06

 今回の「仕事」の対象だった殺し屋・『紫炎』に狙われていたこの男が、世界大総統の華山桂十郎であることは分かっている。護衛も付けずに一人で出歩いていた理由までは分からないが、そこまでは自分が気にするところではないと『氷の刃』アイスは考えないことにした。

 そんなことよりさっきの一言だ。やはりこの男は馬鹿なのだろうかと思ってしまう。世界大総統が馬鹿だったなどと笑えない話だ。

 一体誰が好き好んで見ず知らずの殺し屋の為にホテルを取るというのだ。

 頭が痛い。先程から強がってはいるが、視界が定まっていない。恐らく『能力ちから』を使った反動のようなものだとは思うが、こんなことは初めてだ。『能力ちから』を使い過ぎるとこうなるのか、なんて他人事のように感じる。

 目の前の気配が動いた。立ち去ろうとしているらしい。咄嗟に手を伸ばし、服を掴む。何処を掴んでいるかなんて分からないけど、そんなことはどうでもいい。


「え? ちょ、あの、」

「あたしを一人ココに置いて行って、アナタが出ると護衛が現れて……なんて算段かしら」

「は? いや、そんなことは無いけど。そもそも今護衛が居ないのは君も知ってるだろ?」

「そんなの分からないわ。あの場所からココへ来るまでの間に、何かしらの方法で連絡を取ってるかも知れないじゃない」


 見上げているだけだが、不調で細まった目では睨んでいるように見えるだろう。笑みを浮かべる余裕も無い。

 この場所までの間、桂十郎が誰とも連絡を取っていないのは確かだろう。護衛の方から彼を見付けなければ合流は出来ない筈だ。そんなことはアイスにも分かっている。

 だったら何故引き止めたのか。あまり長い時間一緒に居れば、先日道で偶然会った少女とアイスが同一人物である可能性に気付かれるかも知れないのに。まして顔を見られるようなことがあればアウトだ。どうして彼を引き留めようとするのか、自分でも分からない。


「どっちにしてもあたしはこの格好で表から出るつもりはないから、チェックアウトはアナタがするのよ。今出て行くのは許さないわ」

「うーん……まあ……そう言うなら」


 納得したのかしてないのか、桂十郎は近くの椅子に座ったようだった。ふぅ、と息を吐き出したアイスは、とうに限界を迎えていた身体をベッドに横たえる。


「ストール、外さないの?」

「なに、あたしの顔が見たいの?」

「そうだな、見てみたいかも」

「却下よ」


 そんな簡単に見せるくらいなら元々隠してなんかいない。逆にしっかり目の下まで引き上げてから目を閉じた。

 この格好『氷の刃』のままで人前で横になって目まで閉じてしまうなんて、本来なら危険極まりないことだろう。だけど何故だか、桂十郎相手なら大丈夫な気がした。世界大総統なんて肩書きを持っているくせに本人の雰囲気が緩いからだろうか。

 そう言えば最近は寝不足もあった。今の不調はそのせいかも知れない。能力によるものでなければ無問題だ、少し寝れば治る。

 気になっていたのは、『羊』と略されることもある何でも屋『Sleeping Sheep』の者達のことだ。以前彼らのリーダーである東間青水の暗殺を依頼された時、確かに引き受けはせず断ったが、アイスよりも強いという希少な存在でありながら彼らには何故か生かされた。その意図が分からない。分からないことが気持ち悪くて、ずっと考えていた。

 かと言って今は眠るべき時ではない。まだそこに桂十郎他人が居るのだから、寝るなら帰ってからだ。

 そう思うも段々と思考は薄れていき、意識は遠のいていった。




 話し声が聴こえる。ドアが閉まる音、何かをテーブルに置く音。家は純和風だ、ドアなんて無い筈。

 はっとして目を開けると、見慣れない天井が視界に映った。何だか、前にもこんなことがあったなと思う。そう、あれはしばらく前のことで、確か部屋の中には、その時断った依頼の対象だった東間青水と、彼が師と呼ぶ御厨弦月が居た。

 あれから後、アーカイブでも『氷の刃』の新たな情報は流れている様子が無いと、アイスが抱えている情報屋の『夢幻桜』は言っていた。無闇に情報を流すことはしなかったようだ。

 そんなことを思い起こしながら、アイスはそっと上体を起こす。静かな空間の中に人の気配を感じて振り返ると、俗に「美形」と言われる類の男性がテーブルに山積みになった紙を睨むように見ていた。

 そうだ、彼は華山桂十郎。今は……。

 どれくらい眠ってしまっていたのだろう。眠ってしまったことはあまりよろしくはないが、特に何もされていないようだ。身体の感覚も、衣服なども、眠る前と何も変わっていない。部屋を見回すと、存外と良い部屋を取っていたようだった。

 もう一度桂十郎に目を向けじっとその横顔を見つめて、懐からスケッチブックと鉛筆を取り出す。彼は今、あの紙の束に集中している。今なら少しくらいスケッチブックを広げていても気付きはしないだろう。

 絵になるなら何だって良い。美しいと思ったものは描き留めておきたい。ただそれだけ。スケッチブックに鉛筆を走らせて、モノクロ写真かとさえ思う程完成度の高い絵を描いていく。一瞬桂十郎が振り返ったような気がしたが、何も言わず元の作業に戻ったようなので構いはしない。

 やがて描き終えるなりアイスがスケッチブックを仕舞うと、同じタイミングで桂十郎が振り返った。


「気分はどう?」

「最悪よ。アナタのその間抜け面は、寝起きに見るものじゃないわね」

「ハハハっ、元気そうで何よりだ」


 眠る前から、それなりに『アイス』としての辛辣な言葉を選んで使っている筈だが、彼には特に効果は無いようだ。何を言えば怒るのか試してみたくはなるが、生憎とそんなに暇ではない。

 せっかく一眠りしてすっきりしたのだ。面倒を増やすこともない。


「と、そういや名乗ってなかったよな。知ってるみたいだけど、俺は華山桂十郎。君は? 『氷の刃』さん。何て呼べば良いかな?」

「…………」


 さらりと言った桂十郎の言葉に、アイスは一度目を細める。世界大総統ともなれば、情報屋くらいは抱えているだろう。今日見た戦いで知ったことからその答えを導き出すのは難しくなかったと取れる。「鈴」も「花の絵」も、なのだから。

 値踏みするように彼を見てから、ふぅと小さく息をついて口を開いた。


「…………アイス」


 ただ一言に、彼を拒否する響きを乗せる。だが桂十郎は、意にも介さず嬉しそうに笑った。分かった、と、そう言って。


「アイス……アイちゃんかな?」

「聞いておいていきなりあだ名? そんな可愛らしいあだ名が似合うように見える?」

「え、見えるけど」


 鼻で笑うも、あっさりと肯定された。その反応に少なからず機嫌を損ねて、アイスはベッドを降りる。


「あだ名は面倒くさい。アイスで良いわ」


 冷めた声でそう言っては見送るような桂十郎の視線を無視して窓の方に向かった。窓を開け放ち桟に足をかけては、一度顔だけ桂十郎を振り返る。


「……程々で休まないと、体壊すわよ」


 こんな所まで仕事を持ち込んでいるようだ。余程忙しいのだろう。

 呟くように言ってから、エミルはそこから去って行った。ホテルの八階の窓から。ピューっと桂十郎が口笛を吹いた音が聴こえた。

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