視聴される妻

北見崇史

視聴される妻

 妻は、あまり欲しがらない。

 予算の制約がきびしい養護施設で育ったせいか、物を欲しても手に入らないことが多かったからだろうと思う。同棲している時から、贅沢な望みを言われることはなかった。

 俺は正社員ではないので、給料は時給だし、ボーナスなんておいしそうなお金をもらったことがない。たぶん、一生お目にはかかれないだろう。せいぜいあって、餅代か寸志だ。正直言って、かなりの節約をしないと生活もままならない。新婚だというのに冴えない話だ。

 もっと収入を増やしたかったが、いまの職業では無理な相談だ。いっそ辞めて転職しようかとも考えたが、結婚したてなので、一時期でも不安定な身分になるのは避けたかった。

 学歴も能力も平均以下で歳もいっているし、どうせロクなところに就職できまい。天涯孤独な俺には、親戚や友人のツテで仕事を紹介してもらう、ということは望み薄だ。妻ともども頼るべき人はいないので、二人で生きてゆくしかない。

 甲斐性がなくて申し訳なく思っているのだが、彼女は俺の稼ぎのことで不平を言ったり、愚痴をこぼすことなく家計を切り盛りしてくれている。清貧になれているとはいえ、申し訳なく、そしてありがたいと日々感謝している 

 妻は膝の具合が悪く、歩くのにも難儀するほどに悪化してしまったので、仕事をせずにアパートで専業主婦をやっている。もともと免疫にかかわる難病があったのだが、一緒になってから悪くなってしまった。彼女が働いてくれたら生活もカツカツではないのだが、痛む膝をおして家事を頑張ってくれている。これ以上を望んではいけないだろう。

 ほぼ一日中狭い部屋にいて退屈しないのかと心配するのだが、彼女なりのルーティーンがあって、あんがいと本人は気にしていない。かえって、居心地が良さそうな感じがする。

 そんなドメスティックな妻には、趣味というか楽しみがあって、それはインターネットの無料サイトで映画を視ることだ。

 邦画洋画を問わず映画には詳しく、またあきずに何度でも視るのが得意技だ。ただ我が家のパソコンはだいぶ古くて、ときどき作動不良を起こして画面がフリーズしてしまう。俺などはイライラしてしまい、思わず叩き壊してしまいたい衝動に駆られるのだが、妻はTティーバッグの紅茶などを入れて、一息ついてから対処する。すると、どうにかこうにか動いてくれるのだった。

 だがある日、だましだまし使っていたパソコンがついに壊れてしまった。スマホでも動画は視られるが やはり大きな画面でなければ楽しさが半減してしまう。ガッカリした妻の心情が、こちらにも伝わってきた。欲しがらない性格のためか、彼女からのリクエストはなかった。子犬のように小首を傾げて、じっと見つめている姿が哀れであった。

 新しいものを買ってはどうかと言うと、ウンという返事とともに、中古で充分だとも返ってきた。新品はたしかに高い。冷蔵庫も電子レンジも古いのを使っているので、予算があるならば、そちらを優先したかったのは妻も同じだ。できるだけ穏便な値段で済ませようという提案に異論はなかった。


 休みの日に、俺たちは近くのリサイクルショップに出かけた。自家用車ではなく、ママチャリの荷台に座布団を縛りつけ、そこに妻を乗せてのツーリングとなった。

 その中古品店はよくあるチェーン店ではなく、いかにも個人営業といった廃れた感じだった。店構えも相当に貧弱で、外から一見しただけでは何屋だかわからない。中に入り、無造作に配置されている雑多な品物を見て、初めてどういう商売をしているのかがわかる感じだ。

 店主の中年男は黒いニット帽をかぶり、銀縁メガネをかけ血色の悪そうな顔で奥に座っていた。狭苦しい古本屋の奥に座っていそうなタイプだ。客が入ってきたのに、迎えの言葉一つもない。顔すら上げず、ただじっとしていた。存在感と商売根性が、まるっきりないように見えた。

 店内はカビの臭気が充満している。やたらとコバエが飛んでいて、時おり見たこともない甲虫が、ブーンと大きな羽音を響かせながら目の前を横切った。貴重な生き物を踏み潰してしまわないように、俺たちは慎重に歩いた。

 置いてある商品は電化製品が多かった。どれも埃をかぶり汚くて、しっかりと動くかどうかが怪しい、いわゆるジャンク品ばかりだ。ビデオデッキやラジカセなどの古めかしいものが目に付く。アラサーの俺は知っているが、中高生あたりは、それらの機器が何であるかわからないのではないか。  

 ゴミのような骨董品はあるが、パソコン類が見当たらない。これは違う店に行ったほうがいいなと思っていた時だ。

 妻が呼んでいた。いつになくはしゃいでいて、塗装が剥がれて錆びだらけになった鉄製のラックを嬉しそうに指さしている。

 そこにはノートパソコンが六台ほど陳列してあった。ほかの品物はジャンク品ばかりだが、ノートパソコンに限っては比較的きれいな状態だ。OSも最新がインストールされていると、手書きのポップが張り付けられている。これは期待できそうだ。

 さっそくヒマそうにしていた店主に値段を聞いたところ、驚いたことにどれもが三千円だという。ただし左端にある一台は売り物ではないので触らないでほしいと言われた。妻にそのことを告げると、予想外の格安さに驚き、珍しくほくそ笑んでいた。足が痛いのも忘れて、嬉々として品定めを始めている。

 女の買い物は長くかかるものだ。まともに付き合っていたらこちらが疲れ切ってしまう。眉間にしわを寄せてノートパソコンを吟味している妻から離れて、時間潰しに店内をブラブラとしていたが、とくに珍しいものがあるわけでもなくすぐに飽きてしまった。外の空気にでもあたってこようかと歩を進めると、出入口のところに妻がいた。足元に大き目なバッグが置いてある。お目当てを買ったようで、にんまりとした笑顔が説明してくれた。

 パソコンバックは店のサービスということで、かえって本体よりも高いかもと舌を出す。その日は自宅近くのうどん屋で昼食をと思ったが、アパートに帰って早くパソコンを立ち上げたいと妻が言うので、スーパーでインスタントラーメンと菓子パンを買って帰った。妻はいつもの倍ほど饒舌であり、痛い膝をどこかに置いてきたかのように、軽やかに階段を上がった。

 買ってきた中古のノートパソコンは、性能的に全く問題なかった。動作はサクサクと早く、動画を視聴しても途中でフリーズしてしまうこともなかった。妻は十二分に満足したようで、いつもの口数の少ない女になって、画面を凝視し始めた。これで義務を一つ果たしたような気がして、俺はなんだか気分が落ち着いた。


 それから、いつもの変わりない日々を送っていると、妻が妙なことを言い始めた。

デスクトップ画面の壁紙が変化しているらしいのだ。最初は言っている意味がわからなかったが、どうやら壁紙にしている画像が、少しずつ変わっているのだそうだ。

 妻がデスクトップ画面の背景にしている画像は、樹木が一本も生えていない枯草だけの丘陵地に、石造りの塔が一つ建っているというものだが、雲の配置が変わったり、誰もいなかった塔の窓から人が覗いていたりするとのことだ。ちなみにその画像は、買ったときからの設定らしい。

 きっと壁紙が変化するソフトがインストールされているのだろうと言うと、妻は訝しそうな表情を浮かべながらも頷いた。

 ただどうしても気味が悪いらしく、なんとか操作して削除しようとしたができなかった。なぜ削除できないのかしらと妻はぶつくさ言っていたが、壁紙など取るに足らぬ些細なことだと思い、俺はあえて首を突っ込もうとはしなかった。

 少し趣味に合わない画面が気になっていたようだが、妻は毎日パソコンにかぶりついていた。足の痛みがひどくなり外出は極力控えるようになったので、狭いアパートでは、なおさらやることがない。もちろん、趣味にかまけて家のことをサボることはなく、俺が帰ると、いつも温かい食事が用意されていた。

 そうしたある夜、夕食のチャーハンを食べている最中に、俺は妻の様子が少しばかりおかしいことに気がついた。

 彼女の喋り方や言葉、態度、雰囲気が地味になったというか匂いがないというか、とにかく全体に霞がかかっているような感じがした。

 端的に言うと、薄いのだ。

 いつものような熱量と重力が減っている気がしてならない。最初は体調が悪いのだろうと思った。だが顔色が悪くなるならまだしも、その存在自体が薄くなるというのは普通ではない。確かめたいわけでもないが、ふと妻を抱きしめてみた。

 唐突であったので、彼女は戸惑っていた。今日は膝が痛いのでと、か細くつぶやく。恥じらいだろうか、そんな妻を愛しく感じている時、衝撃的な事実に気づいてしまった。

 

 軽いのだ。


 大人の女を抱いているという感じではなかった。ぬいぐるみか人形のようなのだ。

妻の体重はこれほどまでに軽量だったろうか。じつは彼女の身体に触れるのは久しぶりだ。彼女の膝の具合が悪いのと、シフトが増えて俺自身が疲れてしまい、男女の関係がしばし疎かになっていた。以前の重さを思い出せなくなっている。

 妻に体重のことは訊けなかった。そもそも身内といえども、女性の身体的なことを詮索するのは失礼である。妻は、自分のような冴えない男に寄り添ってくれる稀有な女性なのだ。むやみに怒らせたり、気分を害させるようなマネはしたくなかった。彼女に対する遠慮と戸惑いが、いまだ俺の心をきつく縛っている。好きだから、とても愛しく思っているから、その躊躇いが消えることはまだまだ先になる。 

 俺は、妻の異変を気にしないようにした。膝の痛みのせいで痩せたのだろう。あるいは一日中アパートの部屋にいるので、運動量が落ちて食欲がなくなったとも考えられる。ひょっとすると、俺との結婚生活にストレスを感じているのかもしれない。

どれにせよ、彼女自身が体調不調を訴えているわけでもないので、しばし様子をみることにした。そのうち、元の重さに戻ることを期待した。


 だが、日ごとに事態は良くない方向に向かっていた。妻の気薄さが顕著になってきた。

 ある日の夜、俺が残業を終えて帰宅したとき、妻は台所の隅でうずくまり、取り込まれる、取り込まれると泣きながら何度も呟いていた。一体どうしたのか、取り込まれるというのはどういうことなのか、俺はもっと具体的な理由を欲した。すると彼女はパソコンだと言った。あのノートパソコンを指さしながらガタガタと震え、しまいには泣き叫び始めた。

 妻が落ち着くまでしばらく待った。まだかすかにわなないている肩を抱いて引き寄せたが、紙かと思うほど軽くて驚いてしまった。唇がひび割れていたのでコップに水を注いで渡そうとしたが、彼女はそれを飲むのが辛そうだった。わずか数百グラムのコップを、とても重く感じているようなのだ。

 妻は言った。

 自分の半分以上がノートパソコンの中にあると。あの平べったい電子機器に,彼女の生命力が取り込まれているのだと、蚊の鳴くような声で訴えた。

 は?

 わけが分からなかった。取り乱している妻以上に俺が錯乱しそうだった。

 ノートパソコンはただの機械であって、人を喰ったり生気を吸い取ったりする化け物ではない。あの薄っぺらいただの箱が、妻の命を吸い取っているというのか。そんなことが起こりえるはずがないが、漏電や体に良くない化学物質の使用など、なにかの異常が発生したとも考えられる。

 丸テーブルの上にあるノートパソコンに駆け寄り、ただちに起動させた。立ち上がるまでの時間が、とても長く感じられた。イライラしながら画面を見ていると、後ろから妻の悲鳴が聞こえた。すぐに取って返し、彼女の様子を確認した。息も絶え絶えで、まん丸に開いた瞳が危機を訴えている。

 俺はノートパソコンを調べることを諦めて、すぐにシャットダウンした。もしも、このノートパソコンが原因なら、起動させておくのは危険だからだ。

 しかし妻の容態は、いよいよ見過ごせないレベルまで悪化していた。もともと青白かった顔色からさらに血の気が引いて、そしてなによりも薄さがハッキリとわかるようになった。触った感じも変だ。人に触れているのではなく、圧力のある空気を掴んでいるようだ。

 どうしたらいいのかわからなかった。

 救急車を呼ぶか、警察に通報するか、それとも超常現象の専門家を手配すべきなのか、焦燥に駆られながらも大いに悩んだ。なによりも妻が衆目にさらされるのは避けたかった。

 今はネットの世の中だ。あることないこと騒がれては彼女の心が傷ついてしまうし、俺たちの慎ましやかな生活も壊されてしまうだろう。妻は医学的な見地から、あるいは科学的に考慮して、どこかの施設に隔離されてしまう可能性もある。そうなると、俺たちは離れ離れになってしまう。

 これは絶対に自分たちで解決しなければならない。俺に思いつく解決策はただ一つだ。ノートパソコンを買った店に行って、どういうことなのか店主に問い糺す。そして妻を元通りの姿に戻す方法を訊きだして、いつもの平穏な生活を取り戻すのだ。 

 気薄になった妻を一人アパートに置いておくのは気が引けるが、この状況ではやむを得ない。俺たちにはとくに親しい知人もいないので、第三者に頼れない。たとえ誰かに世話になるとしても、なんと説明したらよいのであろうか。妻を見た途端ビックリするだろうし、あれやこれやと興味本位に騒がれてもたまらない。秘密にしてくれと頼んでも、必ず洩れてしまうだろう。他人には頼れない。

 落ち着いて俺の帰りを待つよう妻に言って、アパートを出た。暗い夜道を全速力で自転車を走らせて、あのリサイクルショップに向かった。慌てているために、途中で駐車している車の側面にハンドルをぶつけ傷をつけてしまった。申し訳ないと心の中で謝りながら、かまわず突っ走った。

 あの店はシャッターが下ろされていた。正面から入ることができないので、後ろに回って裏口のドアを見つけて蹴とばした。

 中に入ると真っ暗だった。照明のスイッチを探そうとしたが、不案内の店舗で見つけるのは困難だ。おーいおーいと店主を呼ぶが、返事は皆無である。雑多なガラクタ類に躓かないように注意しながら進むと、レジ台の辺りが仄かに明るくなっているのに気がついた。そこに行くと、レジが載っているテーブルに、一台のノートパソコンが起動していた。あの店主の姿は、どこにもなかった。

 画面を覗くと、OSは立ち上がっている状態であり、背景の画像は妻が使っているのと全く同じだった。樹木が一本も生えていない枯草だらけの高原に、六角柱の石造りの塔がただ一つ建てられていた。まばらな雲が、丘陵地帯に降り注ぐ乾いた陽光をところどころ遮っている。寂寥感の中にも凛とした空気があった。俺はこの壁紙が嫌いではなかったが、妻は気味悪がっていた。背景が微妙に変わるし、石造りの塔の中に人がいることがあると言っていた。

 ん、なんだ。

 突然、画面がズームインした。たしかな降下を感じながら、俺は壁紙の風景の中に入ってゆき、いつの間にかそこに立っていた。いや、そういうリアルな感覚があった。


 えもいわれぬ臨場感を味わいながら塔へと歩いて、そして中に入った。薄暗い室内を通りすぎ、螺旋階段を上へと昇ってゆく。二階にも同じく薄暗い部屋があった。中央に木製の丸テーブルがあって、誰かが座っている。グラスがおかれた机に両ひじをついて、口のあたりで手を組んでいた。どうやら、ノートパソコンを買った時の店主のようだ。

 彼は俺を手招きして、対面の席に座るように促した。そしてこちらが何か言おうとする前に、事情を説明し始めた。

 店主の話は、一言でいえば荒唐無稽だった。とても信じられない内容で、そのあまりのバカバカしさに、彼の説明を聞いているうちに画面を叩き壊したくなった。まるで中学生が喜びそうな怪綺談だ。ヘタな都市伝説のたぐいといってもいい。一蹴して背を向けようと思った。

 だが実際に、その怪奇が妻の身に降りかかっているではないか。しかも、事態は極めて深刻で、一刻を争うほど切迫している。無視することできないだろう。俺は黙って聞くしかなかった。


 これは、痛みの{粗物}だと、店主は言った。

(痛み)は理解できるが{粗物・あらもの}とは何だ。まったくわからないぞ。リサイクルショップの用語なのか。洗っていない中古製品とかなのか。

 違うと、一蹴された。

 では、なんだ。

 店主は説明を続ける。

{粗物}とは、有史以来に作り出された装置、あるいは生き物、または場所である。それらは世界各地に散在していて、人知を超えた特殊な能力を有している。時には有益で、ほとんどが災厄の類の、通常ではありえない現象を引き起こしたりするのだ。

外国では{オブジェクト}と呼ばれていて、あまりにも怪奇で超常的、不可思議な性質や能力を有しているために、専門に取り扱う財団が存在している。発見された{粗物}は、その財団に研究・保管されて、ぞれぞれの特性や危険度によって分類され、ナンバーを与えられている、とのことだ。

 このノートパソコンも{粗物}の一つである。その特異な性質として、人類が経験したすべての苦痛が記録されていると、グラスのウイスキーを喉の奥へと一気に流しながら言った。{粗物}の本体であるプログラムが、この電子機器に綴ったということだ。

 苦痛はテキストとして閲覧できる。原始時代の争いから始まり、古代の大規模で野蛮な戦争、反逆や魔女狩りなどの中世の拷問、近代の悲惨な労働、暴力や麻薬の抗争、権力者や金持ちの嗜虐など、それらは数限りない苦痛である。

 プログラムがどこで、誰の手によってつくられたのかは謎だった。出処と経緯が不明であるが、{粗物}の多くはそういうものらしい。

 このノートパソコンは、川原に積まれた不法投棄のゴミの山で、偶然発見したそうだ。仕事柄、そのような場所に足が向く。たまに金目のものが捨てられていたりするからだ。

{粗物}が出現すると、財団がすぐに嗅ぎつけて回収するのだが、その捜索の網から洩れることもある。それが有する能力が魅力的である場合、発見者が隠して所有することとなる。このノートパソコンは、手放すにはあまりにも惜しい逸品であったのだ。

 読み続けてしまった、と店主が言った。

 虐げられた女たちの記述が、彼の心をえらく抉ったそうだ。あまりにも過酷で残虐、憐憫の欠片さえない内容だった。その救いのなさに何度も吐いたが、ある種の倒錯した淫靡さも著わされていて、なんとも表現できない気持になった。

 文字を追っていくうちに、女たちの悲鳴と嗚咽が耳の奥で鳴り響いたと、彼は少しばかり興奮しながら言った。絶え間ない暴力に蹂躙され、極限の苦痛に苛まれた女たちが、確かな血の匂いを伴って眼前に現れるとのことだ。

 臨場感という生易しいものではない。まさにその現場にいたのだ、と店主は言った。ウイスキーに手を伸ばすことなく、真剣な眼で私を見つめている。表示された文字を読むことは現実への遭遇であると語った。

 つまり、そのテキストを読むと、その記述通りの生場面に遭遇することになる。テキストはまさに活動する文字であり、生身の実写であった。  

 これは凄まじい価値がある。財団のみならず、誰の手にも渡すことはできない。手元に残しておかなければ絶対に後悔すると確信したようだ。

 財団の調査員が事情を訊きにやってきた。とりあえずはすっとぼけたのだが、しつこく嗅ぎまわっていた。彼らの調査能力と権力は絶大であり、見つかって取り上げられるのは時間の問題だった。

 店主はノートパソコン内にあるデータのクローンをつくって、別の一台に保存した。部分的なコピーではなく、全体となるクローンにしたのは、{粗物}としての超常的な能力を棄損しないためだ。

 確証を得るまでいかなかったのか、財団にノートパソコンが回収されることはなかった。クローンを作ったのは余計だったかと思いつつも、二台とも手許においた。そうして毎日毎日、禁断の文章を眺めては苦痛の世界にどっぷりと浸かったのだ。

 心躍るような文体が暴虐の地平を極め、読み手の不可侵で柔らかなヒダを存分にくすぐった。その内実に触れたものは、人類が経験した血と苦痛まみれの世界に、心ゆくまで溺れてしまいたいと切願する。快楽と対極にあるモノが、ある種の傍観者には魅力的すぎた。それは究極の嗜虐であり、異常な好奇心の尽きることのない地平でもあった。

 だが、と彼はつづけた。その電子機器に心が虜になっただけではなった。信じられないことに、人間そのものが引き込まれ始めたのだ。

 最初は何だろうと思った。身体がだるくて、妙にふわふわした感じだった。軽い風邪だと気にしなかった。どことなくおかしいとは感じつつも、毎日毎日{粗物}の世界にのめり込んだ。

 そうしてある時、ノートパソコンを前にして居眠りしてしまった。まどろみから醒めて辺りを見渡すと、まったく知らない場所にいた。乾いた空気が澄みわたった晴れた空に、いくつもの惑星が浮いていた。超巨大なビル群が立ち並ぶ近未来の下町を、見たこともない乗り物で疾走していた。天井や壁がない教室で、秋の夕暮れに照らされながら一人の男子生徒が机に腰かけていた。とても現実にはあり得ない幻想的な光景の数々があり、それらは、彼がノートパソコンに保存したネットの画像であった。

 忌まわしい文章が保存された電子機器に、魂と肉体が引きずり込まれてしまったのだ。妻と一緒に買い物をした時、店主はそこにいたのは確かだが、あれはすでに実態のほとんどがノートパソコンの中にあった。実際に座っていたのは、薄っぺらな投影に過ぎなかった。買い物を終えた妻が、自転車の後ろで言っていたことを思い出した。

 店主にお金を渡すとき、その手を通り抜けて机に置いてきてしまったそうだ。きっと直前で手を引っ込めたのよ、と妻は笑っていたが、それは違う。その時すでに、彼の存在の大部分はそこになかった。魂と肉体が{粗物}に取り込まれ、霞のような影が映し出されていたにすぎなかったのだ。

 妻はよりにもよって、触れてはいけないシロモノを選択してしまった。陳列していた中で、もっとも傷み具合が少なくてきれいだったからだ。

 ネットで動画ばかりを視ていたので、痛みの記述(ファイルはCドライブの奥深くの階層にある)を読むことはなかったが、超常的な作用をする危険物を操作していたことにはかわりない。何故そのようなものを商品棚に置いていたのかを責めたが、店主は力なく首を振った。

 取り込まれてしまったこの男には、どうすることもできなかった。警告しようとしても、言葉と態度のほとんどが{粗物}に封殺されてしまう。男は薄っぺらな影となって、応対するしかなかった。だから左端のはダメだと言ったんだ、と店主は言い訳した。そのセリフを絞り出すだけでも相当な苦労だったらしい。

 俺はもうダメだと、その男は呟いた。

 ここから抜け出すことは不可能だ。未来永劫、この小さな箱の中で囚われの身となって{粗物}に弄ばれるのだと、頭を抱えていた。この男の身に降りかかったことは気の毒に思うが、俺には最も優先しなければならないことがある。

 無駄だと思いつつも、妻の救出方法を問うた。男は首を振った。魂の領域を侵食されたら戻ることはできないと、自身の胸を何度も叩いた。俺は意気消沈してしまった。この男の有様を見て望みがないことがわかったからだ。あきらめて立ち去ろうと、荒野に建つ塔の扉を開けようとした時だ。

 男が一つだけ方法があるかもしれないと言った。すぐさま振り向き、その希望の詳細を訊いた。それは電子的でテクニカルな操作だった。俺にも何度か経験があった。

 リカバリである。

 パソコンのOSやその他のプログラムを初期状態に戻すことだ。

 やり方によってはプログラムだけ初期化して、データを残す方法がある。男はそれをするのだと言った。この場合のプログラムとは{粗物}のことであり、データは妻のことだ。元凶だけを消し去れば、もはやその力は及ばない。そうすれば、この尋常ならざる呪縛から解放される。

 もとに戻ったら、あのノートパソコンを破壊しろと付け加えた。その方法なら、あなたも助かるのではないかと言うと首を振った。店主の場合は完全に取り込まれてしまったので、リカバリで、{粗物}ごと消去されてしまうとのことだ。彼の存在も、データではなくプログラムに絡みついてしまったからだ。

  

 俺はアパートに帰った。妻にさっき起こったことを説明して、すぐにリカバリをすると告げた。彼女はもう、霞を通りこして実体がつかめなかった。まるでタバコの煙に話しかけているようなのだ。

 パソコンの電源を入れると、OSが起動してデスクトップ画面になった。背景は荒野の丘陵地帯に一軒だけ建つ例のあの塔の風景だ。建物前の小さな庭に人影があった。妻が寂し気にこちらを見上げている。すでに、この呪われた電子機器に相当な領域を奪われてしまっている。

 リカバリのやり方は、あの店主に教えてもらった。いくつかのキーを何度か叩くだけで、それほど難しい知識や技術は必要なかった。しかし、絶対に間違わずにやり遂げるのだと警告を受けた。もし一度でもキー操作を違えれば、そこでリカバリは終了となり二度とできなくなる。消去という行為に怒った{粗物}が、ノートパソコン内にあるすべてのデータを完全に取り込み、果てしなく凌辱するだろうと言っていた。妻の命運は、俺のキー操作にかかっているのだ。

 ひどく緊張しながら、ノートパソコンのキーを一つ一つ打ち込み始めた。OSとは違う見慣れない画面に貧弱な思考力が戸惑った。指先の脂がキーに付着し、滑るような感じがして動揺した。後ろが気になって振り返ると、霞のような妻が、さらに空気の中に溶け込んでいた。もう、それが人であるのか空虚であるのか判然としなかった。柳の下の幽霊のほうが、よりリアリティーがあるだろう。

 急がなければならない。さっさとリカバリをやり遂げなければ、妻はこの呪わしいノートパソコンの中へ永遠に飲み込まれてしまう。

 手順は予想していたよりも簡単であったが、なにせ俺は冷静さを欠いていた。ふつうに操作すればいいものを、ミスをしてはいけないと臆するあまり、過分にスローな動きとなってしまった。

 後ろで様子を見守っている妻の残像がなにか言っていたが、その声も姿と同じでか細い。俺の背中に到着する前に、声の軌跡は床へと落ちていた。だからあまり聞き取れていなかったのだが、最後に発したある言葉だけは認識できた。それは思いもよらぬ衝撃を俺に与えた。ちょうど最後のキーを押そうとする、まさにその瞬間だった。

 妻は妊娠していると言った。

 妊娠という単語がはっきりと聞き取れた。画面上にはdelete(消去)の文字があり、YESかNOの選択をしなければならなかった。{粗物}を消去するにはYES押すのだが、俺は固まってしまった。まだ見ぬ赤ん坊の姿を心に描いてしまい、消去のキーを押すことが、子供を消すことであるとの間違った考えに囚われた。そして混乱した状態のまま、絶対にやってはならぬ操作をした。

 NOのキーを押してしまったのだ。

 突如として画面が光った。一瞬目がくらみ、数秒ほど目を瞑らざるをえなかった。光がおさまったので画面を見ると、デスクトップに動画プレーヤーのソフトが起動していた。  

 しかも、すでに再生されているではないか。ネットから動画を拾いストリーミングが始まっているようで、それは俺がよく知っている映画だった。シリーズものになった有名なホラー映画で、化け物のような怪男が若者たちを次々に惨殺していくという内容だ。ホラーが好きな妻はよく視聴しては、次はこうなる、この人が殺されると教えてくれたものだ。

 ああ、だがなんてことだ、その映画の中に妻がいるではないか。オープニング字幕が消えるか消えないかのタイミングで、いきなり登場した。

 妻は夜の岸辺を、息を切らせながら走っている。アップになった顔が見たことのないほど歪み、あきらかに何ものかに恐れ慄いているようだ。俺は後ろを振り向いた。あの霞のような連れ合いの気配は微塵もなかった。そうだ。妻は完全に取り込まれてしまったのだ。

 ハッとして画面を視た。

 映し出されているのは、暗闇を走っていく妻の後ろ姿だった。主観映像らしく、カメラが付かず離れず追っている。ホラー映画ではありきたりのカメラワークだ。しかしそれは、もっとも危険で最悪のシーンを示唆するものだ。

 アイスホッケーのキーパーが被る面をつけた大男が、大きな鉈を振り上げて追っていた。効果音がズンズンと腹の底に響き、妻の運命を絶望的な方向へ導いていた。画面に食らいついた俺は、これから何が起こるのか、固唾をのんで視るしかなかった。

走り続けた妻が大木を背にして呼吸を整えていている。悪鬼のごとき追跡者を振り切ったと安堵した刹那、大男の鉈が彼女の頭部に振り落とされた。

 スイカを勢いよく割ったように血が飛び散った。妻は瞬時に絶命し、白目をむいた死体をだらしなく晒した。たまらず俺は絶叫したが、すぐにそれは映画の中の一シーンにすぎないことを思い出した。直ちにプレーヤーを停止させて、惨劇を中断すればいい。 

 できなかった。

 必死にマウスをクリックしたり、キーボードを叩くが止まりはしない。ならばと、コンセントからプラグごと引っこ抜いたが無駄だった。電力は内部のバッテリーから供給されているようで、それは取り外しができない仕様なのだ。一度再生された動画は、エンドロールが流れるまで続くようだ。しかもどういうわけか、俺が視聴している限り、妻は何度殺されても、次のシーンで違う配役となり再び出演するのだった。

 動画が再生されている間、俺の伴侶はひたすら殺害され続けた。ボーガンの矢に目を射抜かれ、チェーンソーで頭部を切断されたり、ベッドで寝ているとマットレスごと突き刺されたり、とにかく惨い殺され方だった。画面いっぱいに血肉が飛び散り、その生臭さにむせ返るほどだ。あまりの残虐シーンに吐き気が込み上げてきた。動画を視なければいいのだと気づき、一時は目を背けたりしたのだが、どうしても気になって視てしまう。

 二時間近く視聴し続けて、ようやく動画が終わった。俺はすぐさまノートパソコンを閉じた。しかし、これからどうしたらいいのかわからず途方に暮れた。自分のミスが原因で妻を救えなかったどころか、殺人鬼のエジキにしてしまった。しかも繰り返し繰り返しである。

 取り込まれてしまった妻は、彼女が好きだったホラー映画と関連付けられていた。ネットに接続しなければ、ノートパソコンはプレーヤーを起動させないのだが、そうすると妻はどこにもいなくなってしまう。皮肉にも、彼女が生きていることを実感するには、映画の中で殺され続けなければならない。

 そうだ、もう一度やってみよう。殺されたのはプログラムの中でのことで、彼女自身の魂は生きているはずだ。リカバリを今度こそ成功させ、{粗物}を消去し妻を救い出すのだ。

 俺はさっそくリカバリを試みた。だが、そこへはどうやっても進めなかった。何かのキーを押すと、すぐさまあのプレーヤーが起動し、ネットから動画を拾ってくる。それはまたしてもホラー映画であった。火傷顔の殺人鬼が、特異な状況下で人を惨殺していくという筋書きだ。 

 ベッドで妻が眠っていた。彼女は夢を見ている。浅いまどろみの中で、どこかの廃工場の内部をさまよっていた。暗い構内に錆臭さとボイラーの熱が充満していて、これから起こる凶事を予感させていた。カンカンと金属を叩く音が響き、火傷顔の殺人鬼が、手に鉄製の爪サックをつけてやってきた。そして獲物を見つけると面白おかしくいたぶった後、血祭りにあげるのだ。

 動画が終わる時間いっぱいまで、妻は蹂躙され続けていた。画面にドス黒い血液があふれ、金切り声が押し出された。おののく彼女の顔がアップになるたびに、俺は悲鳴を上げてノートパソコンを閉じるのだが、すぐにまた視てしまう。なんとか逃げおおせてくれ、あるいは化け物をやっつけてくれと切実に願うのだが、叶うことはなかった。

 妻は、常に惨殺される存在だった。

 リカバリの操作を失敗したために、俺の妻は{粗物}の邪悪な箱に閉じ込められてしまった。最悪なのは、あの店長のようにデスクトップの壁紙の中にとどまるのではなくて、ホラー映画の中でしか存在できないということだ。彼女に会うためにノートパソコンを開くと、すぐに動画再生が始まり殺戮が開始される。可哀そうに、彼女は好きだった映画をのん気に視聴するのではなく、視聴される側になってしまったのだ。


 毎日のように、俺はノートパソコンで妻を視聴することを欠かさない。そこは、世間では行方不明となっている彼女と会える唯一の場所なのだ。殺人鬼や化け物、魔物らに襲われて常に血まみれであるが、恐怖で引きつった表情しか視ることはできないが、まごうことなき俺の連れ合いがいる。意思疎通はできないし、触れることも不可能だ。だが、どんなに厳しい状況であろうが彼女と会えることは喜びであり、また会えない日々はつらすぎる。俺一人でいることは苦痛でしかない。  

 だから妻を視聴する。

 彼女の身体が引き裂かれようが悲鳴が鼓膜を突き上げようが、俺は視聴する。歯を食いしばって妻を視続けるのが、夫である俺ができることのすべてだからだ。そして、彼女の痛みが自分に同期するように願ってやまない。殺人鬼に頭蓋を割られるのなら、その炸裂する激痛を俺も受け取りたい。内臓をえぐりだされるのなら、その極限の苦しみを俺も享受したい。なんでもいいんだ。一緒になにかを共有しているということが、夫婦であることの証であるから。

 たけど、実際に情け容赦なく殺戮され続けるのは妻一人だ。俺はいつも視聴するだけの、ダメな夫でしかない。


 ノートパソコンの画面を見る日々が続いていた。何日も、何か月も視聴し続けた。そんなある日、重大な異変に気がついた。妻のお腹が大きくなっているではないか。下腹のあたりがぷっくりと膨らんで、いかにも身体が重そうに動いていた。霞のような彼女が最後に放った言葉を思い出した。

 そうなのだ、妻は俺の子供を身ごもり、胎児は順調に育っている。ただし、妊婦になっても犠牲になるのは同じだった。大きなお腹の女性が殺されるのは、より残酷さが増して悲惨の極みだった。そのシーンの血生臭さは半端なものではなく、時には化け物に胎児をえぐり出されたりもした。

 俺は何度も吐いて嗚咽をもらした。しまいには狭いアパートの中で絶叫したりもした。どうすることもできないもどかしさに気が狂いそうになった。大量の焼酎を浴びるように呑んで、もう二度と視るまいと誓ったが、その気持ちはすぐにくじけてしまった。結局、俺は視聴してしまうのだ。

 ああ、そのビデオを視てはいけない。絶対に再生してはダメだ。俺は画面に向かって叫んだ。妻は呪いのビデオを視ようとしていた。薄暗い部屋で、砂嵐のテレビ画面をじっと見つめている。しかも幼い男の子と一緒だった。その子は妻の息子であり、もちろん俺の息子でもある。そう、妻は出産していた。惨殺される日々の中で男の子を出産し、ともにホラー映画の渦中にいた。しかも母子ともに、常に被害者となる運命である。


 俺の妻子は繰り返し惨殺されながらも成長し、年をとる。やがて息子が結婚し孫が生まれるだろう。ホラー映画の中で、わが家族の血脈は受け継がれてゆくのだ。そしてこの狭小なアパートでたった一人、俺は家族の行く末を視聴する。愛しい妻と息子、そして子孫たちが惨殺されるさまを。


                                  おわり

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視聴される妻 北見崇史 @dvdloto

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