03

 木の枝に座り込んで、一人の少女が必死で手を伸ばしていた。その先には、警戒心を露わにして少女を威嚇する猫が一匹。登ったものの降りられなくなったという、典型的パターンだ。

 少女──エミル・クロードは、何とか猫に届かせようと白く細い指先を向ける。


「大丈夫だよ、一緒に降りよう? ね、いい子だから」


 同年代の子供達に比べると長身のエミルの伸ばす手は、それでも猫には届かない。もう少し近寄らなければ。だけどこれ以上は、エミルの体重で枝が折れてしまうかも知れない。

 枝を折ることなく猫を降ろしてやる方法も、無いわけではない。だがそれは、は出来ないことだ。

 普段はあまり動物に嫌われる方ではないのだが、今はもしかしたら「仕事」の後だからだろうか。あの猫にとって不快なでも着いてしまっているのか。


「うーん……もうすぐ悠仁ひさひとも出て来るだろうし……どうしよう」


 あまり猫に時間を取られるのも困る。知り合いの雑貨屋店主の買い出しに付き合って来ているだけで、買い出しを済ませた店主が出て来れば店に戻らなければならない。

 最善を考えていると、


「お嬢ちゃん、そんな所で何してるんだ?」

「ひゃっ!」

「あっ」


 突然木の下から声がかかり、驚いたエミルは手を滑らせた。そのままバランスを崩して枝から滑り落ちる。見計らったように、エミルの頭、脇腹を介して猫は軽やかに地面に降り立ち去って行った。

 一方でエミルはお尻から思い切り地面に叩き付けられる。声の主らしき人物が咄嗟に伸ばした手からはすり抜けてしまった。踏んだり蹴ったりだ。


「いったた……」

「悪い悪い、急に声かけて驚かせたか」


 打ち付けたお尻をさすっていると、先と同じ声がまたかかり、手を差し出される。その手を取り立ち上がって、短い礼を言いながら改めて声の主を見た。

 淡い青色のサングラスにアロハシャツ。加えてシルバーアクセサリー。見た目だけならチャラくて怪しいことこの上ない、関わりたくない人物だ。だがその仕草はどことなく紳士的でもある。

 流行りの「ギャップ萌え」でも意識しているのだろうかと一瞬考えたが、いや、これはこの人物のデフォルトスタイルかも知れないとエミルは思い直した。

 後ろにはスーツ姿の男性と、他にも数人。サラリーマンの「接待」とかいうものだろうか。それにしてもアロハシャツは無い。

 それよりもこの顔だ。何となく、何処かで見たことがあるような気がする。どこだっただろうか。


「姫さん」


 ぼんやりとアロハシャツの男性を見ていると、今度は聞き慣れた声が届いた。そちらに視線を送って、ぱあっと表情を綻ばせる。


「悠仁!」


 待っていた雑貨屋店主の上埜うえの悠仁だ。彼はいつもエミルを「姫さん」と呼ぶ。意図はよく分からないが、悪意があるわけでもないし、ただのあだ名だと好きに呼ばせている。

 買い物袋を提げてエミルに歩み寄り、彼女と繋がれたままの男性の手を見て、悠仁はチラリとその顔を見た。


「連れに何か?」

「え? ああ、ゴメンね」

「いいえー」


 ぱっと手を離す男性に笑いかけてから、あのね、とエミルは悠仁に目を向け直す。


「この人、あたしが木から落ちたのを助け起こしてくれただけなの」

「木から!? 怪我は!?」

「大丈夫、ちょっとお尻打っただけ」


 木から落ちたと聞いて顔色を変えた悠仁を宥めるようにまた笑ってみせる。心配しないで、と愛らしく、無邪気に。

 はぁー、と大きなため息をついた悠仁は、ポンポンとエミルの頭を撫でた。


「心臓に悪ィよ……。何でまた木に……」

「猫ちゃんが降りられなくなってたから、降ろしてあげようと思って。無事どっか行ったみたいだね」

「またか。姫さんって、ホントそういうのによく遭遇するよな……」

「何でだろうね?」


 純粋に疑問を感じている様子に、人がいからだろうな、と遠い目をする悠仁を後目に、再びエミルは男性に目を向ける。

 うーん、と考え込む様子のエミルを不思議に思った悠仁も男性を見て、ああ、と納得したように頷いた。


「えっと、華山桂十郎さん、ですよね? 世界大総統の。テレビでよくお見かけしてます。先程は不躾な態度で失礼しました」

「イエイエ、あの状況は誤解しても仕方ない」

「世界大総統? そっか、テレビで見たんだ」


 状況然り、サングラスにアロハシャツにシルバーアクセというその格好も然りなのだが、そこはあえて口を閉ざす。

 なるほどと納得した様子のエミルにも、生暖かい目を向けた。スッキリした、と笑うエミルの邪気の無い笑顔は、いつも通り可愛らしい。

 明らかに怪しい風貌のその男性・華山桂十郎の持つ肩書きは「世界大総統」、つまり世界のトップだ。

 まあ、エミルがひと目で気付かなかったのも無理はない。彼女は政府関係のことにはとんと興味を示さない。子供らしいと言えば子供らしいとも言えるが、先々のことを考えれば少しくらい興味を持っても良いのではと悠仁が思ってしまうのも仕方ないだろう。


「けい、時間押してる」

「おっと、もうそんなか」


 後ろに居たスーツ姿の男性・秘書の佐久間遊亜に促され、桂十郎は一瞬面倒そうな表情を浮かべる。が、すぐにエミルの方に笑いかけた。


「じゃあな、お嬢ちゃん。気を付けてな」


 ひらりと手を振り、そのまま男達を引き連れて去って行く。小さく手を振りながら見送るエミルを見、去り行く集団を見、悠仁は何かを考えるように視線を動かした。

 何だか良くない予感がする。あの男にはあまり関わって欲しくない。だけどエミルならば、言わずとも深入りしようとはしないだろう。

 だったらこのモヤモヤとした感覚は一体何なのか。


「悠仁?」

「……店、戻るか」

「うん」


 気遣うように視線を向けられ、何でもない振りをして悠仁は微笑んだ。

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