04

 脱走魔、と悪友に呼ばれるようになったのはいつだったか。尋常ではないあの書類の山々を見ていれば逃げ出したくもなる。たまには身体を動かしてやらないと。

 そんな言い訳をいくら並べても遊亜に通用することは無く、容赦なく仕事を増やされるのだが。

 伸び伸びとした気分で歩いていると、やがて閑静な住宅街に差し掛かる。時間が時間だからか、車が通ることも無ければ人の子一人見かけることは無い。

 見付かる前に移動しなければ。なんて考えていたところで、ぞわりと寒気を覚えた。それなりに鈍い方では無いと自分では思っている。

 こういう殺気にも、何だか慣れてきてしまった。慣れたく無かったなんて場違いなことを考えながら桂十郎が身構えるも、目の前に現れた白い影は彼に背を向けていた。

 一瞬後、鉄同士が弾きあうような音と共に、白い和装の袖と大きな襟巻きが揺れる。よく見れば白い影は少女で、手には苦無を握っている。少し離れた所に落ちているナイフとその苦無が、先の音の正体だろう。


「……久しぶりね」


 微かな違和感を感じては彼女を注視する桂十郎には用もないとばかり、背を向けたままの少女は少しキーの高い、そして酷く冷たい声でそう言った。


「二年振りくらいかしら。ねぇ……『紫炎しえん』?」

「ああ、何やアンタかいな。本間ほんま、久しぶりや」


 関西訛りの言葉に続いて現れたのは、確か対組織の依頼をよく受けるという殺し屋だった筈だ。通り名は、毒使いの『紫炎』。一方の少女の方は……自分の知る情報には居ない。白い和装も、大きな襟巻きも、陽の下で輝くうなじまでの金髪も。

 敵か、味方か、どちらでもないのか。図りかねて見ていると、少女が『紫炎』にも負けず劣らずの殺気を放った。いや、むしろ『紫炎』より何倍も冷たく隙の無い殺気を。


「あの時よりは多少強くなったかしら? 少しくらい楽しませてくれるんでしょう?」

「まぁ、二年も経っとるしな。せやけど、今回はアンタに用は無いねん。そっちの兄さんが獲物やから」

「興味無いわ、アナタの都合なんて。残念だけど、『紫炎』。あたしの獲物はアナタなの。先にあたしと遊んでちょうだい?」


 背筋が凍るような殺気を消さずにくすくすと笑いながら、少女は愛らしく小首を傾げる。何の免疫も無い一般人が見れば、それさえも恐ろしく感じる仕種だっただろう。


「一般人なんて、いつでも殺せるじゃない」


 完璧なまでに美しく冷たい笑顔が、桂十郎の視界にも映った。二人は呑気に……いや、相手の出方を伺うように笑っているが、桂十郎としては何も面白くない。いつも通り息抜きに出て来ただけなのに命を狙われたとあっては、また護衛連中がうるさくしつこくなってしまう。

 何処かで、リン、と鈴の鳴るような音がした。


「一般人やったらこんな時に狙わんわ。今やないと面倒くさいねん」

「言ったでしょう? アナタの都合になんて興味無いって」


 次の瞬間、少女が投げた何かを、『紫炎』は片手で受け止める。


「毒使い舐めてもろたら困るんやけど。過水毒煙かすいぶすえんやろ? 水に触れたら一気に蒸発して、毒の霧が辺りを覆ってまう。二、三分体を痺れさせる程度でも、戦いん中ではえらいデカい隙を生むもんやからな」


 先程『紫炎』が受け止めたのは小瓶で、それには透明な液体が入っていて。手元でくるくると弄びながら『紫炎』が説明口調で言う。彼の少し後ろには、じわじわと蒸発して気化している白い小さな四角い物体が転がっていた。

 だが、言った矢先、『紫炎』の視界にも桂十郎の視界にも、もう少女の姿は無くて。


「せっかちやなァ」


 一度苦笑した『紫炎』は、すぐにその場から飛び退いた。直後、つい今まで『紫炎』が居た場所に鎖鎌が刺さり、傍にはあの少女がふわりと舞い降りる。

 粉雪のように音も無く、気配も無く、そして冷たく。

 もう一度困ったように苦笑して、『紫炎』は何かを地面に叩き付けた。それを見た少女がすぐに動く。懐から何かを取り出して、


「うわ!?」


 それ――ガスマスクを勢いよく桂十郎の顔にあてがった。緑の薄気味悪い煙が周囲に立ち込めるのを目の端に見ながら、少女は口元にまでかかって顔を隠していた襟巻きを鼻まで上げる。なるほど、毒の煙か。

 煙に紛れて飛んで来た複数のナイフを袖から出した鎖で尽く弾き、少女はまた音も立てずに地を蹴った。それからは、煙の中で桂十郎の視界には映らず。戦いの音だけが近くとも遠くとも言えない場所から響いていた。その中でも、少女の冷たい殺気はほんの一瞬でさえ揺らぎもしない。

――と。突然、視界が白く覆われた。


「限定解除!」


 少女の声と共に、横に引かれた手から離れ何か光るモノが煙の中へ消えていく。まるで桂十郎を庇うかのように目の前で両手を広げた背中が、ビクビクと跳ねた。煙の中から現れた『紫炎』が、追い打ちをかけるようにナイフで少女の胸元を貫く。


「意外な弱点めっけて見付けてもーたかな」


 勝利を確信したかのように『紫炎』が笑った。

――死んだか?

 思うも、一瞬浮かんだ桂十郎の考えはすぐに訂正される。少女の殺気は、消えていない。

 目には見えなくても、少女が不敵に笑ったこと、『紫炎』があからさまに狼狽えたことが桂十郎にも分かる。

 スッと上がった少女の足が『紫炎』の腹に直撃し、そのまま彼は数十メートルは後ろにあった民家の塀に背中を叩き付けられる程に吹き飛んだ。それを見送ることもせず少女は自分の足元に何かを叩き付け、それが発した爆風で毒の煙を吹き飛ばす。フェイク用の手榴弾。その破片が何かに当たったのか、カツン、という音が辺りに響いた。

 それから、バラバラと数本のナイフが少女の足元に落ちる。恐らく『紫炎』が彼女を狙って投げた、または先程胸を刺したもの。

 血は、一滴として落ちる気配も無かった。

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