第217話 最後の希望
文化祭の準備は順調に進み、悠斗の給仕も蓮曰く「及第点だな」となった九月の半ば過ぎ。直哉と桜が再び悠斗の家に遊びに来た。
前回と同じように悠斗はリビングで直哉の悩みを聞き、美羽は桜と悠斗の自室で談笑している。
「家には誘ったのか?」
「ああ。喜んでくれた、と思う」
「何か微妙な言い方だな」
嬉しくはあるものの、素直に喜べないという風な表情の直哉に苦笑を零した。
直哉としては真剣に悩んでいるようで、形の良い眉が歪む。
「ずっとそわそわしてたし、話し掛ける度にびくびくしてたんだぞ。最後に『また来たい』って言われなかったら完全に失敗したと思ってたんだからな」
「仕方ないんだろうけど、ここまで勘違いするか……」
桜は単に好意を持っている男子の部屋に来た事で、緊張していただけのはずだ。
しかし、直哉には桜の心の機微がよく分からなかったらしい。
おそらくだが、茉莉を家に呼んだ際、茉莉は桜のような態度を取らなかったのだろう。
流石に我が物顔ではないと信じたいので、全く緊張せず興味を持っていたと思う事にする。
「それで、学校の方は?」
「俺の方はもう大丈夫だな。桜も一緒に居てくれてるし、平和だよ」
「それなら良かった」
どうやら、直哉の立場は完全に回復したようだ。
それは同時に、茉莉の立場が墜ちきった事を意味する。
しかし、悠斗も直哉もそんな暗い話をするつもりはない。
「でも、桜の事を完全に勘違いされてるんだよ。桜に聞いても『他人に何を言われても良い』って言われて、どうしたらいいか分からないんだ」
「……これ、いっそ全部バラしてもいいんじゃないか?」
人の事を全く言えないが、悩みのようで惚気ている直哉に、全て伝えたくなってしまった。
流石にそれは余計なお世話なので抑えるつもりだが、呟くくらいは許して欲しい。
そんな悠斗の嘆息は聞こえていなかったようで、直哉が惚気だす。
「この前も――」
長い話になるなと、覚悟を決めて直哉の言葉に耳を傾けるのだった。
直哉と話すだけで終わるかと思ったのだが、話が一段落すると二階に呼ばれた。
そして直哉に男向けの小説を紹介する事になり、意外にもそれが盛り上がる。
そのせいで時間はあっという間に過ぎていき、お開きとなった。
今回は直哉が拗ねる事もなく、桜と共に笑顔を浮かべている。
「今日も楽しかったです。ありがとうございました!」
「ありがとう。いろいろ読んでみるよ」
「無理して読むとつまらなくなるから、程々にな」
「そうそう。読みたい時に読めばいいんだよ」
「分かった。それじゃあ――」
直哉が別れを告げようとすると、隣の家の扉が勢い良く開いた。
この場に居る人の誰もが会いたくないと思っていた人物が、慌てたように出て来る。
「直哉!」
元幼馴染――茉莉がどこか必死さが見える笑顔で直哉を呼んだ。
直哉はというと、一瞬で先程までの柔らかな雰囲気を消し、茉莉を見据える。
「何か用か?」
「ねえ直哉、私ともう一度付き合わない?」
「……はあ?」
直哉の口から、苛立ちのこもった声が零れた。
自分の立場を散々なまでに落とした女が
あまりにも無茶苦茶な要求に、思いきり溜息をつく。
美羽はというと、絶対零度の瞳で茉莉を眺めていた。
「今更何を言ってるんだ? 散々嘘の悪評を言い触らしておいて、また付き合うだって? 冗談も程々にしてくれ」
「あれは悪かったと思ってるの! 私には直哉しかいないんだよ!」
悪かったと思うのなら、それなりの態度というものがあるはずだ。
少しも反省の色が見えない懇願に、直哉ですら大きな溜息つく。
「……それが何か? どうせ男子にすら相手にされなくなって、俺に
「それは違う! あいつらが全然私の事を分かってないんだよ!」
居ても立っても居られないのか、茉莉が篠崎家の門を出る。
「いろんな男と話して、直哉が一番私の事を分かってくれるってのに、ようやく気付けたの!」
まくし立てるように告げつつ、茉莉が芦原家の門に触れた。
それ以上は入らせないと、二人の間に割り込んで門の鍵を閉める。
唐突に割って入られた事で、茉莉が憤怒の形相で悠斗を睨んだ。
「何するのよ!」
「ここから先は俺の家だ。他人は入れられない」
「私はあんたの幼馴染でしょ!?」
「さあ? 彼氏を平気で貶め、自分の立場が悪くなったら縋りつくような幼馴染なんて、俺は知らないな」
「意味分かんないわよ! それに、あんたには関係ないじゃない!」
怒りで顔を真っ赤にする茉莉は、一見すると怖いのかもしれない。
外見だけは美しく、確かな迫力があるのだから。
しかし、悠斗の心には少しも響かなかった。
「お前が何を言おうと、ここを開けるつもりはない。話したければそこで話せ」
「ああもう! 話の分からない男ね! あいつらと一緒じゃない!」
「勝手に言ってろ」
もう話す必要もないと、茉莉に背を向ける。
「悪いな、直哉」
話を脱線させた事を謝罪すれば、直哉が表情を緩めて首を振った。
「いいや。これではっきりしたから、むしろありがとうだ」
「なら良かった」
直哉と桜の横を抜け、美羽の元に戻る。
愛しい恋人は、今にも爆発しそうな怒りをはしばみ色の瞳に秘めていた。
しかし割り込むつもりはないようで、拳を震える程に握り締めている。
優しい恋人の頭を一撫ですれば、美羽の目つきが少しだけ穏やかになった。
悠斗が引いた事で、直哉と茉莉が改めて向き合う。
そして、直哉が大きく息を吸い込んだ。
「篠崎、俺はお前と縒りを戻すつもりはない」
「……どうして?」
先程否定されたにも関わらず、まだ望みはあると思っていたようで、茉莉が瞠目する。
我儘過ぎる女の態度に、直哉が肩を落とした。
「俺の友人を
「だって、それは皆が私を分かってないからで、直哉は――」
「その考えが既に間違ってるんだよ。……もういい。伝えたい事は伝えた。そこを退いてくれ」
話が通じないと悟り、直哉が帰ろうとする。
しかし、茉莉は芦原家の門を掴み、髪が乱れる程に大きく首を振った。
「嫌ッ! 直哉がもう一度付き合ってくれるまで、ここに居るから!」
「はぁ……」
駄々を捏ねる子供より質の悪い姿に、直哉がこめかみを手で抑える。
ここに居られると悠斗としても迷惑なので、今すぐに退いて欲しい。
どうしたものかと頭を悩ませていると、今までずっと黙っていた桜が一歩踏み出した。
「貴女は直哉先輩がどれだけ苦しんだか、知ってるんですか?」
不自然なまでに平坦な声が、茉莉へと向けられた。
今まで全く意識していなかった人からの叱責に、茉莉は不快そうに目を細める。
「何よあんた。というか、直哉を名前で呼ばなかった?」
「そんな事はどうでもいいんですよ。ねえ篠崎先輩。嘘の噂を流されて、直哉先輩がどれだけ苦しい思いをしながら学校に通っていたか、知ってるんですか?」
「だから、それは悪かったって――」
「それは謝罪なんかじゃない!」
おそらく、ずっと怒りを押し込めていたのだろう。
空気を引き裂くような声が、茉莉の言葉を掻き消した。
突然怒鳴られた事で、茉莉が目を瞬かせる。
「何を言って――」
「何日も何日も何日も! 直哉先輩は逃げるように図書室に来て、今にも消えそうなくらいに沈んだ顔をしてたんですよ!」
それは、桜から見た当時の直哉の姿だ。
桜しか知らない、大切であろう思い出を、目の前の敵へとぶつける。
「私が話し掛けても全く笑ってくれなかった! だから何度も何度も話して、ようやく笑ってくれたんですよ!」
その時の事を思い出したのか、桜の悲痛な声が震えた。
一瞬だけ桜が俯いたものの、言葉は止まらない。
「それほどまでに、直哉先輩は傷付いたんです! そこまで追い込んだのは貴女なんですよ! 間違っても、謝って済む問題なんかじゃない!」
「だって、そうしないと――」
「そうしないと何ですか!? 彼氏は大切にするものじゃないんですか!? 彼氏を貶めてまで大切にしなければいけない事って何ですか!?」
「そんなの、私に決まってるでしょ!」
その言葉は、茉莉の根幹にあるものなのだろう。
彼氏などどうでもいい。自分が周囲に大切にされる事こそが重要なのだという発言に、桜が固まった。
「昔からそう! 私は可愛い! 沢山の人にそう言われて、沢山の人が私に擦り寄ってきた! だから私は人の上に立っていい! 可愛く見られるのなら、言いたい事を、やりたい事をしていい!」
そうまくしたてつつ胸を張る茉莉の瞳は、痛い程に澄んでいる。
「なのに、あいつらは『可愛いのは顔だけ』って言って離れて行ったのよ! そんなのおかしいじゃない! 私の容姿を気に入ってたんでしょ!?」
あまりにも歪な考えに、開いた口が塞がらない。
隣に住んでいる元幼馴染は、いつの間にか理解出来ない恐ろしい女へと変わってしまっていた。
女性としても全く意味が分からないのか、桜がゆっくりと首を振る。
「狂ってますよ……」
「狂ってなんかない! だって、最近までそうやって生きて来られたんだから! それに私がそうしてきても、直哉は一緒に居てくれた!」
直哉を振るまでは、それで良かったのだろう。
しかし大勢の男と遊ぶにつれて、茉莉の歪さに気付き、皆離れて行った。
そして誰からも理解されない女は、こうして最後の希望に縋っている。
「……別に私は他人を説教出来る程素晴らしい人じゃないです。でも、これだけは言わせてもらいますね。ーー他人を平気で貶めるような人に、先は無いですよ」
「あんたに私の何が分かるのよ!」
「何も。分かりたくもないですし、真似したいとも思いません。話は平行線ですし、もういいでしょう? そこを退いてください」
「嫌に決まってるでしょ!」
「はぁ……。すみません、芦原先輩。もう少しだけ家に居させていただいてもいいですか?」
桜ですら匙を投げ、悠斗へ懇願してきた。
この状況で帰れと言うつもりもないので、柔らかく笑んで頷く。
「もちろん。上がってくれ。直哉も遠慮すんなよ」
「ありがとうございます。またお邪魔しますね」
「ありがとう、悠斗。それと――」
家に上がる直前に、直哉が茉莉の方を振り向いた。
自分の所に来てくれると思ったのか、茉莉の顔が華やぐ。
しかし、直哉の目には何の感情も映っていなかった。
「もう俺はお前に利用されるつもりはない。二度と話し掛けないでくれ」
「……え?」
茉莉の反応に目もくれず、直哉が家に入って行く。
最後の希望すら折られた女が、ぽつんと取り残されたのだった。
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