赤いダリアと氷の棘〜出逢〜

蓮条緋月

第1話 夜の街のUSB

「さあ、尋問の始まりだ。星宮桜花」

 湿った空気が肌に張り付く梅雨の夜、星宮桜花は凍える瞳に囚われた。この男と出会ったのはほんの数十分前。しかし、それは決して甘いものではなく、眼差しと同じ冷たい手は女の華奢な手首を触りの良いベッドへ縫い付ける。

「精々、抗ってみせろ」

 そう言って百夜は桜花の耳元へと唇を寄せた――


…………


……



「星宮さん。今日はもう上がっていいよ」

「あ、はい」


 前日の夜、星宮桜花ほしみやおうかはいつものように書店でバイトをしていた。店長の好意で先に上がらせてもらうことになった桜花は、区切りのいいところで帰り支度を始めた。


「そういえば最近、この辺りの治安が少し悪くなっているから帰り道気をつけてね」

「忠告ありがとうございます。店長こそ気をつけてくださいね」

「私は大丈夫よ。彼氏が迎えに来てくれるから」

「惚気ないでくださいよ」

「星宮さんも彼氏作っちゃえば? 君ならすぐできるでしょ」

「え~、私はまだいいですよ。お疲れ様でした」

「はい、お疲れ~」

 

 店長と軽く言葉を交わし、シフトの予定を確認して帰路に着く。


「少し遅くなったか……」

 

 今日は珍しく残業があり遅くなったのだが、なぜか妙な心地が纏わりつき、ほんの少し景色が違うような気さえした。


(? なんだろう、この感じ……なるべく急いで帰ろう)

 

 気持ちに連動して心なしか歩く速度も上がっていく。


(よし、ちょっと近道しちゃえ!)

 

 普段は直進するはずの道を曲がり、少し小走りになりながら路地を歩いていく。

 自宅から一番近い馴染みの店が見えたところで表通りに出ようと足を踏み出したその時――


 ガタンッ!!!


「うわっ!?」


 けたたましい音が裏路地から耳に届いてきた。あまりの大きさに桜花は足を止める。夜にこの騒音はどうなんだと思いながら、桜花はふと店長の言葉を思い出す。


(確かにこんな時間に外で騒音とか……まさかヤクザの抗争、とかじゃないよね?)


 しかし、桜花のこういう時の感はいつも怖いくらいに当たるもので、物音のした裏路地からはあまり耳にしない物騒な言葉遣いが聞こえてくる。

 桜花はほんの少し怖いもの見たさに、息を殺して裏路地を覗き込んだ。

 何人かが地面に倒れ、さらには金属の物音に鉄の香りが混じっている。


(あのシルエット……拳銃だ。それに暗くてよく見えないけど、倒れている人たちの下の染みは……おそらく血、だよね?)


 ますます見つかるわけにもいかず、かと言って今知らん振りで歩き出すのはかえって危険だと判断した桜花は、じっと息を潜め気配を消す。

 

 しばらくして、静けさが戻ってきたタイミングで桜花は詰めていた息を吐き出した。


(あ~びっくりした。まさかあんなの見ることになろうとは……)

 

 まだ落ち着かない心臓の音を聞きながら、人の気配が消えた裏路地へと視線を向ける。気づく人はいないだろうが、それでも生々しい爪痕は見た者に現実を突きつけるには充分だ。


(いくら見つからなかったとはいえ、また戻ってこないとも限らない。急いで帰ろう)


 そう思い、表通りに向けた足に何かが当たった。


「なんか蹴った?」


 一瞬の違和感に下を見るとUSBメモリーが落ちていた。


「USB……なんでこんなところに」


 とりあえず拾ってみるも、特に変わったところはない。おそらくだれかの落とし物だろうが、よくこんなもの落とせたな、と思った桜花は頭をよぎった考えに思わずUSBを落としかけた。


(これ……さっきのヤクザの誰かの持ち物だったりしない、よね? さっきのドンパチで吹っ飛んだとか?)


 しばらく考えた結果、仮にヤクザのものだったとしても拾ったものを知らぬ存ぜぬで通すのも気が引ける、という結論に達し、桜花は持ち帰る選択をした。


 この選択の先にあるものは、桜花にとっての地獄か、それとも――



      ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎



 桜花がUSBを拾い帰路に着いていた頃、とある場所では不機嫌な獣がじっと窓の外を見つめていた。そこに一人の青年が近づいてきた。


「失礼致します。例のデータですが……」

「失敗したのか?」

「申し訳ありません」

「ネズミにしちゃあ、逃げるのが上手いな」

「ですが、そのことに関して少々問題が」

「なんだ」


 煙草を燻らせ、尋ねてきた男の前に一枚の写真が差し出された。


「女の写真? なんだこれは」

「それが、どうもその女性がデータの入ったUSBを拾ったようでして、そのまま持ち去られてしまいました」

「……ネズミの仲間か?」

「今はなんとも。ですが、この女性がデータを持っていることは確かです。いかがいたしますか?」


 秘書の問いかけに男は無言で煙草を灰皿に押しつける。その仕草はどこか乱暴で、面倒そうでもあった。


「この女を連れて来い。ただしカタギの可能性もある以上出来るだけ手荒なことはするな。ネズミの仲間の可能性もあるが。……どっちにしろあのデータを手にした時点で、二度と平穏などには戻れないだろう」

「かしこまりました」


 一礼をして部屋を後にした己の秘書には目もくれず、男は煙草を吸いながら手の中にある女の写真を静かに眺めた。


      

      ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎



 翌朝、カーテンの隙間から差し込んだ光で桜花は目を覚ました。

 相変わらず朝が苦手な桜花は、スマホのカレンダーを見て休日であることにホッとする。ちなみに今は午前十時を過ぎている。

 のそのそと起き上がり、机の上に置いてある拾ったUSBを手に取った。


「……どうも嫌な予感がするけど、さっさと届けて忘れよう」


 遅い朝食と身支度を済ませ、バッグにUSBを仕舞うと桜花は眩しい空を手で遮りながら玄関を出る。

 桜花が住んでいるのは分譲マンションで、成人した際に両親から贈られたプレゼントだ。かなり高級で、セキュリティも万全である。もっとも女の一人暮らしを心配した桜花の父親が用意したのだが。

 鍵は当然のようにオートロックで、桜花はそのままエレベーターに乗り込み、マンションを出る。

 夜中に降り出した雨により濡れているアスファルトの上を軽い足取りで駆けていく。時々水溜りを踏むと心地よい音が耳を撫でる。

 

(やっぱり雨上がりは涼しくて気持ちがいいな)


 軽快な音楽を聴いているうちに次第に心も弾み、警察に寄った後はどこに行こうかと考え始めていた矢先――


 キキーッ!!!


 桜花の前に黒塗りの車が飛び出し、行く手を塞いだ。


「は!? な、なに?」


 戸惑う間もなく車から降りてきたスーツの男たちに羽交締めにされ、液体の染み込んだ布を鼻と口にあてがわれた。

 それがクロロホルムだと気づいた時にはもう、桜花の意識は霞に消えたのだった。

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