第7話

 地上の階段を下り、地下通路へ進む。階段は角が丸くなるほどすり減ってはいたが、もう何年も直される気配はないままだ。

 ひょっとしたら十年後には坂になってるかもしれないなどとどうでもいいことを考えていると、暗く湿った空間からはいくつもの怪しい金儲けの話、嘘っぽい体験談、そしてそれらに応える、干からびたようにかすれた笑い声などが聞こえてきた。


 地上の表通りは明るいし、巡回の警邏やさっきのような軍人が闊歩していて、かっぱらいやナンパも少ない(あるにはあるが)。

 だがこの地下通りには、少なくとも見渡す限り、愛想笑いが存在していない。

 この街の愛すべき特徴なのかもしれない。

 少なくともジフは、地下に広がる、洗練された大都市における汚泥とも呼べるこの場所が嫌いではなかった。


 ジフ自身、こうした場所に救われた経験もある。

 孤児院を出て数日後、早くも飢えて死にそうになりながら放浪した時のことだった。


 衣服はぼろぼろ、顔中は泥にまみれて真っ黒、もちろん懐には1ガメルも無し。

 そんな風体のジフが地下通路に行き着いた時に彼らは笑顔を向けてこう言った。


『おぉ、新入りか』


 一人がジフに水を与えると、魚の切れ端やら野菜クズを煮込んだどろどろの液体やらをジフに喜んで押し付けてきた。


 初めて親と友人を得たような、そんな気持ちになった。

 もちろん美談にするには、みな汚すぎるけれども。




 全くの他人から笑顔を向けられる。

 それは恐らく他愛のないことなのだろうが、ジフにとっては初めての経験だった。


 キングスフォールの南方にある南方国際鉄道上には、サウスロンドというほとんど無人駅となっている閑散とした駅区がある。


 ジフはサウスロンド駅区で生まれ、育った。だが、故郷と呼べるほど愛着があるわけではなかった。

 両親には謎が多く、とにかく気づけば両親共に姿を消していたらしい。

 らしい、というのは、両親がいなくなった頃のジフはまだ生後間もなく、小さな孤児院を兼ねた教会に置き去りとなっていたのをシスターが発見した、というのを後になって聞いたのだった。


 孤児院での日々に、良い思い出はない。

 ジフ自身は別に敬虔な信者でもなく、清浄潔白たる心根の持ち主でもない。ただ、子供ながらに「生かされている」という事は理解しており、彼らの神に祈ったり、孤児院を手入れしたりすることに義務感らしきものを抱いてはいた。


 そして、悪い思い出もほとんど存在しない。

 シスター達は公平性を重んじる生真面目さがあったため、リカントだからという理由で何か嫌な思いをしたことは少ない。

 彼女らは熱心に、それほど真面目でもなく優秀でもないジフに読み書きを教えてくれた。

 なんでも「契約書が読めないと大変なことになってしまいますよ」ということらしい。今にして思えば、とんでもなく現実的な教えを子供相手に実践していたようだ。


 その公平性を重んじる教えが、ジフは自身の考えと少しずつズレが生じてきたことを感じていた。

 ジフは、身内であれば多少のえこひいきは許されると考えていた。そして、武器や知性といったものは自分にとっての大事なものを守り、養うためにこそ使われるべきなのではないかと感じていた。


 もちろん、それを神官達に言うわけにはいかない。


 公平性をこそ、彼らはジフに教えてきた。

 その子供が成長して、むしろ公正無私という素晴らしい教えを否定するような青年が育ったなどと知られたら、彼らはどんな顔をしてしまうのだろう?

 理由の分からない息苦しさと居心地の悪さがじわじわと迫りくる心地に、さすがにジフは参ってきた。

 やがてジフは、心の中に虚無が生まれたことを自覚した。


『あら、そうなのぉ。かわいそうにねぇ』


 今となってはどこで誰に言われたのか全く思い出せないが、誰かに言われた何の気なしの言葉は衝撃となってジフを叩いた。

 自身の人生、それが『かわいそう』なのかどうか、そもそも考えた事すらなかった。

 比較対象たりうる別の人生をジフは知らなかった。それからは、前にもまして一層、表情が動かなくなった。

 もし本当に自分が『かわいそう』だったとしたら?他人から何を言われようが知ったことではないが、もし、自分でもそう思ってしまったら?


 それからは誰に何を言われようとも、どんな文章や絵画も、神父の説教でもジフの心は動かされなくなってきていた。

 言語は理解しても、理論や理屈といったものに全く触れてこなかったジフはとにかく感情や直感しか頼るべき価値観が育っていなかった。彼はいつも通り、自身の直感に頼ることにした。


 そして、リカントの青年は教会の扉を開けた。




 黴臭さを感じる生ぬるい風がどこかから吹き込んでくる。暗い地面の下、ジフは第二の故郷に帰ってきたような気分を味わっていた。


 何かと理由をつけてろくでもない創作料理を振る舞ってくれたゴンラさん、元気かな。

 別れた奥さんの文句ばかり言っていたマルさん、今頃は仲直りしたんだろうか。


 感傷的になってしまった自分を戒めるため、ジフは意識して少しばかり強く足を踏みしめ、歩を進めていく。

 優しかったみんなのうち、2割は飢えと病気で死んだ。

 4割は暴力沙汰で死んでいった。不幸な事故もあれば、自業自得な結末もあった。

 故郷だなどと思ったものの、顔が分かる根無し草達の顔ぶれも、だいぶ新顔と入れ替わった。得も言われぬ寂寥感を感じずにはいられない。


 この世界は残酷だ。

 自身より他者を気遣う優しい者、そして安心して油断をした者から順に死んでいった。だがそれが仕方がないなどとは絶対に思わない。


 己を正義の勇者だなどと思い込めるほどジフは純真ではなかった。

 だが、自分の身内と感じている者達を守るぐらいのことはしてやりたいという気持ちに偽りもない。




 冷めた様子で、それとなく周囲に気を配りながらゆっくり進んでいく。

 ふと、焦った様子の露天商が店じまいをしている姿が目に映った。

 多分に漏れず垢だらけの顔に、ほつれだらけの灰色ジャケット、大きな赤っ鼻。

「エリフさん」記憶が刺激され、思い出した名前がつい口から出てしまう。

 驚いた様子の露天商――エリフは体をこわばらせたが、やがて破顔して緊張を解いた。

「ジフじゃねぇか!久しぶりだなぁ」

「ああ、実はちょくちょくこの辺に寄ってはいるんだけど……もう店じまいするの?」

「あー、うん。今日はちょっとなあ」

 思い切り嫌な顔をして、エリフは通路の奥にある鉄扉を見た。

「ひょっとして、ガサ?」言いながら、違うだろうなとジフは思った。

 盗品の違法取引を取り締まる名目で、警邏はたまにこういったところまで巡回することはある。

 だが、通路の脇道といえば巧妙に隠されている。あの鉄扉にしても、暗さと汚れによるカムフラージュで、その存在を知っていなければまず素通りしてしまう。そして、地下通路の住人たちは絶対に脇道の存在を漏らさない。そんなことをしても、彼らにとっては百害あって一利なしだからだ。

「ガサなんてもんかい」

 エリフは途端に口の端に泡をつくって怒り狂った。

「赤い髪の女が、ここの誰かをカネで買ったんだ。誰かがあそこを漏らしたに決まってる」

「女?誰だい、そいつは」

「えらく美人だったけどよぉ、チェッ、ありゃなんていうか、殺しをやってる奴の目だったね。チェッ、しかもそのあとに良い身なりの若い男も入っていったんだ。こんなとこで逢引きたあよ、金持ちの道楽ってのは付き合いきれねえ。こっちの迷惑も考えてほしいもんだ」

 興奮しているからか、やや説明不足気味だが、とにかく怪しげな赤い髪の女があの鉄扉の向こうにいるということ、そして、それはここの誰かが金銭を引き換えに情報を渡したからだとジフは脳内で補完した。

 本気で腹立たしいのだろう、特徴的なまでに大きな舌打ちをしながらまくしたてるように話してくる。


 曲がりなりにもジフは地下街での立ち振る舞いを知っている。情報の真偽を確かめるような愚行は犯さない。彼らは筆舌に尽くしがたい矜持を持っている気難しい連中でもあるのだ。

 とにかく信用した態度を取って次の質問を発した。


「そんなの無視して商売できないの?」

「それがな、今日になっての妙な連中がここらに来てなんか企んでるらしいのよ。こりゃ絶対、なんかあるね。チェッ、巻き添えを食うぐらいなら、今日は別の駅区に行って商売すらあな」


 なるほど、さっき見た近衛隊とやらか。

 それにしても、犯罪者同士のネットワークというのは恐ろしい。ガサ入れの気配がしたら末端にまですぐ情報が伝達する。


「そうなんだ。じゃ、急いだ方がいいね。邪魔してごめん」

「ジフ!」

 何気ない風を装ってそそくさと立ち去ろうとすると、真剣な声色でエリフは呼び止めた。いつしか、さっきまでの激怒は収まっていた。


「よくわかんねえけどよお、無理すんなよな」


 不意打ちと言えば、これ以上のものはなかった。どんな言葉を返せばいいのか数秒考え、立ち尽くしたが分からない。

「うん」

 なぜか顔が熱くなってきてエリフを直視できなくなってしまい、逃げるように立ち去った。


 ジフは己の胸中に生まれた、ざらざらしたような感情が何なのか、全く理解できなかった。

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