2  忘却レンズ




「これがそうなのですね。」


目の前の彼女はテーブルの上に置いた

小さなオペラグラスのような物を手に取った。

それはいつ作られたのか定かではないがかなり古い物のようで、

両の筒状の部分には古代の精巧な彫刻が施され、

所々に宝石も埋め込んであった。


だがそれがオペラグラスのように、

遠くを見るために作られたのかは疑問だ。

この女性に委託されそれを探し出した私も、

それが本当に依頼物なのかどうかは確かめてはいない。


「多分、そうでしょ。」


私は少しふざけた調子で言った。


「ポチさん、不確かな事。

探し屋としての貴方の腕を見込んでお願いしたのに。」


彼女の軽い笑い声が聞こえる。

私は彼女の方を見て愛想笑いを返した。

だが、どこを見ていいのか私には分からなかった。


何しろ私の向かい側に座っているはずの彼女の姿は無かった。

身に着けている白い帽子と手袋があるだけだ。


その手袋はオペラグラスを持っているが、

その向うに真っ青な海と空が見える。

白い雲が青に映え、爽やかな風が私の顔に当たった。


この星は全宇宙でもリゾート地として有名だ。


澄み切った空と海は美しく、そこに別荘地を持つ事は誰もが憧れる。

そこにこの大豪邸を構えている彼女は想像がつかないほどの富豪だ。


「でもこんなに小さなものだったなんて。」

「一応もうひとつの効果は確かめています。

だから多分貴女が望んでいる事も可能かと思いますが…。」


私は真剣に言った。


「何しろそれを確かめた者が一人もいない。」


その時テーブルの白林檎炭酸水のグラスから気泡が浮き上がった。

ちょうど良い具合に発酵が進んだのだろう。

このジュースはここの特産で、グラスにあけて大気に触れ発酵が始まり、

三十分位で程好い甘さになる。気の長いジュースだ。


私はそれを口に含んだ。

氷も溶けてちょうど良い冷たさが喉に染みる。

海風が入るテラスで大きなパラソルの影にはいるが、

日差しは強くその冷たさはありがたかった。


「そうね。」


彼女もグラスを手に取りストローを口に含んだ。(様に見えた)


青いストローの中を液体が昇りその出口で消えた。

不思議な事に彼女の体は完全に透明で向うの景色が見えるのに、

体中に入った物は見えなくなる。その理屈はさっぱり分からない。


私は彼女に触れた事は無いのでその実体はあるのかどうかは分からない。

帽子や手袋のふくらみを見るとありそうな気がする。


しかし、体の部分はどうなっているのだろう、

何も身につけていないのだろうか。


初めて会った時も見えていたのは帽子と手袋だけだった。

私は目を細めてちらりと彼女の体を見た。

その時だ。


「奥様、お持ちしました。」


白い背広を来た年配の執事が近づいて来た。


彼は私の心を見透かしたようにじろりと見た。

私は思わず苦笑する。

この依頼を受けてからずっと感じていた事だが、

執事として年季の入った彼は明らかに私を嫌っていた。

慇懃に対応はするがその敵対心はひしひしと感じた。


だが私の依頼主は彼を雇っている目の前の透明な体の彼女だ。

彼が私を嫌おうとどうでも良い事だ。

クライアントの望みを叶える為に私は動くだけだ。

そして報酬を得る。そういう仕事だ。


彼女は執事が差し出した銀の盆から小切手帳を取り、

ペンで金額を書き込んだ。

さりげなく私はそれを見た。

端正な字で数字が書き込まれる。

だが、


「奥様。」


私は彼女に呼びかけてそれを遮ると、ペンの動きが止まった。


「金額にご不満でも。」


訝しげに彼女は聞く。少々不機嫌そうな声だ。

私は慌てて手を振った。


「そうではありません。出来れば御支払は電子マネーでお願いしたいと。」

「あら、そう言うご契約だったかしら。」

「いえ、お支払方法には特に決まりはありません。

そしてそのお支払は依頼物を確かめる前にお願いしたいのです。」


彼女の近くに立っている執事の顔つきが変わった。


「……君は奥様を馬鹿にしているのかね。」


彼は低い声で唸るように言った。


「不渡りでも出すとでも言うのか?

確かに小切手は銀行で換金しなければならないから

電子マネーほど素早く手には入らんが、そんな失礼な口を…。」


不穏な空気が漂う。


「いえ、そんな事はありません。

当然これがご依頼のものでなければその場でお返ししますよ。」

「しかし……。」

「いいのよ。」


彼女が静かな声で言った。


「いいのよ、あなたの言う通りにします。持って来てちょうだい。」


少し悔しげな顔で執事が私を睨み、

奥に入るとキャッシュポケットを持ってすぐに戻って来た。

彼女はそれを受け取り、開く。


続いて私も自分のキャッシュポケットを取り出し素早く通信を行うと、

画面に契約の金額が表示された。


「はい、間違いなく受け取りました」


私は頭を下げた。


「でも思ったより良心的なお値段ね。もっとかかると思ったわ。」


私は笑う。


「正直が一番と思っていますので。」


私は自分のキャッシュポケットをテーブルに置いた。


「では奥様、どうぞお試し下さい。」


彼女の返事はなかったが、静かにオペラグラスが持ち上がった。

少し震えているようだった。


それはゆっくりと帽子の近くに上がると、

遠くを観る時と反対の向きになった。


「あっ。」


彼女の声だ。


グラスが下に落ちた。

私の目がそれを追う。


そしてすぐに彼女を見ると帽子が一瞬浮いた。


風に揺れてリボンが飛行機雲のように長く伸び、

海へと帽子は飛んで行く。


そして白い両手の手袋も風に乗って浮き上がった。


執事がそれを取ろうと慌てて手を伸ばした。

彼の長い指がやっと一つを掴んだが、

もう片方は帽子と一緒に海へと飛んで行ってしまった。


「奥様ぁ……。」


悲痛な執事の声が響く。


彼は帽子が落ちて行った方向のテラスの手すりを強く掴み、

下を覗き込んだ。


波打つ青い海が崖にぶつかり白い波を立て、

そこに帽子はしばらく浮いていたがそのうち海の中へと沈んで行った。


「奥様……。」


彼はがっくりと肩を落とした。手袋を掴んだ手が震える。

私は無言で落ちたオペラグラスを拾った。それにはどこにも傷は無い。

それを再び箱に戻すと私は執事を見た。


彼も私を見た。その目には涙が溜まっていた。


「だからお前が来るのが嫌だったんだ。」


彼は忌々しげに私に言った。


「すまないね。それでも私は何度か依頼は断ったんだよ。」

「それは知っている。」


彼はしょんぼりとした様子で私がいるテーブルに来ると椅子に座った。


「私も何度も奥様に思いとどまるように言ったんだ。

だが奥様は私の言う事など聞いては下さらなかった。」


彼は手の中の手袋を見た。


「だからお前が探せなければいいのにと祈ったが、

まさか本当に持ってくるとは。

幻ではなかったのか、忘却レンズは。」


彼は箱に入った小さなオペラグラスを見た。


「全てを忘れてしまう幻のレンズだ。

一体誰が作ったのか知らないが、奥様はそれを知ってから人が変わってしまった。

体もすっかり透明になってしまった。

……お前はそれをどこで手に入れたのだ。」


彼の目から涙がこぼれる。

私は少しばかり彼が憐れになったが、今更どうしようもない。 


「幻ではない。私は銀河の片隅の忘れられた博物館でこれを見つけた。」


私はその忘却レンズを見つけた時を思い出した。


古代の文献を調べ、最後に存在したと思われる星系まで赴き、

長い間それを探した。


そして岩山の中に作られた、訪れる人もいない博物館で私はそれを探し当てた。


そこの管理人が実際に体を持つ生き物であったかも私には定かではない。

だが、扉のベルを押すと、何者かが現れて私をレンズの前へと導いた。


私は管理人にこれを譲って欲しいと頼んだ。

金ならいくらでも出そう、私はそう言った。

だが、彼(彼女?)は金はいらないと言う。

ここを出たら扉をきちんと閉めて欲しいと言った。


「そんな事で譲ってもらえるなら安いものだ。

だから私はそれを埃の中から出して持って帰ったのだ。

あれは何年分の埃だろうな、

まるで綿のような柔らかい光る埃だった。

何千年分かもしれない。」


私の話を聞く執事の涙は既に乾いていた。

彼の様子からするとこの星から出た事は無いのだろう。

ある意味では彼は女主人に繋がれた忠実な番犬だ。


今まで自由など感じた事はなく、それを知る必要もなかったのだろう。


「それで扉は閉じたのか。」

「ああ、私は挨拶もそこそこに外に出た。

何しろ依頼を受けてから何年か経っていたからな。

そこを出て大きな扉をきちんと閉めた。

そして何十メートルか歩いて後を見たらそこはもうなかった。

ただの岩山だった。」


執事はそれを聞いて大きく溜息をついた。


「信じられるものか。」


彼は私の話にしばらく気を取られていたのを恥じたのか、

顔を背けて冷たく言った。


「別に信じてもらわなくても良いよ。どちらにしても私の仕事は終わった。」


私はぬるくなったジュースを飲み干した。


「ところで、」


俯いている執事に私は聞いた。


「彼女は一体何を忘れたかったんだ。」


彼は手の中の手袋を見ながら呟くように言った。


「奥様は全てを忘れたがっていた。

旦那様やお子様やこの星での出来事を。

全てを無くしたあの時から奥様の体は薄くなっていった。」

「全てか。

忘却レンズで生きることも忘れてしまったんだな。

だからついに透明な体すら無くなってしまったんだ。」

「そうかもしれない……。」


彼は手袋に顔を押し付け、くぐもった声で言った。


「さて、」


 私は席を立った。


「そろそろ私は失礼する。これ以上私がいても何もならないだろう。」


私はテーブルの上の箱を彼の前に差し出した。


「良ければこれは貴方が持っているといい。

私は代金を貰ったから持って帰るわけにはいかない。

売ればいくらかになるだろう。」


だが彼は首を横に振った。


「いや、いらない。

私は奥様から何かあった時のために事後処理を頼まれている。

そしてそれに見合う給金も貰った。もう金はいらん。」

「それはそうだが、これのもうひとつの使い方が役に立つかもしれないよ。」


彼はしばらく考えていたが薄く笑うと再び首を振った。


「私は奥様を忘れたくないし、もう一つの使い方も必要ない。

私にはこれで十分だ。レンズは持って帰ってくれ。もう見たくない。」


彼は手に握った手袋を胸に当てた。


「そうか。分かった。何かあれば連絡してくれ。」


私はそれを鞄に入れた。

少しばかり胸が痛むが、金を返せと言われたらレンズを返せばいい。


「もう連絡なんぞしない。」


彼は吐き捨てるように言った。





やがて私は帰途に着き、乗り込んだ列車が駅から走り出した。

しばらく海の上を列車は走る。

私はその時忘却レンズを取り出し、遠くを観る時のようにそれを覗いた。


そこには午後の黄色い光を反射した濃い色の海が広がっていた。


そしてそれを背景に白い帽子と手袋が見えた。

体があるはずの所にはやはり海と空しか見えなかった。


「ああ、そうか。」


私は呟いた。


忘却レンズを遠くを見るように覗くと

思い出したい出来事の全てを再び見る事が可能なのだ。

だが、私は一度も彼女の顔を見た事がなかった。

思い出せるのは帽子と手袋だけだ。


濃い色の海の中で帽子と手袋の白さは目に染みた。


そして列車はスピードを上げると大地を離れた。

大気の色はすぐに深くなり、

銀河の星が暗闇の中で瞬きもせずに光りだした。









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