第55話 本当の気持ち

 十一月末の寒空の中、白い息を吐き出しつつぽつりと呟く。


「あぁ、良かったな……」


 バレーで優勝する事は出来なかったが、それでも美羽と丈一郎の関係は良くなった。

 美羽は悠斗のお陰だと言ってくれたし、納得が出来ないならとお詫びの条件も出してくれた。

 しかしどうしても素直に受け止められず、胸の中に黒いよどみが溜まっていく。


「全部終わったんだ。もう美羽の料理は食べられなくなるな」


 悠斗の家で料理をするのは、あくまで時間潰しの為だった。

 週末になると悠斗の家に来るのも、自分の家に居辛いからだった。

 その原因が無くなったのだから、これから美羽は悠斗の家に来なくなる。


「嬉しいはずなのになぁ……」


 美羽の為だと思って頑張り、悠斗の力ではないが改善したのだ。普通は喜ぶべきところだろう。

 けれど、悠斗の胸の中には喜びと同時に悲しみが沸き上がってくる。

 もちろん、関係が完全に消失する訳ではない。

 最初の頃のように、悠斗の分の晩飯を作ってくれる可能性だってある。

 しかし、それは悠斗がただ美羽の善意に甘えるだけだ。


「……そんなの、駄目だろ」


 晩飯を断ってしまえば、美羽と一緒に居る時間は間違いなく減る。

 とはいえ連絡先も知っているし、晩飯を一緒に食べないだけで遊ぶ事もあるだろう。

 楽観的に考えたが、そんな美味い話など有り得ないとすぐに考え直す。


「外で遊んだ事なんてないし、そもそも一緒に外で遊べないっての。でも、家で遊ぶ時はゲームか読書だもんな。……いや、読書は遊びとは違うか」


 ゲームか読書しかない悠斗の家に、何度も遊びに来るとは思えない。

 むしろ、自由になった美羽はクラスメイト等と心置きなく遊ぶだろう。

 友人と話を合わせるのが大変だとは言っていたが、少しずつ慣れていけばいい。時間はたっぷりとあるのだから。

 それに、多少疲れても笑顔で帰れる家があるのだ。何も心配する事はない。

 そうして充実した日々を過ごしていくうちに、きっと悠斗の事を忘れていく。


「はぁ……」


 美羽が自由に遊べるのは嬉しい事のはずなのに、胸が苦しい。

 遊び慣れていくと今以上に友人が増えるだけでなく、恋人も出来るだろう。

 優しい美羽の隣にいるのは、美羽に相応しい人であって欲しい。

 何も出来なかった悠斗は美羽と釣り合わないのだから。

 そんな事など分かっているはずなのに、美羽が傍から居なくなり、誰かと付き合うと考えただけで胸の痛みが酷くなる。

 ズキズキと痛む胸の理由を考えていると、あっさりと答えは出た。


「俺、美羽の事が好きだったんだな」


 いつからなのかは分からない。たった約二ヶ月一緒に過ごしただけだ。けれど、こんなにハッキリと口に出せるくらいに想いは強かったらしい。

 むしろ、そうでなければ丈一郎と美羽の関係の改善にあれほど頑張れなかったはずだ。そう思うと、自分の行動に納得がいく。

 ただ、ハッキリと自覚してしまった事に後悔して、悠斗の顔に苦い笑みが浮かぶ。


「今更気付くなんて、どんだけ馬鹿なんだか」


 失ってから自覚するなど、自分の鈍感さに呆れる。

 しかし、よくよく考えてみればこれで良かったのかもしれない。

 届かない人に対して恋愛感情を向けても虚しいだけだ。

 今までが異常だっただけで、そもそも悠斗と美羽が関わる事など有り得ないものだったのだ。

 そう思うと、すんなり諦められる気がする。


「まあ、前回よりかはよっぽどマシだったな」


 前回はあまりに酷すぎて、心が壊れそうになった。

 けれど、今回は好きな人の力に少しだけなれたと思う。

 後はこの気持ちを胸の奥に押し込め、出て来ないようにするだけだ。

 最初は難しいだろうが、美羽と会わない時間が増えればいつかは出来る。

 そうして、美羽との約二ヵ月の生活は過去のものとなっていくだろう。


「あ、鍵を返してもらうの忘れてたな」


 もう不要だろうし、今度会う時に返してもらえばいい。

 いつ会うかなど決めてはいないが、最悪東雲家へと取りに行けるので大丈夫だ。

 下手をすると、その時が悠斗と美羽の関係の最後かもしれない。

 じくじくと鈍い痛みを訴える胸を無視して家に帰り着くと、タイミングの悪い事に隣の家から直哉と茉莉が出てきた。

 すぐに家の中に引っ込んでしまおうと思ったのだが、直哉の声が聞こえてくる。


「悠斗、久しぶりだな」

「そうだな」

「東雲さんと遊んで来たの?」

「……別に、どうでもいいだろ」


 苦しさと嬉しさが混ざりあった気持ちの中で取りつくろえるはずもなく、茉莉に素っ気ない対応をしてしまった。

 突き放すような態度が頭に来たのか、茉莉が思いきり悠斗を睨み付ける。


「女の子に対してそんな態度を取ると嫌われるよ? まさか東雲さんにも同じ事をしてないよね?」

「誰がするか。俺の事なんて気にせず、お前はさっさと彼氏を見送ってやれよ」

「はぁ……。こっちが心配してるのに、その言い方は何? 三年間バレーを続けて、女の子の扱いなんて慣れてないだろうからってアドバイスしようとしたのに」

「余計なお世話だ。お前のアドバイスなんて必要ない」


 胸がむかむかする。感情のままに行動しては駄目だと分かっているのに、刺々しい言葉が次から次へと溢れてくる。

 ただ家が隣同士だからと、昔からの知り合いだからと上辺だけの善意で行動されても、惨めに思うだけだ。

 もう一言も話したくはないので、強引に切って茉莉に背を向ける。


「そんなんだから彼女が出来ないんだよ。東雲さんも離れていくかもね」

「……そんなの当たり前だ。お前に言われるまでもない。俺が一番分かってる」


 茉莉の言葉が胸に突き刺さり、皮肉を言って玄関を開けた。

 ちらりと外を見ると、直哉が気まずそうに何かを言おうとしている。


「悠斗、その……」

「俺の事を気にする暇なんてお前にはないだろ。じゃあな」


 運動が出来て、成績優秀で、可愛い恋人がいる直哉がそんな顔をする必要はない。

 もう話す理由もないと、扉を閉めて二階へと上がる。

 何もする気が起きず、そのままベッドへと倒れ込んだ。


「分かってるさ。俺と美羽は釣り合わない、いつか離れていく。そんな事、分かってる……」


 何度も何度も自分に言い聞かせたはずなのに、他人に指摘されるとこんなに苦しいとは思わなかった。

 だが、この苦しみもいつか忘れる事が出来るだろう。


「ま、いいさ。これが俺にお似合いの立場だ」


 言葉は軽く、けれど胸の中は重く苦しい。

 腕で顔を覆い、目を閉じる。

 頬に何かが流れていく感覚がしばらく続いていた。









 丈一郎といろいろな事を話し、涙も収まってきた。

 ずっと抱き着いていたので離れ、恩人へと顔を向ける。


「長話してごめんね、芦原く――」


 そこに居ると思ったのに、感謝の言葉を伝えたいのに、なぜか隣の椅子には誰も居なかった。

 

「なん、で……?」


 悠斗を放り出して丈一郎と話し続けたからだろうか。そんな美羽に呆れたのだろうか。

 茫然と悠斗が居た場所に視線を向けていると、丈一郎が軽く肩を叩いてきた。


「悠斗は随分前に帰った。多分、儂らに気を遣ったのだろう」

「そんな事、しないでいいのに! 悠くんのお陰なのに!」


 沢山の言葉を伝えたかった。なのに、一言すらお礼の言葉も言わせずに帰るのは狡い。

 優しすぎる悠斗の事を想うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。


「『悠くん』か。なあ美羽、もう自分の気持ちは分かるか?」


 丈一郎の前でつい悠斗を名前呼びしてしまったが、咎める事なく丈一郎が穏やかな顔で尋ねてきた。


(私の、気持ち……)


 最初は単に情けない姿を見られたから、どうせならと話し相手に選んだだけだった。

 優しい人だと分かり、家で料理を作るようになって、そして悠斗に全てを話して受け入れてくれた。

 しかし丈一郎から逃げ続けている美羽には、胸に灯っている熱い感情に向き合う資格は無いと見て見ぬフリをしてきた。

 そして何の憂いもなくなった今になって、ようやくこの気持ちに向き合う事が出来る。名前をつける事が出来る。


「はい。やっと、やっと分かりました。見つけました」


 仁美に「いつか出会う素敵な人の為に」と言われたが、どんな人と会っても惹かれる事はなかった。

 けれど、ようやく見つけたのだ。美羽の全てを使って尽くしたいと思える人を。何をしてでも傍に居たいと思える人を。

 仁美には今でも複雑な思いがある。それでも、これから悠斗の傍に居られるだけの力をくれた事には感謝したい。

 心の中は晴れ渡る空のようで、口元が勝手に弧を描く。


「……そうか。なら、美羽はどうしたい?」


 今まで見た事のない、穏やかな表情で丈一郎が尋ねてきた。

 この顔を見られたのも悠斗のお陰だ。胸に沸き上がる感謝の気持ちはどれだけ言葉にしても伝わらないだろう。

 そして、丈一郎の問いかけにはあっさりと答えが出た。


「丈一郎さん、すみません。私、やりたい事が出来ました」


 もう家に帰るのは苦ではない。悠斗の家で時間を潰す必要はない。

 美羽がこの願いに従った結果、どうなるかなど十分に分かっている。

 それでも、どうしても、これだけは譲れないのだ。

 深く頭を下げると、皺(しわ)の多い手が美羽の頭を優しく撫でた。


「構わん。やりたい事をしなさい」

「ありがとうございます!」


 全て分かっているはずなのに、丈一郎は美羽の願いを受け入れてくれた。

 再び頭を下げれば、気まずそうに丈一郎の瞳が揺れる。


「ただ一つだけ、お願いがある」

「何でしょう?」

「敬語を、止めてくれないか? 儂らは家族なのだからな」


 こんなにも優しい人の気持ちに気付かないなど、情けないにも程がある。

 けれど丈一郎の気持ちに気付かせてくれた人がいるのだ。

 傍に居たい、声が聴きたい。暖かい想いが次から次へと溢れてくる。

 この気持ちから逃げない為にも、まずはここから、今度は美羽から踏み出そう。

 

「……うん。本当にありがとう、おじいちゃん!」

「儂の方こそありがとう、美羽。それと、悠斗は訳ありだろうから大変だぞ?」

「大丈夫! 私の全部を使って、悠くんを振り向かせてみせるから!」

「……昔ながらの考えを変えるのは悠斗に任せるか。勝手に帰った罰だ」


 仕方ないなぁ、と呆れ気味の苦笑をしつつも、丈一郎は美羽の頭を撫で続ける。

 まだ悠斗の事情は詳しく分からない。けれど、何があっても悠斗の傍に居続けるという決意は出来た。

 まずは明日、悠斗に説明するところからだろう。

 戸惑う悠斗の顔を想像し、美羽は笑みを浮かべるのだった。

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