンク……」

 セリフを忘れてちらりと天使を見る。

 天使はまた囁く。

「有毒白菜野郎に言われたくない」

「ゆゆ有毒白菜野郎にいいい言われたくななななぃですぅ……」

 尻すぼみでしかも敬語になった。それでも精いっぱいの僕の勇気を称えて欲しい。

「上出来だ、もやし」

 天使は助けてあげた僕をもやし呼ばわりして前方に突き飛ばすと、とどめに背中をドンと蹴った。天使の厚底ブーツが背中を捉え痛みが走る。それと同時に前につんのめり、僕がよろめいたのと同時にピンク白菜野郎のパンチが顔面をとらえた。

 バキッといい音がして頭の中に白い閃光が走った。


 ……痛い。


 口の中に血の味が広がっていく。鉄分、補給完了。

「そんな性悪のアバズレ女、お前にくれてやる!」

 ピンク頭は一発殴ってすっきりしたのか、捨て台詞を吐いて階段を上っていった。

「荷物、今度取りに行くわ!」

 天使はその後ろ姿に能天気に投げかけた。

 ぐらぐらする頭をなんとか持ち上げて、まだピントの合っていない目で天使を捉えた。天使は、短くなった煙草を地面に投げつけ足でもみ消し僕を見た。

 さっきの出来事が走馬灯の様によぎり、まだ何かされそうで恐怖心でいっぱいになった。僕は近づいてくる天使から逃げようと後ずさりした。だけど、天使はどんどんとその距離を詰めてくる。階段の隅まで追い込まれ、ついに僕は行き場をなくした。

 天使はしゃがみこんで僕の頭を両手でつかむと、勢いよく頭突きしてきた。ゴンと鈍い音が頭の中に響いた。

 痛い……。

 おでことおでこを付けたまま見つめ合う。

 不適な笑みを浮かべて天使は言った。


「たこ焼きおごれ」

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