第54話 祖父と孫

「本当にいいんだな?」


 球技大会を終え、美羽と一緒に東雲家へと来た。

 丈一郎には時間を作ってもらっているだけで、買い物は悠斗達で済ませてある。

 玄関を潜る前に美羽に確認をすると、強い意志を込められた瞳で見つめ返された。


「うん。もう丈一郎さんに連絡したし、引けないよ」

「よし、なら行くか」


 二人で玄関を潜ると、以前と同じように丈一郎が中からやってくる。

 相変わらずの仏頂面に苦笑が零れた。


「ただいま帰りました」

「そうか、上がれ」

「お邪魔します」


 美羽の後をついていき、リビングの椅子に座る。

 じっと丈一郎に見つめられ、その目からは「どういうつもりだ?」と聞かれている気がした。

 けれど、今の悠斗は脇役に過ぎない。前に進むと決めたのは美羽なのだから。

 小さく首を振って応えると、丈一郎が美羽へと視線を移す。

 これまで視線を向けられただけですぐに美羽は縮こまっていたが、今日は真っ直ぐに丈一郎の顔を見ている。

 

「それで?」

「もっと料理が上手くなりたいんです。私では丈一郎さんの煮物の腕には適いません。ですから、教えていただけませんか?」

「そんな必要など無い……とわしが言うのは傲慢ごうまんだな。もう食材も買ってきている以上、無駄には出来ん。儂が知っている事でいいなら教えよう」


 丈一郎があっさりと納得して立ち上がった。

 おそらくだが、料理を教わる本当の意味を理解したのだろう。悠斗との約束を果たすつもりのようだ。

 しかし美羽は否定されるという前提で動いていたため、驚いたように瞳を大きく見せている。


「いいんですか?」

「構わん。……そんな顔をされては断れんからな」

「……え?」

「何でもない。ついてこい、美羽」

「は、はい」


 さくさくと話が進んでいくからか、おっかなびっくりという風にしながら美羽が丈一郎と共にキッチンへと向かう。

 一緒に行こうかと視線だけで確認を取ったのだが、小さく首を振られた。

 ならば美羽の意思を尊重しようと、一人取り残された悠斗はスマホを取り出すのだった。





 美羽達が料理をし始めると、キッチンから二人の会話が聞こえてくる。

 

「先に調味料は合わせておけ。それと水はあくまで煮る時間の調節用だ」

「はい」

「追加で煮る時間に対しての水の量は、一分あたり大匙一杯が目安になる。覚えておけ」

「分かりました」


 美羽はいつにも増して真剣な声、対して丈一郎の声は普段と同じように思えるが、心なしか弾んでいるように思える。

 美羽が料理を教わったのは仁美からなので、初めて美羽に教えるのが楽しいのかもしれない。

 きちんと先生と生徒をやっているのが分かり、ホッと胸を撫で下ろす。


「落し蓋と鍋の蓋は別だ。そうすれば味が沁み込みやすくなる」

「なら、落し蓋は何でするんですか?」

「アルミホイルで構わん。吹き出さないようにだけ注意しろ」

「こぼれそうになったら蓋を少しずらすんですね」

「そうだ。よく分かっているな」

「……ありがとうございます」


 丈一郎からの素直な褒め言葉に、美羽が華やかな声を上げた。

 おそらくだが、二人の空気は今までで一番穏やかなものだろう。


「味を濃ゆくしたければ、六分程度煮た後に煮汁だけを煮詰めろ」

「魚も一緒に煮ては駄目なんですか?」

「煮すぎると身が硬くなる。煮物で硬い物は口当たりが悪くなるから気を付けろ」

「はい、分かりました」


 姿は見ていないが、仲の良い祖父と孫の料理風景を思い浮かべられる。

 それから副菜の調理も行っていたが、美羽と丈一郎の会話は途切れる事は無かった。

 そして料理を始めて約四十分。目の前には以前丈一郎にご馳走になった時と変わらない晩飯が並んでいる。


「……美味そう」

「そうかな。なら良いんだけど」


 ぽつりと呟いた声に美羽がはにかむ。

 丈一郎から怒られる事も無かったようだし、かなり自信があるのだろう。


「いただきます」


 三人共が手を合わせ、いよいよ実食だ。

 煮付けを口に入れると、丈一郎の物と変わらない。深い味が口の中に広がる。


「ん、美味い」

「ホント!? えへへ、成功だね。……うん、美味しい」


 照れ臭そうに淡く穏やかな笑みを浮かべつつ、美羽も自分の料理した魚に舌鼓を打つ。

 丈一郎はどうだろうかと様子を窺(うかが)うと、これまでと変わらない感情の読めない表情で黙々と食べていた。


「……」


 悠斗は不味くはないと断言出来るし、丈一郎の物と何が違うのかはよく分からない。

 ただ、口に合わなかったのであれば何か言うだろうし、そもそも食べないはずだ。

 もしかすると、食事後に感想を言うのかもしれない。

 丈一郎が無反応な事に美羽の顔が曇るが、心配ないと笑い掛けて食事を再開した。

 そして、全員が食べ終わった後に丈一郎がゆっくりと口を開く。


「美味かった。流石は儂の孫だな」

「本当、ですか?」


 丈一郎の言葉が信じられないのか、美羽がおそるおそる尋ねた。

 美羽の言葉を受けて、丈一郎の目が僅かに優しく細まる。


「この場で嘘を言う理由が無い。……今日もそうだが、今までよく頑張ったな、美羽」

「……え?」


 唐突なねぎらいの言葉に、美羽が目を丸くしながら呆けた声を出した。

 おそらく、そんな言葉を掛けられるとは思っていなかったのだろう。

 悠斗も丈一郎から歩み寄った事に驚いたが、口を挟む必要はないはずだ。

 丈一郎の顔に痛々しい苦笑が浮かぶ。


「ずっと仁美の教育と、習い事で大変だっただろう。そのお陰で今日の料理も出来たとは思う。けれど、もういいのだ」

「もういい、とは?」

「儂から習い事をさせるつもりはない。そして、この家での家事をする必要もない。儂や仁美に縛られるな」

「それ、は……」

「好きな事をしなさい。遊ぶのも構わない、悠斗の家に行くのも良い。美羽、お前はもう自由なんだ」

「丈一郎、さん」


 ようやく勘違いに気付いたのだろう。美羽の大きな瞳が潤んだ。

 震える口が、想いを伝えようと必死に動く。


「怖がってごめんなさい。逃げていてごめんなさい。私、何も分かってなかったんですね」

「いいのだ。嫌われる理由など沢山あるからな」

「嫌いだなんて思ってません! 丈一郎さん、私を引き取ってくださって、ありがとうございます!」

「……その言葉だけで十分だ」


 丈一郎の細い瞳から雫が落ちる。しわがれた頬は今まで見た中で一番緩んでおり、喜んでいるのがこれでもかと伝わってきた。

 お互いのすれ違いがなくなったからか、これまでの隙間を埋めるかのように祖父と孫は会話を続ける。


「家に居たら習い事を受けさせられるかもしれないって、最近まで公園で時間を潰してたんです」

「気付かなくて、一人にさせて済まなかった。そして仁美を止められず、美羽に押し付けてばかりで済まなかった」

「いいえ、誰にも頼らなかった私が悪いんです。……もしかして、昔から私の様子を見てくれていたんですか?」

「あんなのが様子を見たとは言えないがな。どう接すればいいか分からず、怖がらせてしまったな」

「じゃあ私、ずっと、ずっと、丈一郎さんに迷惑を……」

「そんな事はない」


 丈一郎が立ち上がり、美羽の傍に行く。

 皺の多い、けれど不思議と力を感じさせる手が、美羽の頭に伸びた。

 何をされるか分かったようで、美羽が丈一郎の手をジッと待つ。

 一瞬だけ躊躇ちゅうちょするかのように止まったが、震える手がようやく美羽の頭を撫でた。


「嫌わないでいてくれてありがとう。今日の料理は儂の一番の宝物だ」

「う、あ……」


 美羽も限界なのか、涙を流す丈一郎へと勢いよく抱き着く。

 二人共が涙を流しつつ、美羽は強く丈一郎を抱き締め、丈一郎は美羽を優しい手つきで撫で続ける。


「辛かったろう、苦しかったろうに。本当に、良く頑張ったなぁ……。儂はな、こうして美羽を撫でるのが夢だったんだ」

「じょう、いちろう、さん。丈一郎さん!」


 泣きじゃくる美羽をなぐさめ続ける光景は、おそらく悠斗が見た中で一番美しい光景だ。

 もう二人は大丈夫だと、悠斗が居なくても問題ないと確信し、音を出さずに席を立つ。

 片付けを出来ない事は心苦しいが、許して欲しい。家族の団欒だんらんの場に、傍に居ただけの余計な者など要らないのだから。

 悠斗が何をするのか分かったのか、丈一郎から一瞬だけじろりと鋭い視線をいただく。

 無言で首を振り、深くお辞儀をした。どうやら美羽は気付いていないようで、丈一郎の胸に顔を埋めながら、ずっと抱えていた思いを口にしている。

 その姿に小さく笑んでリビングを後にし、玄関で靴を履き替えてゆっくりと扉を閉めた。


「お邪魔しました」

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